絵本「どこいったん」を読みました。

 

3学期が始まりました。

お子さんがいらっしゃるご家庭では「ほっ」としたり、お弁当作りが再開したり・・・楽になることも、かえって面倒が増えることも多々あることと思います。

 

新学期のスタートとともに、私の日常においても「読み聞かせ」のボランティアが再開しました。

 

ところで、読み聞かせをするボランティアには、たいていの場合、「好きな絵本」というのがあるわけでして。

 

例えば私の場合。

 

「どこいったん」

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ジョン・クラッセン (著), 長谷川義史 (翻訳) クレヨンハウス

 

が特にお気に入り。

 

帽子を失くした「くまさん」が、自分の帽子を探し続けるお話しなのですが、

子どもたちのウケがよくて、毎回ノリノリ、でも、最後の「オチ」になると、必ず教室中が

 

「しーーーーーん。」

 

と静かになる、魔法のような1冊です。

 

でもこの絵本。

長谷川義史」氏の翻訳なので、全編がっつり大阪弁なのです。

なので、他府県出身のボランティアメンバーからはとっても不評。

 

「読めない。」

 

「読んでると子どもたちが、話の筋じゃないところでクスクス笑う。」

 

「絶対、イントネーションの違いで笑ってる!」

 

と、散々な言われよう。

 

確かに関西出身者でなければ、

 

「見てへんで」

「登ろ、思てね」

「もうええわ」

 

なんて、なかなか言う機会がないかもしれません。(←てか、絶対ないよね?)

 

 

先日はとうとう、

 

「マミーさん、読んでるところ録音させてよ!練習するからっ!」

 

って言われてしまいました。

 

大阪弁じゃない本を読めばいいのに・・・

そこまでして練習する必要はないんじゃないかな・・・

そもそも、なんで私が・・・

 

と必死で文句を言いましたが、いつものことながら押しに弱くて「ノー」と言いにくい性格。いつの間にやら、読んで録音することになっていました。

 

せっかくなので、今回はその読み聞かせを大公開。

大阪弁のやりとりが楽しい「どこいったん」、よければ聞いてみてください。

 

(この動画は「はてな」からのみ視聴可能です)

 

(念のため、お断りしておきますが、

今や「おおきに」という言葉、大阪でもほとんど死語に近いものがあります。

私も生まれてこの方、ありがとうの意で「おおきに」を使ったことは一度もありません。

今やお商売でのシーンや「吉本新喜劇」の中でのみ聞ける言葉だと思われます。)

 

聞いていただいておわかりかと思いますが、子どもたちを相手にした読み聞かせの場合、「上手に読む」必要はまったくありません。

声色を使ったり、登場人物で声を変えたりする工夫も、さして求められてはいません。

あまり上手に、真に迫った読み聞かせをすると、子どもたちは、

 

「この人、上手だなあ」

 

と読み手の方に注目してしまい、肝心の本については気持ちが入らなくなってしまいます。

なので、あまり力を入れすぎず、淡々と読む方がいいのではないかと思います(←自分の読み方が下手っぴなことへの言い訳もちょっと含む)。

 

主役はあくまでも「絵本」。

ちょっとくらい、読むのが下手でもなんの問題もないのです。

 

もしもご近所の小学校で読み聞かせのボランティアを募集していたら、ぜひ一度ご検討くださいね。

 

ところで、この「どこいったん」の絵本。

 

もちろん、学校だけでなく、ご家庭でも楽しめます。

この本を読んだ後、

 

「ママのアイス、どこいったん?」

 

「し、しらんよ?

なんでぼくに聞くん?

アイスなんかどこにもないで。

アイスなんかさわったこともないで。

ぼくに聞くのん、やめてえな。」

 

なーんて会話を楽しむまでが、この本の楽しみ方。

 

ぜひぜひオススメ。

 

お子さんと一緒に、あるいはご家族と楽しんでみてくださいね。

 

 

で、ふと思ったのですが。

考えてみたら、生まれ故郷以外で生活していて、

 

「あら、どちらのご出身ですか?」

 

と聞かれたら、たいていの人って、

 

「え、なまってますか?おかしいですか?」

 

って動揺なさるのに、大阪人だけは、どこに行っても堂々と大阪弁を押し通しますよねえ。

そんなところが全国でちょっぴり嫌われるんじゃないかしら。

 

なんてことを、「どこいったん」を読みながら、しみじみと思ってしまうマミーなのでした。

 

最後まで読んでくださったみなさま、

 

「おおきに」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真田丸散歩最終回。

 

真田丸散歩、続きます。

今度こそ最終回です。たぶんね・・・。

 

前回は愛染堂(勝鬘院)の多宝塔についてお話ししたところで終りましたが、やはり天王寺まで来て、「四天王寺」に立ち寄らないわけにはいかないのでは・・・。ということで、天王寺で最も有名な寺院、「四天王寺」へと向いました。

 

途中、

 

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現存する世界最古の企業、(株)金剛組の社屋を発見。

聖徳太子によって百済から召喚された宮大工がこの会社を興し、以来、戦乱や災害によって何度も焼失や倒壊を繰り返す四天王寺を、その度にこの金剛組が再建してきました。

現在は高松建設の子会社となっています。

 

 

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そして、四天王寺

日本仏法最初の官寺。

かの聖徳太子が、

「もしも物部氏との戦に勝てたなら、必ず四天王を祀るお寺を建てる」

と誓願し、見事勝利した後に建てたと言われているお寺です。

最近は聖徳太子の業績を見直す動きもあるので、いずれ説明が変わることもあるかもしれませんが、それにしても日本で最も古い由来を持つ寺院のひとつであることは確かでしょう。

この日もたくさんの参拝者が見られました。

なんども建て直されてはいますが、美しく印象的なお堂。

 

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近くで見ると圧巻の存在感です。

 

また一般的に、この四天王寺には、西門(石の鳥居とも)から入るのですが、

その西門は特別な意味を持っています。

 

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四天王寺西門。

 

ここは西方の極楽浄土に通じると言われ、真西を向いているために、彼岸にはここからまっすぐ夕陽が差します。

 

今でこそ、この界隈は内陸になりますが、昔はすぐそこまで海が迫っていたので、この門から眺める、西の海に沈む夕陽の美しさは、当時の人々にはさぞ神々しく見えたに違いありません。

なので、上町台地西側には「夕陽ヶ丘」の名前が冠せられています。

 

この「夕陽ヶ丘」という美しい地名。

私と同じ世代の人には、「ゆうひが丘の総理大臣」なんてドラマを想起させるのではないかと思います。

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懐かしいですねえ・・・子どもの頃、一生懸命見ていました。

中村雅俊さんがかっこよくてね・・・。

 「夕陽ヶ丘」という美しい名前を持つ土地が、大阪以外にもあるのだろうかと思いながら見ていた子ども時代を思い出します。

 

耳にするたびに、ふと立ち止まるように胸に響く地名「夕陽ヶ丘」。

 

その名前を噛みしめるために、最後にもう一つだけ、ある神社を訪ねることにいたしましょう。

 

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「大江神社」

 

愛染堂(勝鬘院)のすぐ隣に位置する神社ですが、由来は古く、聖徳太子四天王寺を鎮守するため建てた7つの宮のうちのひとつとして有名です。 

境内には、

 

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「夕陽岡」の碑も。

 

この碑のすぐそばには、芭蕉の句碑も建っています。

 

上町台地の西端に沿う一帯は「夕陽ヶ丘」と呼ばれており、その昔、この台地のすぐそばまで海がせまり、西の海に夕日が沈み行き、茜色に染まる空の美しさにいつしか「夕陽ヶ丘」と呼ばれるようになったといいます。境内には俳句碑があり、芭蕉の句としても有名です。

 

あかあかと 日はつれなくも 秋の風    翁

よる夜中 見ても桜は 起きて居る     三津人

網の子の 名にやあるらん 杜宇      千季

春風の 夜は嵐に 敷れ鳧         暁臺”

    (大江神社HPより)

 

平素、忘れがちですが、実は、大阪の歴史は京都よりもずっと古いのです。 

 

その古い歴史の中でも、遠い、気が遠くなるほど遙か遠い昔には、この句碑のすぐそばまでが海でした。

その海に沈む夕陽を、遠い過去の日本人もやはり美しいと思ったからこそ、この地の名前が「夕陽ヶ丘」なのでしょう。

 

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日本全国に「夕陽」の名を持つ土地がどれほどあるのか知りませんが、この土地につけられた「夕陽」の名ほど古く、そして由緒正しいものはありません。

 

時代も人も移り変わり、ひとつとして永遠に続くものはないけれど、西の空に沈んでいく夕陽の、空を赤く染める様を「美しい」ものとして、かけがえなく愛しむ気持ちに、時代の差があるでしょうか。

 

西方に極楽浄土が実在するとは言えないことを知っている現代人の私もまた、古の人々と同じく、この地の夕陽をこよなく「美しい」と感じながら、今回のお散歩を終りたいと思います。

 

 

 

 

おまけ。

 

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大江神社にいた猫さん。

人なつっこい様子。

 

おまけ2

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 前回のコメント欄でセネシオさまとちょっぴりお話しさせていただいた真田山・

 旧第四騎兵連隊の騎兵営址忠魂碑。

 

おまけ3

最近、知人から「マミーのブログには食べ物要素が少ない!」と指摘されました。

人一倍食べてるんですが・・・でも、食べる前に写真を撮る習慣がどうしてもつかないの・・・気づいたら食べちゃってるんだもの。

でも今回は食べる前に思い出した!写真のこと!

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阿倍野ハルカス13階「中国料理桃谷樓」で食べた何か・・・。

なんだったかな?・・・とにかくおいしかったです!

 

 

おしまい。

長々と冗漫なお散歩におつきあいくださって、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだまだ真田丸散歩

真田丸」ゆかりの地のお散歩、続きます。

 

 

ごく最近のことなのですが、新しい資料が発見されたとかで(←松平文庫だったかな・・・詳しいことは知らない・・・)、幸村終焉の地が、安居神社ではなく、

「愛染堂(勝鬘院)と生國魂神社の間のどこか」

だったという説が浮上してきています。

 

「どこか」って悩ましいですよねえ・・・。

 

「安居神社」の関係者も心穏やかではいられないんじゃないかしら。

あれだけ「幸村終焉の地」って宣伝してるのに。

「愛染堂」か「生國魂神社」か、はっきりしてたらまだいいと思うんですよ?

でも・・・。

 

「どこかはっきりせえへん」のやったら、もうウチでいいやん!長いことそれを売りにしてるんやから!

 

とか思ったりしないのかしら。ねえ?

 

・・・なーんてことを母とわあわあ言いながら、それでもせっかくここまで来たのだから、と「愛染堂(勝鬘院)」と「生國魂神社」にもお参りしていくことにしました。

 

まずは「生國魂神社」から。

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「生國魂」と書いて「いくたま」と読みます。

大阪人にとってはとても馴染みの深い神社で、大阪を代表する古い神社のうちのひとつです。

この日はお正月の4日でしたが、まだまだ参拝者がたくさんいて、そのお顔が写り込むのを避けようと思ったら、上のような写真になってしまいました。

 

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鳥居の中では、こんな具合に参拝者の長い列ができていて、地元の人からとても愛されている神社なのだと実感できます。

また、この生國魂神社は「天王寺」のど真ん中にあり、大阪の文化や歴史と密接な繋がりがあるだけに、境内には、

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夫婦善哉」で有名な織田作之助や、

 

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好色一代男」でお馴染み「井原西鶴」像なんかもあったりします。

 

ま、織田作之助はわかります。写真、残ってますものね。

でも「井原西鶴」のお顔がこんな風だったかどうかなんて、誰にも検証できないはずなのになあ、ってちょっぴり複雑。なにこの落語家みたいな銅像・・・。

そんなことを言い出したら幸村像だってどんな顔だったかわからないし!って言われるかもしれないけど・・・文学者と銅像って、あんまり相性がよくない気がします。(←あくまで「マミーの頭の中」のお話し。)

 

この生國魂神社はもともとは、今の大阪城の辺りにあったのを、大阪城築城のため、秀吉の命で現在地に遷座させられて今に至ります。

 

自らのお城の築城のために、神さまにお引っ越しさせるなんて、当時の秀吉の権勢の凄まじさがしのばれます。

 

 

ではでは次は愛染堂(勝鬘院)へ。

 

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「愛染まつり」「愛染かつら」でとっても有名、こちらも大阪人には馴染みの深い神社です。こちらでは「愛染さん」と親しみをこめて呼ばれることが多く、「縁結び」「夫婦和合」の神さまとして有名です。

 

毎年夏の「愛染まつり」にはかわいらしいお嬢さんたちが「宝恵駕籠」に乗って街を練り歩くパレードがあって、大阪の夏の始まりを告げます。

こんなの。

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(写真はネットからお借りしました。) 

 

でも今は冬なので・・・。

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境内はこんな感じ。

年始なので秘仏愛染明王のご開帳もされていました。

 

また、愛染さんの境内には、重要文化財聖徳太子ゆかりの「多宝塔」もあります。

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残念ながらもともとの多宝塔は、信長の石山寺攻めの際に消失しましたが、その後秀吉によって再建され現在に至ります。

四天王寺ですら第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったので、この多宝塔は大阪市内最古の木造建築になります。

 

母とベンチに座ってこの多宝塔を見上げながら、人がいとも簡単に、命を落とした時代について語り合いました。

あまりにもあっけない「死」がそこかしこに溢れていた時代には、こんな仏教建築は、きっとただの「建物」以上の意味を持っていたのでしょう。

現代人には理解できないほどの真摯さでこんな大きな塔を建て、見上げ、拝んだ人々の切実な祈りが、今も周囲に漂っているような気がしました。

 

 

す、すみません、長くなりました、あと一回、続きます。

新しい大河ドラマも始まったのに、タイミングが遅すぎ!かもしれませんが、どうぞもう少しだけおつき合いくださいませ。

(ちなみに今日の大河ドラマを見て思ったのですが、最近の子役の演技力ってスゴイですよねえ・・・。子どもをあんなに泣かすなんて!って思いながら、私が泣いてました。ほほ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真田丸散歩三回目

昨年末、「真田丸」最終回記念として、真田幸村関連の史跡を訪ねたことを、2回に分けてお話ししました。

 

 

実はこの後、私が「安居神社」に行ってきたことを知った母が、

 

「私も行きたい!」

 

と大騒ぎを始めました。

 

 

「えー、今行ってきたのばかりなのに・・・。」

と思わないでもなかったのですが・・・。

でも、昨年は体調を崩し、一時は枕から頭も上げられないほどだった母が、あちこち出歩きたいと言えるようになるなんて!と、それがとってもうれしくて、つい、

「お正月休みに、一緒に行こう。」

と約束をしてしまいました。

 

で、お正月休み最終日。

行って参りました、「真田丸」に関する史跡めぐり、再びです!

 

 

・・・え?

 

もう飽き飽き?

 

わ、わかります・・・わかりますけどっ!

 

前回とは違うところにも行ってまいりましたので!

どうかしばらくおつきあいください!お願い!

 

まずは前回と同じく安居神社から。

撮り損なっていた、天満宮としての象徴、牛さんをパチリ。

 

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ね?

 

やっぱりここは天神さんでしょう?

 

ちなみに左端にちょこっとだけ写り込んでるのは幸村銅像の足です。

私は幸村に、

「また来たん?ヒマなん?」

って言われるような気がして、遠巻きからの見物にとどめましたが、母は幸村像に大感激、近くでまじまじとご尊顔を拝していました。

 

そういえば、ここ安居神社では、

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芸能人の絵馬も発見。

 

片岡愛之助さんはつい最近、取材で見えたようですね。

個人的には加藤雅也さんの絵馬に大興奮。

昔っからのファンなのです。かっこいいですよね!

 

と、真田丸には関係のないことで盛り上がるのはこの程度にして、次の史跡ポイントに参ります。

 

次に訪れたのは「三光神社

「真田の抜け穴」(大坂城から脱出するため作った抜け道という伝説あり)がある神社として有名な神社です。

 

その「真田の抜け穴」というのがこちら。

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普段は施錠されているのですが、毎年、秋の11月第一日曜日は開放されます。

 

写真を撮っていると、どこの誰ともわからないおじさまに、

「この抜け穴通って、大阪城まで行ってきたらええで~。」

なんて声をかけられたのですが(大阪ではそういうことがしょっちゅう起ります)、残念ながら、この「抜け穴」は出口から10メートルほどの空間しかありません。

なので、豊臣方あるいは真田勢が作った抜け穴というよりは、徳川方が攻勢のために掘った穴ではないかという説もあり、はっきりしたことはわかっていません。

 

でも、九度山を脱して大坂に駆けつけた幸村のこと、こんな抜け穴だってどこかに作ったのではないかしら、なんてつい想像してしまうのが大阪人というものなのでして・・・すぐ隣には、こーんな

 

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凛々しい「真田幸村公ノ像」も建っていますので、テンションもますます上がってしまうのです。

で、三光神社境内。

 

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天照大神、月読尊、素戔嗚尊をお祭りしている神社なのですが、社殿に近づくと・・・

 

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そこには真田幸村

 

どどーん!と幸村。

 

幸村イチ推し!

(むしろ幸村頼み・・・)

 

幸村、愛されてるなあ、と感心しながら三光神社を後にしました。

 

ここからは、真田丸跡を目指して歩きます。

もっとも、どこが真田丸だったのかについては、はっきりとした確証があるわけではないのですが、それでも有力候補地はあるわけでして。

 

とくに天王寺のこの界隈は、地名もずばり「真田山」。

近隣には「真田山幼稚園」があったり、マンションやアパートの名前など、至るところで「真田」の名称を目にします。

 

途中、坂道にさしかかりました。

 

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写真、ボケボケですが・・・大阪市内には珍しく、結構な傾斜です。

大坂の陣では手前が大坂方、この坂道の下側から徳川方が攻め上ってきたのでしょう。

 

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坂の上には「真田丸顕彰碑」。

大阪明星学園テニスコート横に昨年2月に建立されました。できたてほやほや・・・。

でも、昨今の「真田丸」人気のせいか、

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顕彰碑の下の「六文銭」の上にはたくさんの五円玉が。

写真を撮る観光客もたくさんいらっしゃいました。

また、明星学園の校舎壁面には生徒さんたちによる壁画も。

 

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去年は学校中で真田勢を応援してたんだろうなあ・・・。結局負けたけどさ・・・。

 

この大阪明星学園テニスコートのすぐ目の前には、真田幸村、大助父子を弔うために建てられた「心眼寺」というお寺があります。

 

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「日本一の兵」幸村。

その武勲にあやかりたいと願った武将たちは、幸村の遺髪をこぞって奪いあったと言われていますが、江戸時代には、さすがに敵方であった幸村父子の墓を、堂々と建てることはできなかったようです。

それが最近になってやっと、墓碑が建立されたのですって。(2014年)

 

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楠木正成もそうですが、時代によって毀誉褒貶が移り変わるのが人の世の習いなのかもしれません。毀誉褒貶とまではいかなくても、むやみに持ち上げられたり、かと思えばすっかり忘れられたり、再評価されたり。

 

現代を生きる人間が、そんな風にあれこれと騒がしいのを泉下の人々はどんな風に眺めているのでしょう。

 

幸村の真新しい墓碑の前に立つと、きっとあちらの世界でもかしましい人というのはいて、

「ねえねえ、真田丸ってほんとはどの辺にあったの?どれくらい勝てると思ってた?」

なんて、何度も聞かれて、幸村も閉口しているのではないかしら、などと考えたりしました。

 

時とともに風化し、忘れられていく人間が多数派なのに、こうして忘れられずに名を残し、いつまでも忘れられないための工夫をされる幸村。

それはやはり武士の本懐と言えるのかもしれません。

 

このお散歩、もう少し続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

謹んで新春のお慶びを申し上げます。

みなさま、あけましておめでとうございます。

よき初春をお迎えのことと存じます。

旧年中は並々ならぬご厚情をいただきました。

あらためてお礼を申し上げるとともに、本年も引き続きご芳情を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

 

 で、みなさま。

 

お気づきでしょうか?

 

このお正月からブログデザインを変更してみました!

しつこいようですが、「機械」に弱く、平素は決して「設定」をいじらない私・・・。

通常ならブログデザインを変えるなんて面倒なこと、決してやらないのですが、でも先日、わっとさま(ID:watto)から、コメント欄不調の改善のために、

「ブログデザインを現在の「Airmail」から別のものに変更してみては?  」

というブックマークコメントをいただいたので、挑戦してみる気になったのです。

 

ついでに、未だになんのことやらさっぱりわかっていないツイッターにも、今年はちゃんと向き合ってみようかという気になり、サイドバーにツイッターを埋め込んでみました!

 

なんていう成長でしょうか!

我ながら、できたときには画面に向って「おお!」と感嘆の声を上げてしまいました。

(・・・言っときますけど、ここ、褒めるところですから!・・・ここをのぞけば、あとは褒めるところなんてないんですからね・・・。)

 

とりあえず、時間がいっぱいかかりました・・・。

みなさま、こんな苦労をして、ブログのカスタマイズをなさってるんですねえ・・・。(・・・は?こんなことで苦労するのはマミーだけだって?・・・わかってますけどね!お正月から凹むようなことは言わない約束です!)

 

ブログデザインを変えたから、もしかしてコメント欄も調子がよくなるのでは?!と期待しております。

 

ということで、みなさまからのコメントを大募集♡

 

ちなみに、機械に弱い人間にありがちなことですが、「同じことは二度とできない」のでありまして・・・。

たとえコメント欄が依然として不調であったとしても、もうブログデザインの変更はしたくないのです。面倒なのです。設定画面はもう見たくないのです。

なので、しばらくはこのデザインで参ります!

 

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 (わっとさま、アドバイスありがとうございました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はてな」さんからお返事が来た!

 

みなさまこんばんは。

最近、ずっとコメント欄の不調に悩んでおりましたら、

 

はてな」に問い合わせたら?

 

というお声を多数いただきました。

 

・・・いや、私もね?聞けるものなら、すぐに聞いてましたよ?

でも、私の場合、そもそも「はてな」に問い合わせをしたくっても、

 

それって、どうやるんだろう?

 

という「そこから?」な問題が発生するわけでして。

 

なので、コメント欄が元通りになるのを「直らないなあ、いつまで続くんだろう」とひたすら待っていたのですが、やっぱりただ待っているだけでは埒が明かない!と一念発起、がんばって「はてな」さんにメールしてみました。

 

すぐに自動送信で「ちょっと待ってね!」のメールが来たのですが、そこから待つこと数日・・・昨夜、とうとう「はてな」さんから回答のメールが来ました。

抜粋しますと・・・。

 

はてなブログのコメント欄に新しい投稿を行った際に、新着のコメントが消えることがあるとのこと、
ご不便をおかけしてしまい大変申し訳ございません。

他のユーザー様からも同様のご連絡いただいており、弊社側でも不具合を確認した状況となっております。
現在、修正対応を検討させていただいておりますが、対応にはお時間をいただく見通しとなっておりますので、
すでに操作いただいております通り、コメントが消えた場合にはページの更新を行っていただけますと幸いです。

 

ほら!ほらほらほら!

ね?

ほんとに「はてな」さんからのメールです!すごい!!!

 

みなさまにしてみれば、なんでこんなことで私が喜んでいるのか、さっぱりわかんないかもしれませんけれど、私にとりましては、なんだかすごいことを成し遂げたような(←意味不明)、大発見をしたような(←さらに意味不明)、とっても高揚した気分なのです、今。

 

ああ、「はてな」って、ただの機械じゃないんだなあ。

そこで働いている「生身の人間」がいるんだなあ。って気持ち。(←当たり前)

 

なんだかもう、コメント欄のことはどこかにふっとんで行って、

日頃お世話になっている「はてな」という場所のために働いている社員さん達が、この年の瀬に、なるべく早くお家に帰れるように、コメント欄のことはゆっくり来年にでも解決してくれたらいいよ!って気分になりました。

 

ついでに、最近よく思うのです。

 

「ブックマークって何?押していいの?」って悩んだり、

過去記事や他のブロガーさんの記事を貼り付けることもできなくて、ブロ友さんに教えてもらったり、

最低限のことですら、ちっともできなかった私が、「はてな」に問い合わせできるようになるなんて、

 

すっごい成長じゃないですか!?

 

・・・と、誰も言ってくれないから、自分で言ってみました。

ちょっとむなしい・・・。

 

みなさまにとっては「当たり前」のことでも、マミーにとってはとっても難しかったり、ハードルがやけに高かったり、我ながら情けなくなることばかりですが、それでも今年1年、なんとか「はてな」を続けることができました。

 

これもひとえに、毎回駄文ばかりの当ブログを読んでくださるみなさまのおかげです。

今年も毎回おつきあいくださったみなさま、

そして今年新たに読者登録いただいたみなさま、

本当にありがとうございました。

 

また、最近更新のない方、「はてな」を去られた方、

どうも私はしつこく思いわずらう性質のようで、みなさまのことをいつまでも忘れられないだろうという確信がございます。

なので、さようならとは申しません。

またいつか、きっとお目もじ叶います日を、心よりお待ち申し上げております。

そして仮に、もうお目にかかれない方がいらしたとしても、マミーはずっといつまでも、みなさまのご健勝とますますのご活躍をお祈りしております。

 

今年の更新はこれが最後になろうかと思います。

みなさま。

1年間、本当にお世話になりました。

来る2017年が、みなさまにとって、輝かしいものになりますように。

そしてどうか来年も、一層のお引き立てを賜りますよう、お願い申し上げます。

 

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おまけ。

小さいくまさんを作ってみました。

コアラじゃありません。

くまさんです!

 

大掃除とか、やらなきゃいけないことが山積すると、別のことをやりたくなる法則・・・これを「怠け者の衝動」と呼びます・・・。

 

今度こそ。

 

みなさま、よいお年を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今度こそ、幸村自刃の地。「真田丸」最終回記念散歩

前回から続きます。

 

一心寺を出まして通りを一本渡ると、すぐに安居神社が見えて参ります。

 

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こちらの神社が幸村自刃の地。

ちゃんと碑も建ってます。

 

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さっそく参拝へ。

 

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本殿。

思っていたよりこじんまりしていて、ドラマ「真田丸」で見た幸村のラストシーンが、それなりに説得力のあるものだったんだとわかります。

狛犬も・・・

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「阿」と・・・

 

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「吽」。

 

ちょっぴりのんびりした風情。戦国の荒々しさはあまり感じられません。

 

それもそのはず、実はこの安居神社、元はと言えば、天満宮でもあるのです。

なので、境内には牛の像もあり、(写真はないの・・・撮り忘れちゃって、てか、この辺りですでにスマホの電池がやばいことに。←ぐだぐだ)安居神社ではなく、安居天神、安居天満宮などとも呼ばれています。

 

また、この神社は、大阪の中央、上町台地の端っこに位置しているので、鳥居をくぐると、こーんな、

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急勾配の階段が現れます。

 

つまりこの神社は「上町台地の上」に建っていて、この階段の下は昔、海だったことになります。

 

仮に大津波が大阪を襲った場合、この上町台地の上だけが無事であろうと言われていまして、ですから大阪では、上町台地の上は高級住宅街になるのです。

ただ、この上町台地の下には大阪最大の断層「上町断層」が通っていて、仮にその断層が動いたら、上町台地の上も下も関係なく、大阪は「えらいこと」になるでしょう・・・桑原くわばら(天神さんだけに・・・雷以外にも効くかしら?)・・・。

 

そもそも大阪は本来、この上町台地周辺こそが中心地で、その境界には昔から豊かに水が湧き出していたのですが、その水が湧き出る箇所に片っ端から神社を建てまくったので、この辺り一帯はものすごい数の神社仏閣があるわけです。

歩いていると、ここにもそこにも神社やお寺。で、お正月には初詣客がそこらじゅうに溢れることになります。

 

話しを戻しましょう。

幸村です。

もとは天満宮だったとはいえ、今や真田幸村終焉の地として知られている安居神社。

境内には幸村ゆかりのものがたくさん。

 

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石碑に、

 

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こちらは「さなだ松」。

この松の下で幸村が切腹したと伝えられています(切腹だったかどうかは諸説あり)。

 

そして幸村の銅像

 

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お顔のアップもいっときましょうか。

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ででん。(←意味不明)

 

ハンサムかどうかは・・・ちょっとわかりません。似てるかどうかも知りません。お目にかかったことないのでね・・・ね?

 

生粋の豊臣恩顧の家臣というわけでもなかったはずなのに、最後まで豊臣家に忠義と忠誠を尽くした幸村。

「その「徳」にあやかるために、どうぞこの銅像に触れてください。」

と説明書きにあったので、刀やお顔、左手なんかをやたらとペタペタ触らせてもらっちゃいました。

この銅像に触ったり、一緒に写真を撮ったりするための順番待ちの列までできていて、幸村の人気はすごいなあと感心しきり。

志半ばでこの世を去ったとはいえ、ここまで愛される武将もまた稀であることを思えば、幸村は幸せな武士であったのかもしれません。

 

「さなだ松」の下に立ってみました。

幸村もきっと、自刃の前には見上げたと思うのです。

上を。空を。

 

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この松の向こうに見える空は、幸村の胸にどんな思いをもたらしたのでしょう。

言葉に出来ないほどの無念さ、口惜しさ、そして残される者への愛惜。

 

400年の時を経てもなお、私たちの胸を打ってやまない真の武士の心情をたどって、やっと私の「真田丸」も本当の最終回を迎えたような気がします。

 

あ。

 

でも、この「さなだ松」、一回立ち枯れちゃって、今の松は昭和26年に植え直したものなんですって。

ちょっと残念!