小学校の図書室で思うこと
先日、うっかり読み終えた本の上にトトロを乗っけて写真を撮りましたら、
トトロよりも本の方に注目が集まってしまいました。(人のことは言えませんが、みなさま本がお好きですよねえ。)
実は「小学校の図書室で思うこと」をいくつか記事にしようかなと思っていたのですが、この本はそのラストに登場するはずでした。
でもさっそくみなさまの目に留まってしまったので、トップバッターはこの本に。
アントニオ・G・イトゥルベ著 小原京子訳 集英社
アウシュヴィッツ強制収容所に、囚人たちによってひっそりと作られた“学校”。ここには8冊だけの秘密の“図書館”がある。その図書係に指名されたのは14歳の少女ディタ。本の所持が禁じられているなか、少女は命の危険も顧みず、服の下に本を隠し持つ。収容所という地獄にあって、ディタは屈することなく、生きる意欲、読書する意欲を失わない。その懸命な姿を通じて、本が与えてくれる“生きる力”をもう一度信じたくなる、感涙必至の大作(「BOOK」データベースより)
本書はフィクションの形をとっていますが、実在の人物をモデルに書かれた、限りなくノンフィクションに近い小説です。
国際監視団の目をごまかすために、子どもの一部を生かしておき、家族と一緒に収容しておく必要がナチスの側にあったのでしょう。
アウシュビッツ31号棟もそのひとつ。
(ちなみにユダヤ人虐殺の「噂」の真偽を検証するため、赤十字は実際に国際査察団を派遣しています。ただし派遣先はアウシュビッツでなくテレジン収容所。その模様は後述「テレジンの小さな画家たち」に詳しいです。)
しかし、そこはアウシュビッツ。
常に大量の死と隣り合わせ、なにをするにも命の危険がつきまといます。
また、子どもたちに教育を施すことも許されてはいませんでした。
それでも、ユダヤ人たちは、ナチスに知られないよう、ひっそりと学校を開きます。
見つかれば無事ではいられないでしょう。
中でも、厳しく禁止されていたのは「本」の所持。
誰かがささやく。「〈司祭〉だ!」
すると、悲痛なざわめきが広がる。いつも聖職者のように軍服の袖に両手を入れて歩くシュタイン親衛隊曹長はそう呼ばれている。ただし、彼が信じているのは残酷という名の神だけだ。
教師が二人、追い詰められた表情で顔を上げる。彼らはその手に、アウシュビッツで固く禁じられているものを持っていて、見つかれば処刑されてもおかしくない。
それは銃でも、剣でも、刃物でも、鈍器でもない。第三帝国の冷酷な看守たちがそこまで恐れているもの、それはただの本だ。表紙がなくなってバラバラになり、ところどころページが欠けている読み古された本。
人類の歴史において、貴族の特権や神の戒律や軍隊規則をふりかざす独裁者、暴君、抑圧者たちには、アーリア人であれ、黒人や東洋人、アラブ人やスラブ人、あるいはどんな肌の色の、どんなイデオロギーの者であれ、みな共通点がある。誰もが本を徹底して迫害するのだ。
本はとても危険だ。ものを考えることを促すからだ。
本という本ははすべて没収され、
運よくナチスの目から逃れた本も、暖をとるため焼かれたり、トイレの紙として消耗されてしまい、31号棟の学校に残された本はたったの8冊。
そのたった8冊も、ナチスに存在を知られれば、所有者ごと無事ではいられません。
最後の貴重な本を守るための図書係に選ばれたのはエディタ、わずか14歳の少女なのでした。
「死の天使」の異名を取るメンゲレ大尉に目をつけられながら、驚くべき忍耐力と我慢強さとで、頑固に、かたくなに本を守り抜いていくエディタ。読者として彼女の毎日を追体験するのは、時に息が詰まるほど恐ろしく、苦しいものでした。
けれどエディタにはわかっていたに違いありません。
地獄のような環境にあるとき、人には本が必要であることに。
父さんは正しかった。あの本は、どんな靴よりも遠くまでディタを連れていってくれた。
その本、トーマス・マンの「魔の山」の表紙を開いた瞬間を思い出すと、アウシュビッツの粗末なベッドの中でも、ディタには笑みが浮かぶ。
本を開けることは汽車に乗ってバケーションに出かけるようなもの。
この一文を読んで、私は心の底からエディタに共感せずにはいられませんでした。
「本を開けることは汽車に乗ってバケーションに出かけるようなもの」
本が好きな人なら、誰だってこの言葉に深くうなずくことでしょう。
でも、だからこそ、真剣に考えこんでしまいました。
この環境にあって、自分だったらこんなにも本を守ることができるだろうか、
そしてまた、
この環境で、私は本なしで、生きられるだろうかと。
物語の中盤、8冊の本のうち、フランス語で書かれていたためエディタには読めなかった本が「モンテ・クリスト伯」という本であることを教えられた彼女は思います。
こんなに多くの無実の人々を苦しめている彼らに同じ痛みを与えられたらどんなにいいか。でも、物語の初めに出てくる明るく人を信じやすいエドモン・ダンテスの方が、後半の計算高く憎しみに満ちた男よりも好きだと思ってしまう自分に、ちょっと落ち込む。本当に自分は復讐なんてできるのだろうか。斧の一撃がみずみずしい木を乾いた薪に変えてしまうように、運命に痛めつけられると、望むと望まないとにかかわらず人は変わってしまうのだろうか。
中略
「私たちが憎しみを抱けば、彼らの思うつぼです。」
ディタはうなずく。
これほどの過酷な運命の中にあって、彼女の感性の、なんとまっすぐで健やかなことでしょう。彼女の心にいくら恐怖と憎しみを植えつけたとしても、ナチスはついに彼女の精神を貧しくさせることはできなかったのです。
そのことに、本が、物語が貢献したに違いないと私が思うのは、強ち間違いでもないと思います。
本書の魅力はエディタの活躍だけにあるのではありません。
多くのユダヤ人や実在のSS親衛隊員が登場し、ある者は裏切り者となり、ある者は恋をし、ある者は脱獄の道を選ぶ…様々な人間模様が入り乱れ、また最後まで、複数の謎が交錯します。
読者は第二次世界大戦の終結と収容所の解放という史実を知っていますが、作品の中に提示された「どうなるのだろう」「なぜだろう」という問いが最後まで生きているので、ラストまできちんと「おもしろい小説」になっています。
ホロコーストに関する小説はもうたくさん、と思う方にもオススメの1冊です。
また、最後に「驚き」もありました。
小学6年生の教科書に採用され、また数年前の課題図書でもあった「テレジンの小さな画家たち」。
この本の中に、生き残ったエディタの現在の姿と、彼女がテレジン収容所で描いた絵が掲載されているというのです。
私も数年前にこの本を読んでいましたので(子どもが小学生だったころ、この本で読書感想文を書きました。手伝わされました。むむう。)、慌ててボランティア先の学校図書館で確認してみました。
149ページ。
現在のエディタの写真と彼女がテレジン収容所で描いた絵が掲載されていました。
私の唇からは、思わず声が漏れました。
「ああ、ディタ。」
あとの言葉は涙にしかなりませんでした。
凶悪な運命から8冊の本を守り抜いた小さな図書係さん。
齢を重ねても、そのまなざしの強さは、彼女が頑固で勇敢な少女であったことを彷彿とさせました。
私がボランティアをしている図書室は取り立てて特徴のあるものではありません。
でも、子どもたちがいつもたくさんの本を読んでいます。それを誰かに見とがめられることはなく、逆に子どもたちは「賢いねー」と褒めてもらえます。
それが当たり前だと思っていたけれど、149ページの写真の女性は本のために、文字通りその命をかけなければならなかったのです。
古くてボロボロの、破れてページもバラバラになった本のために。
私は子どもたちが本を投げるたびに、粗雑な扱いをするたびに、いちいち注意をせずにはいられません。
そのたびに子どもたちは「きょとん」とした顔で私を見上げます。
仕方がないと思います。
「ありがたみ」とは、失って初めて立ち現れる感覚ですから、まだ幼い彼らにそれを実感しろと言っても無理な話です。
だから、破れたり、背表紙が剥がれたりしている本を見る度に、何度でも補修すればいいこと、読まれずに本棚に飾ってあるだけの本よりは幸せなはず、と自分に言い聞かせて、できることなら、こんな風に潤沢に子どもたちに本を与えられる時代がずっと続きますようにと祈るのです。
そしていつの日か、彼ら自身が「アウシュビッツの図書係」のような本に出会って、自由に本を読めることがどれほど幸せなことかを知り、本を大切にしようと「自ら」考えてくれるようになることを願うのです。
「本はとても危険だ。ものを考えることを促すからだ。」
こんなことを、二度と誰かに言わせてはなりません。