まだまだ真田丸散歩

真田丸」ゆかりの地のお散歩、続きます。

 

 

ごく最近のことなのですが、新しい資料が発見されたとかで(←松平文庫だったかな・・・詳しいことは知らない・・・)、幸村終焉の地が、安居神社ではなく、

「愛染堂(勝鬘院)と生國魂神社の間のどこか」

だったという説が浮上してきています。

 

「どこか」って悩ましいですよねえ・・・。

 

「安居神社」の関係者も心穏やかではいられないんじゃないかしら。

あれだけ「幸村終焉の地」って宣伝してるのに。

「愛染堂」か「生國魂神社」か、はっきりしてたらまだいいと思うんですよ?

でも・・・。

 

「どこかはっきりせえへん」のやったら、もうウチでいいやん!長いことそれを売りにしてるんやから!

 

とか思ったりしないのかしら。ねえ?

 

・・・なーんてことを母とわあわあ言いながら、それでもせっかくここまで来たのだから、と「愛染堂(勝鬘院)」と「生國魂神社」にもお参りしていくことにしました。

 

まずは「生國魂神社」から。

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「生國魂」と書いて「いくたま」と読みます。

大阪人にとってはとても馴染みの深い神社で、大阪を代表する古い神社のうちのひとつです。

この日はお正月の4日でしたが、まだまだ参拝者がたくさんいて、そのお顔が写り込むのを避けようと思ったら、上のような写真になってしまいました。

 

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鳥居の中では、こんな具合に参拝者の長い列ができていて、地元の人からとても愛されている神社なのだと実感できます。

また、この生國魂神社は「天王寺」のど真ん中にあり、大阪の文化や歴史と密接な繋がりがあるだけに、境内には、

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夫婦善哉」で有名な織田作之助や、

 

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好色一代男」でお馴染み「井原西鶴」像なんかもあったりします。

 

ま、織田作之助はわかります。写真、残ってますものね。

でも「井原西鶴」のお顔がこんな風だったかどうかなんて、誰にも検証できないはずなのになあ、ってちょっぴり複雑。なにこの落語家みたいな銅像・・・。

そんなことを言い出したら幸村像だってどんな顔だったかわからないし!って言われるかもしれないけど・・・文学者と銅像って、あんまり相性がよくない気がします。(←あくまで「マミーの頭の中」のお話し。)

 

この生國魂神社はもともとは、今の大阪城の辺りにあったのを、大阪城築城のため、秀吉の命で現在地に遷座させられて今に至ります。

 

自らのお城の築城のために、神さまにお引っ越しさせるなんて、当時の秀吉の権勢の凄まじさがしのばれます。

 

 

ではでは次は愛染堂(勝鬘院)へ。

 

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「愛染まつり」「愛染かつら」でとっても有名、こちらも大阪人には馴染みの深い神社です。こちらでは「愛染さん」と親しみをこめて呼ばれることが多く、「縁結び」「夫婦和合」の神さまとして有名です。

 

毎年夏の「愛染まつり」にはかわいらしいお嬢さんたちが「宝恵駕籠」に乗って街を練り歩くパレードがあって、大阪の夏の始まりを告げます。

こんなの。

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(写真はネットからお借りしました。) 

 

でも今は冬なので・・・。

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境内はこんな感じ。

年始なので秘仏愛染明王のご開帳もされていました。

 

また、愛染さんの境内には、重要文化財聖徳太子ゆかりの「多宝塔」もあります。

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残念ながらもともとの多宝塔は、信長の石山寺攻めの際に消失しましたが、その後秀吉によって再建され現在に至ります。

四天王寺ですら第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったので、この多宝塔は大阪市内最古の木造建築になります。

 

母とベンチに座ってこの多宝塔を見上げながら、人がいとも簡単に、命を落とした時代について語り合いました。

あまりにもあっけない「死」がそこかしこに溢れていた時代には、こんな仏教建築は、きっとただの「建物」以上の意味を持っていたのでしょう。

現代人には理解できないほどの真摯さでこんな大きな塔を建て、見上げ、拝んだ人々の切実な祈りが、今も周囲に漂っているような気がしました。

 

 

す、すみません、長くなりました、あと一回、続きます。

新しい大河ドラマも始まったのに、タイミングが遅すぎ!かもしれませんが、どうぞもう少しだけおつき合いくださいませ。

(ちなみに今日の大河ドラマを見て思ったのですが、最近の子役の演技力ってスゴイですよねえ・・・。子どもをあんなに泣かすなんて!って思いながら、私が泣いてました。ほほ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真田丸散歩三回目

昨年末、「真田丸」最終回記念として、真田幸村関連の史跡を訪ねたことを、2回に分けてお話ししました。

 

 

実はこの後、私が「安居神社」に行ってきたことを知った母が、

 

「私も行きたい!」

 

と大騒ぎを始めました。

 

 

「えー、今行ってきたのばかりなのに・・・。」

と思わないでもなかったのですが・・・。

でも、昨年は体調を崩し、一時は枕から頭も上げられないほどだった母が、あちこち出歩きたいと言えるようになるなんて!と、それがとってもうれしくて、つい、

「お正月休みに、一緒に行こう。」

と約束をしてしまいました。

 

で、お正月休み最終日。

行って参りました、「真田丸」に関する史跡めぐり、再びです!

 

 

・・・え?

 

もう飽き飽き?

 

わ、わかります・・・わかりますけどっ!

 

前回とは違うところにも行ってまいりましたので!

どうかしばらくおつきあいください!お願い!

 

まずは前回と同じく安居神社から。

撮り損なっていた、天満宮としての象徴、牛さんをパチリ。

 

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ね?

 

やっぱりここは天神さんでしょう?

 

ちなみに左端にちょこっとだけ写り込んでるのは幸村銅像の足です。

私は幸村に、

「また来たん?ヒマなん?」

って言われるような気がして、遠巻きからの見物にとどめましたが、母は幸村像に大感激、近くでまじまじとご尊顔を拝していました。

 

そういえば、ここ安居神社では、

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芸能人の絵馬も発見。

 

片岡愛之助さんはつい最近、取材で見えたようですね。

個人的には加藤雅也さんの絵馬に大興奮。

昔っからのファンなのです。かっこいいですよね!

 

と、真田丸には関係のないことで盛り上がるのはこの程度にして、次の史跡ポイントに参ります。

 

次に訪れたのは「三光神社

「真田の抜け穴」(大坂城から脱出するため作った抜け道という伝説あり)がある神社として有名な神社です。

 

その「真田の抜け穴」というのがこちら。

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普段は施錠されているのですが、毎年、秋の11月第一日曜日は開放されます。

 

写真を撮っていると、どこの誰ともわからないおじさまに、

「この抜け穴通って、大阪城まで行ってきたらええで~。」

なんて声をかけられたのですが(大阪ではそういうことがしょっちゅう起ります)、残念ながら、この「抜け穴」は出口から10メートルほどの空間しかありません。

なので、豊臣方あるいは真田勢が作った抜け穴というよりは、徳川方が攻勢のために掘った穴ではないかという説もあり、はっきりしたことはわかっていません。

 

でも、九度山を脱して大坂に駆けつけた幸村のこと、こんな抜け穴だってどこかに作ったのではないかしら、なんてつい想像してしまうのが大阪人というものなのでして・・・すぐ隣には、こーんな

 

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凛々しい「真田幸村公ノ像」も建っていますので、テンションもますます上がってしまうのです。

で、三光神社境内。

 

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天照大神、月読尊、素戔嗚尊をお祭りしている神社なのですが、社殿に近づくと・・・

 

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そこには真田幸村

 

どどーん!と幸村。

 

幸村イチ推し!

(むしろ幸村頼み・・・)

 

幸村、愛されてるなあ、と感心しながら三光神社を後にしました。

 

ここからは、真田丸跡を目指して歩きます。

もっとも、どこが真田丸だったのかについては、はっきりとした確証があるわけではないのですが、それでも有力候補地はあるわけでして。

 

とくに天王寺のこの界隈は、地名もずばり「真田山」。

近隣には「真田山幼稚園」があったり、マンションやアパートの名前など、至るところで「真田」の名称を目にします。

 

途中、坂道にさしかかりました。

 

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写真、ボケボケですが・・・大阪市内には珍しく、結構な傾斜です。

大坂の陣では手前が大坂方、この坂道の下側から徳川方が攻め上ってきたのでしょう。

 

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坂の上には「真田丸顕彰碑」。

大阪明星学園テニスコート横に昨年2月に建立されました。できたてほやほや・・・。

でも、昨今の「真田丸」人気のせいか、

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顕彰碑の下の「六文銭」の上にはたくさんの五円玉が。

写真を撮る観光客もたくさんいらっしゃいました。

また、明星学園の校舎壁面には生徒さんたちによる壁画も。

 

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去年は学校中で真田勢を応援してたんだろうなあ・・・。結局負けたけどさ・・・。

 

この大阪明星学園テニスコートのすぐ目の前には、真田幸村、大助父子を弔うために建てられた「心眼寺」というお寺があります。

 

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「日本一の兵」幸村。

その武勲にあやかりたいと願った武将たちは、幸村の遺髪をこぞって奪いあったと言われていますが、江戸時代には、さすがに敵方であった幸村父子の墓を、堂々と建てることはできなかったようです。

それが最近になってやっと、墓碑が建立されたのですって。(2014年)

 

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楠木正成もそうですが、時代によって毀誉褒貶が移り変わるのが人の世の習いなのかもしれません。毀誉褒貶とまではいかなくても、むやみに持ち上げられたり、かと思えばすっかり忘れられたり、再評価されたり。

 

現代を生きる人間が、そんな風にあれこれと騒がしいのを泉下の人々はどんな風に眺めているのでしょう。

 

幸村の真新しい墓碑の前に立つと、きっとあちらの世界でもかしましい人というのはいて、

「ねえねえ、真田丸ってほんとはどの辺にあったの?どれくらい勝てると思ってた?」

なんて、何度も聞かれて、幸村も閉口しているのではないかしら、などと考えたりしました。

 

時とともに風化し、忘れられていく人間が多数派なのに、こうして忘れられずに名を残し、いつまでも忘れられないための工夫をされる幸村。

それはやはり武士の本懐と言えるのかもしれません。

 

このお散歩、もう少し続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

謹んで新春のお慶びを申し上げます。

みなさま、あけましておめでとうございます。

よき初春をお迎えのことと存じます。

旧年中は並々ならぬご厚情をいただきました。

あらためてお礼を申し上げるとともに、本年も引き続きご芳情を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

 

 で、みなさま。

 

お気づきでしょうか?

 

このお正月からブログデザインを変更してみました!

しつこいようですが、「機械」に弱く、平素は決して「設定」をいじらない私・・・。

通常ならブログデザインを変えるなんて面倒なこと、決してやらないのですが、でも先日、わっとさま(ID:watto)から、コメント欄不調の改善のために、

「ブログデザインを現在の「Airmail」から別のものに変更してみては?  」

というブックマークコメントをいただいたので、挑戦してみる気になったのです。

 

ついでに、未だになんのことやらさっぱりわかっていないツイッターにも、今年はちゃんと向き合ってみようかという気になり、サイドバーにツイッターを埋め込んでみました!

 

なんていう成長でしょうか!

我ながら、できたときには画面に向って「おお!」と感嘆の声を上げてしまいました。

(・・・言っときますけど、ここ、褒めるところですから!・・・ここをのぞけば、あとは褒めるところなんてないんですからね・・・。)

 

とりあえず、時間がいっぱいかかりました・・・。

みなさま、こんな苦労をして、ブログのカスタマイズをなさってるんですねえ・・・。(・・・は?こんなことで苦労するのはマミーだけだって?・・・わかってますけどね!お正月から凹むようなことは言わない約束です!)

 

ブログデザインを変えたから、もしかしてコメント欄も調子がよくなるのでは?!と期待しております。

 

ということで、みなさまからのコメントを大募集♡

 

ちなみに、機械に弱い人間にありがちなことですが、「同じことは二度とできない」のでありまして・・・。

たとえコメント欄が依然として不調であったとしても、もうブログデザインの変更はしたくないのです。面倒なのです。設定画面はもう見たくないのです。

なので、しばらくはこのデザインで参ります!

 

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 (わっとさま、アドバイスありがとうございました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はてな」さんからお返事が来た!

 

みなさまこんばんは。

最近、ずっとコメント欄の不調に悩んでおりましたら、

 

はてな」に問い合わせたら?

 

というお声を多数いただきました。

 

・・・いや、私もね?聞けるものなら、すぐに聞いてましたよ?

でも、私の場合、そもそも「はてな」に問い合わせをしたくっても、

 

それって、どうやるんだろう?

 

という「そこから?」な問題が発生するわけでして。

 

なので、コメント欄が元通りになるのを「直らないなあ、いつまで続くんだろう」とひたすら待っていたのですが、やっぱりただ待っているだけでは埒が明かない!と一念発起、がんばって「はてな」さんにメールしてみました。

 

すぐに自動送信で「ちょっと待ってね!」のメールが来たのですが、そこから待つこと数日・・・昨夜、とうとう「はてな」さんから回答のメールが来ました。

抜粋しますと・・・。

 

はてなブログのコメント欄に新しい投稿を行った際に、新着のコメントが消えることがあるとのこと、
ご不便をおかけしてしまい大変申し訳ございません。

他のユーザー様からも同様のご連絡いただいており、弊社側でも不具合を確認した状況となっております。
現在、修正対応を検討させていただいておりますが、対応にはお時間をいただく見通しとなっておりますので、
すでに操作いただいております通り、コメントが消えた場合にはページの更新を行っていただけますと幸いです。

 

ほら!ほらほらほら!

ね?

ほんとに「はてな」さんからのメールです!すごい!!!

 

みなさまにしてみれば、なんでこんなことで私が喜んでいるのか、さっぱりわかんないかもしれませんけれど、私にとりましては、なんだかすごいことを成し遂げたような(←意味不明)、大発見をしたような(←さらに意味不明)、とっても高揚した気分なのです、今。

 

ああ、「はてな」って、ただの機械じゃないんだなあ。

そこで働いている「生身の人間」がいるんだなあ。って気持ち。(←当たり前)

 

なんだかもう、コメント欄のことはどこかにふっとんで行って、

日頃お世話になっている「はてな」という場所のために働いている社員さん達が、この年の瀬に、なるべく早くお家に帰れるように、コメント欄のことはゆっくり来年にでも解決してくれたらいいよ!って気分になりました。

 

ついでに、最近よく思うのです。

 

「ブックマークって何?押していいの?」って悩んだり、

過去記事や他のブロガーさんの記事を貼り付けることもできなくて、ブロ友さんに教えてもらったり、

最低限のことですら、ちっともできなかった私が、「はてな」に問い合わせできるようになるなんて、

 

すっごい成長じゃないですか!?

 

・・・と、誰も言ってくれないから、自分で言ってみました。

ちょっとむなしい・・・。

 

みなさまにとっては「当たり前」のことでも、マミーにとってはとっても難しかったり、ハードルがやけに高かったり、我ながら情けなくなることばかりですが、それでも今年1年、なんとか「はてな」を続けることができました。

 

これもひとえに、毎回駄文ばかりの当ブログを読んでくださるみなさまのおかげです。

今年も毎回おつきあいくださったみなさま、

そして今年新たに読者登録いただいたみなさま、

本当にありがとうございました。

 

また、最近更新のない方、「はてな」を去られた方、

どうも私はしつこく思いわずらう性質のようで、みなさまのことをいつまでも忘れられないだろうという確信がございます。

なので、さようならとは申しません。

またいつか、きっとお目もじ叶います日を、心よりお待ち申し上げております。

そして仮に、もうお目にかかれない方がいらしたとしても、マミーはずっといつまでも、みなさまのご健勝とますますのご活躍をお祈りしております。

 

今年の更新はこれが最後になろうかと思います。

みなさま。

1年間、本当にお世話になりました。

来る2017年が、みなさまにとって、輝かしいものになりますように。

そしてどうか来年も、一層のお引き立てを賜りますよう、お願い申し上げます。

 

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おまけ。

小さいくまさんを作ってみました。

コアラじゃありません。

くまさんです!

 

大掃除とか、やらなきゃいけないことが山積すると、別のことをやりたくなる法則・・・これを「怠け者の衝動」と呼びます・・・。

 

今度こそ。

 

みなさま、よいお年を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今度こそ、幸村自刃の地。「真田丸」最終回記念散歩

前回から続きます。

 

一心寺を出まして通りを一本渡ると、すぐに安居神社が見えて参ります。

 

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こちらの神社が幸村自刃の地。

ちゃんと碑も建ってます。

 

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さっそく参拝へ。

 

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本殿。

思っていたよりこじんまりしていて、ドラマ「真田丸」で見た幸村のラストシーンが、それなりに説得力のあるものだったんだとわかります。

狛犬も・・・

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「阿」と・・・

 

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「吽」。

 

ちょっぴりのんびりした風情。戦国の荒々しさはあまり感じられません。

 

それもそのはず、実はこの安居神社、元はと言えば、天満宮でもあるのです。

なので、境内には牛の像もあり、(写真はないの・・・撮り忘れちゃって、てか、この辺りですでにスマホの電池がやばいことに。←ぐだぐだ)安居神社ではなく、安居天神、安居天満宮などとも呼ばれています。

 

また、この神社は、大阪の中央、上町台地の端っこに位置しているので、鳥居をくぐると、こーんな、

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急勾配の階段が現れます。

 

つまりこの神社は「上町台地の上」に建っていて、この階段の下は昔、海だったことになります。

 

仮に大津波が大阪を襲った場合、この上町台地の上だけが無事であろうと言われていまして、ですから大阪では、上町台地の上は高級住宅街になるのです。

ただ、この上町台地の下には大阪最大の断層「上町断層」が通っていて、仮にその断層が動いたら、上町台地の上も下も関係なく、大阪は「えらいこと」になるでしょう・・・桑原くわばら(天神さんだけに・・・雷以外にも効くかしら?)・・・。

 

そもそも大阪は本来、この上町台地周辺こそが中心地で、その境界には昔から豊かに水が湧き出していたのですが、その水が湧き出る箇所に片っ端から神社を建てまくったので、この辺り一帯はものすごい数の神社仏閣があるわけです。

歩いていると、ここにもそこにも神社やお寺。で、お正月には初詣客がそこらじゅうに溢れることになります。

 

話しを戻しましょう。

幸村です。

もとは天満宮だったとはいえ、今や真田幸村終焉の地として知られている安居神社。

境内には幸村ゆかりのものがたくさん。

 

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石碑に、

 

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こちらは「さなだ松」。

この松の下で幸村が切腹したと伝えられています(切腹だったかどうかは諸説あり)。

 

そして幸村の銅像

 

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お顔のアップもいっときましょうか。

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ででん。(←意味不明)

 

ハンサムかどうかは・・・ちょっとわかりません。似てるかどうかも知りません。お目にかかったことないのでね・・・ね?

 

生粋の豊臣恩顧の家臣というわけでもなかったはずなのに、最後まで豊臣家に忠義と忠誠を尽くした幸村。

「その「徳」にあやかるために、どうぞこの銅像に触れてください。」

と説明書きにあったので、刀やお顔、左手なんかをやたらとペタペタ触らせてもらっちゃいました。

この銅像に触ったり、一緒に写真を撮ったりするための順番待ちの列までできていて、幸村の人気はすごいなあと感心しきり。

志半ばでこの世を去ったとはいえ、ここまで愛される武将もまた稀であることを思えば、幸村は幸せな武士であったのかもしれません。

 

「さなだ松」の下に立ってみました。

幸村もきっと、自刃の前には見上げたと思うのです。

上を。空を。

 

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この松の向こうに見える空は、幸村の胸にどんな思いをもたらしたのでしょう。

言葉に出来ないほどの無念さ、口惜しさ、そして残される者への愛惜。

 

400年の時を経てもなお、私たちの胸を打ってやまない真の武士の心情をたどって、やっと私の「真田丸」も本当の最終回を迎えたような気がします。

 

あ。

 

でも、この「さなだ松」、一回立ち枯れちゃって、今の松は昭和26年に植え直したものなんですって。

ちょっと残念!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また負けた!「真田丸」最終回記念、大阪散歩

 

くやしくて、くやしくて、

 

夜も眠れないほどです。

また今年も負けてしまった・・・。

 

大坂夏の陣

 

負け続けてこれで一体、何年目、何回目になるのでしょうか。

 

いいかげん、一回くらい勝たせてくれてもいいじゃないのっ!

きぃっ!

 

とつくづく思うのですが、期待を打ち砕かれ続けて、幾星霜・・・。

真田幸村なんて、トータルで何回自刃したことやら、気の毒すぎて目も当てられません。

 

というわけで、ひとことくらい、「お疲れさまー!」って言って差し上げたくて、行って参りました。真田幸村ゆかりの地。

 

まずは大阪の大動脈・地下鉄御堂筋線天王寺」駅を降りてすぐ、「茶臼山」から。

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大阪市天王寺公園内にある茶臼山古墳。

 

大阪冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村が陣を立てた場所として有名です。

非常にこじんまりとした丘のような場所で、「古墳」という名称にはなっていますが、本当に古墳だったかどうかはよくわかっていません。奈良時代に、水路を作ろうとして掘り返した土を盛ってできた丘だという説もあり。

 

せっかくなので登ってみます。

 

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ふだんは閑散としていると思うのですが、今年はさすがに大河ドラマの影響で観光客も多いようです。

六文銭の旗とか、

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幸村の名言が書かれた看板なんかも立ってました。

上の写真にある名言「関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候」はドラマの中のセリフにもなってましたね。

 

茶臼山の上から、幸村はきっと南を向いて布陣したのでしょう。

現在、ここから南を臨むとこんな感じ。

 

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・・・木ぃしか見えへんやん。

 

木立が切れる場所までちょっとだけ移動しますと・・・

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 「あべのハルカス」が見えました。

今のところ日本で一番高いビルで、連日たくさんの観光客が訪れます。

幸村が見たらびっくりするんだろうなあ・・・。意外と大喜びで「上まで登る!」って言うと思うけど・・・でも、ハルカス展望台の入場券は大人1500円もするんですよ!?大阪に住んでるといつでも来られると思うせいか、「払ってでも行こう!」とはなかなか思えません・・・。

ちなみに真田家の旗印でもある、三途の川の渡し賃「六文銭」は現在の価値でいうと約150円くらいなんだとか。冥途への旅より10倍お高くなりますが、興味のある方はぜひハルカス展望台へ。大阪の街が一望できるそうです。

 

ということで、次のスポットに参りましょう。

ここからすぐ近くに幸村自刃の地、「安居神社」がありますので、そこを目指して歩きます。

途中、大阪人ならだれでも知ってる「一心寺」に立ち寄りました。 

 

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天王寺にはまともに数えるのがイヤになるほど多くの神社仏閣がありますが、この一心寺は「骨仏」でとても有名です。私の親族の多くも、こちらで骨仏にしていただいているので、お参りをさせていただきました。

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いつも多くの人がお参りしているので、ろうそくやお線香の煙が絶えることのない一心寺。写真奥に見えるお堂の中に骨仏がいらっしゃいます。

また、このお寺からは、大阪名物のひとつ、

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通天閣もすぐ近くに見えます。

つくづく大阪とは狭い街です。

 

ではではお参りも済ませたことだし、安居神社に向かいましょう。

 

でも長くなるので、残りは次回に。

 

とは言っても「超」がつく方向音痴のマミーのことですから、2回に分けてもたいしたレポートはできません。

いつものぐだぐだっぷりが続くだけですが、それでもあと1回、お付き合いくださいね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふたつ目のクリスマスケーキ

 

私には「父の思い出」というものがほとんどありません。

 

幼い頃から、両親の仲は険悪で、ずっと別居しておりましたから、父と暮らした記憶がほとんどないのです。

 

日本がまだ、右肩上がりの経済成長を、これでもか、というほどの勢いで成し遂げていた時代、多くの男性がそうであったように、私の父もまた家庭を顧みず仕事に没頭し、その上浮気や母に対する暴力もあったため、私が物心ついたときには、両親の仲は冷え切っていました。

 

子どもというものは、意外とそんな事情をそれとなく感じるものでして、私もひとつ違いの弟も、両親の不仲については誰に説明されなくても感じとっていました。私たち子どもには、それをどうすることもできないのだということも。

なので、たまに父が帰宅しますと、私も弟も、冷え冷えとした剣呑な空気に気づかぬふりで両親の顔色をうかがうことに全力を傾注し、子どもらしい無邪気さを演じることに腐心し、その裏で、私たちが寝入った後で「破滅的な局面」が両親に訪れるのではないかと怯えるあまり寝室にも行けない、となかなかヘビーなことになりまして、父の帰宅は「できればあってほしくないこと」の筆頭に、常に存在しているのでした。

けれども、私たち姉弟にとってはそれが日常であって、とりたててそんな生活を不幸だと感じていたわけではありません。

当時の日本には、そんな家庭が掃いて捨てるほどあったのですし、たとえ寝食を共にせずとも、経済的な困窮をさせないように、最低限の務めを果たしてくれた父には、今でも感謝の気持ちを持っています。

 

ただ、長じるにつけ、母の気持ちはずいぶん複雑なのだろうという気はしていました。今よりももっと、母子家庭の生活は苦しかった時代です。学歴も資格も、これといったものがない母には、離婚へ踏み切る勇気がなかったのかもしれませんが、宙ぶらりんな生活はさぞかしつらかっただろうと思います。

ですから、後年、父がガンに倒れたとき、母がその看護を「当たり前のように」こなし始めたときには、私たち姉弟は内心、驚かずにはいられませんでした。お互い何も言いませんでしたけれど。

 

「赦し」であるとか、「水に流す」とか、そういった大げさなものはありませんでした。

ただ日常生活の延長として、父の入院生活を黙って支える母を見て、私と弟もやはりまた、何も言わず母に倣いました。

両親の顔色を見ながら、必死で「なにもわからない子ども」を演じていた頃と同じ熱心さで、私たち姉弟は、「ごく普通の家庭」を父の病室で演じていたような気がします。

 

今になってふりかえれば、私は父と、そこで初めて長々と話したのであり、通常であれば自宅の居間で刻まれるような父との思い出は、私の場合、すべて病院のリノリウムの床や、ベッドのまわりのクリーム色のカーテンや、看護士さんの声や消毒薬の匂いとセットになって、心の中に織り込まれているのです。

 

母が父を赦したこと。

なにもなかったかのようにふるまったこと。

そして黙ってなにもかもを水に流したこと。

私も弟も、それに倣って父を父として見送れたこと、父の最後の時間を支えることができたこと。

それは、私たち姉弟にとって、母からの最大の贈り物であったと今ではわかります。

 

赦しとは、誰のためでもない、自分のためであったと、

赦すことでまた、自分が救われるのだと、数少ない父との思い出を抱きしめながら思います。

 

 

幼い頃、父がクリスマスにホールサイズのケーキを持ち帰ったことがありました。

母と私たち姉弟はすでに母が買ってきたケーキを食べ終わった後でしたので、父が買ってきたケーキは、まさに「場の空気を読めないお土産」を絵に描いたようなものでした。

 

普通の家庭なら、「確認もしないでお父さんったら!」と笑い話で済むのでしょうが、当時の私たちには、そのケーキがまた一層の剣呑さを我が家にもたらす「災いの象徴」のように思われたものです。

 

「これ以上は食べてはいけません」と母に言われて残っているケーキ。そこに新たに出現した父のケーキ・・・父の買ったケーキだって食べなければ父に申し訳ないような、でも父のケーキを食べることで母の気分を損ねては・・・と、幼いながらに気を使って、食べたいとダダをこねるべきなのか、明日食べるね!と父に言うべきなのか、ずいぶん迷った記憶があります。

記憶の中で食卓の上にのっているケーキは、私の視線の上にあります。たぶん小学校に入学する前のことでしょう。

 

クリスマスに我が子にケーキを買ってくるくらいには、父も私たちのことも愛していたのでしょうが、それにしても、と思うのです。

父はもっと幸せになれたはずなのに、と。

 

もう少し、若い頃から思慮深ければ。

あるいは人並みの寿命があれば。

 

病気にかからずとも、母はきっとなし崩し的に父を許したことでしょう。そして私たち姉弟もまた。

誰のためでもない、私たち自身のために。

 

今年も母が、地元のお店で購入したケーキを食べました。

あのクリスマスの夜、私たちが食べたケーキもこの同じお店のケーキであったのだろうと思います。

 

ただ、父があの日、どこでふたつ目のクリスマスケーキを買ったのかは、今となってはもう、知りようがありません。

 

そして、父が買ってきたあのふたつ目のケーキの味を、私はどうしても思い出せずにいるのです。

 

 

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