初めてのブラジャーの思い出。
みなさま、こんばんは。
今日は「ブラジャー」についてお話ししてみたいと思うんです。
自分で言い出しといてなんですけど、ちょっと照れちゃいます、いい年なのに。
女性のみなさま、初めてつけたブラジャーのこと、覚えていらっしゃいますか?
男性のみなさまは・・・まあ、こっそり聞いていてください。ふふ。
私はねえ、はっきり覚えてるんですよ、最初のブラジャーのこと。
むかーし、むかし、私がまだ小学校の高学年だったころね、
一日の授業の終わりに「終わりの会」ってあるじゃないですか、いわゆるホームルームのような。
そこで担任の先生が、クラスの女子の名前を5人、順番に挙げていったのです。
「Hさん、Yさん、Tさん、Kさん、Nさん」って具合に。
で、先生は続けてこうおっしゃいました。
「今、名前を呼ばれた人たちは、明日からブラジャーをつけてくるように。
あなたたちのは、先生のよりも立派です。」
・・・もうね。
今でも、私、その瞬間のことを思い出すと卒倒しそうになります。
上記の女の子のうち、Tさんが私。
赤面どころではありませんでした。
自分の喉の奥の方から「ひゅっ!」って変な音がしましたもの。
「ひぃぃぃぃぃ・・・」
って思っていたら、斜め前に座っていたYさんが私の方をそおっと振り返りました。うっすら上気した彼女の頬に、不自然にひきつった笑顔が浮かんでいたのを、今でもはっきりと思い出せます。
「ど、どうなん、これ、どうするんよ・・・」
とでも言いたげな表情、きっとそれは私の顔に張り付いていたのと全く同じものであったに違いありません。
先生の言葉を聞いた教室の空気は、一瞬、なんていうのかな、「ぱあああっ!」と盛り上がったようにも思えました。
公立小学校の高学年の児童たち。
男子生徒なんて、まだまだ子どもというか、中には人間になる一歩手前、おサルさんみたいな子も多いじゃないですか?
そういう「ちょっとアレ」な男の子たちが、「ブラジャー」と聞いて、思わず椅子から腰を浮かすしぐさをしたことまでありありと思い出せます。
でも、先生の睨みが効いたのか、その後、教室にはすぐに落ち着きが戻って、私たちは三々五々帰宅の途につきました。
私は家に帰って、すぐに母に報告しました。
「先生に、明日からブラジャーをつけて来なさいって言われた。」
って。
私の母は旧弊な人で、今も昔も「先生のおっしゃることは絶対。」という考え方の持ち主なので、「そ、それは大変!」とばかりに飛び上がって私を近くのお店に連れて行き、初めてのブラジャーを買ってくれました。
ブラジャーって言っても、なんていうか、あんまり色気のあるものではありませんよ?何と言っても、まだ小学生がつけるようなものですから、頭から被って着脱するタイプの、今でいうスポーツブラみたいなやつね。背中がクロスになってるような。
こんな感じだったかな、色は白しかなかったような。(←どうでもいい)
家に帰って、母に促されるまま、つけ方の練習なんかをした覚えがあります。
つけ方、って言っても単に被るだけでしたけれども。丈の短いタンクトップみたいなものですから。
でもたとえつけ方が簡単だったとしても、ブラジャーをつけるということ自体がイヤだったな。
自分の意思とは関係なく、自分の身体が大人になっていくのだということ、
教室の中にいる同級生とは、なにもかも「平等」だと思っていたのに、自分にだけ、なにか違う、別の「記号」を付与されてしまったような違和感、なによりも、他人から「バストが大きい」と思われることがイヤでした。
それはやはり、その時代の「空気」の影響だったのでしょう。
今の若い人には想像もつかないことかもしれませんが、1980年代始めの頃の日本人の「民度」なんて、そう高いものではなかったのですよ。
テレビの素人参加番組に、バストの大きい女性が登場したりしたら、それが日曜日の真昼間であったとしても、
「はあ・・・なるほど、脳みそに行くべき栄養素が全部、胸に行っちゃったんだね!」
なんて、平気で言う司会者がうじゃうじゃいたものなのです。
そのセリフは、バストの大きい女性に対して、あまりにも頻繫に与えられる、平凡で使い古された表現だったので、まだ小さい私は、「胸が大きくなると頭が悪くなる」と半ば信じていた気がします。
私と同世代の女性なら、こういう雰囲気、なつかしく思い出してもらえるんじゃないかなあ。
下手にバストが大きいと、恥ずかしい気がしたり、隠そうとするあまり、姿勢が悪くなったり。イヤなものでしたよね。
おまけにやっぱり「教室でからかわれるかもしれない」という想像が私の胸を暗くしました。
学校で、おサルさん系男子にしつこく笑いものにされることほど、憂鬱なことはありませんもの。私だってまだまだ子どもで、いろんなことが「繊細」でしたから(そんな時代もあったのですっ)。
でも、結果として、そんな心配は杞憂に終わりました。
次の日から、先生に名指しされた女子児童はみんなブラジャーをつけて登校しましたが、誰からもからかわれることも、笑われることもありませんでした。
半年経つ頃には、女子児童の間で、
「どうしよう、ブラジャーつけてくるの、忘れた!体育あるのに!」
「えー、最悪。腕組みして走れば?」
なんて会話が平気で交わされるほど、私たちにとって、ブラジャーとはなくてはならない存在になりました。(←だったらつけ忘れるなよ、って話なんですが、そこはやっぱりまだまだ子どもだったんですねえ。ちなみにつけ忘れて登校したのは私~。ほほ。)
ブラジャーをつけ始めたことが、クラスメイトからの揶揄やからかいの対象にならなかったことに心底ほっとしながら、一方で私はずっと先生の、「ブラジャーをつけてきなさい」という指導が、どうしてあんな形でなければならなかったのか、考え続けていました。
確かに先生の目から見て、私たちがブラジャーをつけるべき時期に差し掛かっていたことは明らかなことだったのでしょう。
こういうことは時として、母親よりも他人の目の方が的確だったりしますから。
(母親って自分の子を見る時はどうしても「幼く見える」補正がかかってしまって、自分の娘の体型が激変していることに気がつかなかったりします。)
でも、だとすれば、保護者会や連絡ノートなどを使って、保護者に直接ブラジャーの着用を勧めることもできたでしょうし、該当する子どもたちだけを別室に呼んで指導することもできたはずです。
それをなぜわざわざ、クラス全員の前で、あんなにもはっきりと「つけてきなさい」と言わなければならなかったのか。それはあまりにもデリカシーを欠いたふるまいに感じましたし、実際名前を挙げられた私たちは、確実に「恥ずかしい思い」をしたのです。それは、何度考えても、やはり心外なことでした。
私たちは普段、担任の先生をとてもいい先生と慕っていただけに、先生のあの「指導」に、一体どんな目的や意図があったのだろうと、不思議でしようがなかったのです。
考え続けて、私は一定の答えを自分の中に見出しました。
先生に確認したわけではありませんが、あながち、間違えてもいないと思っています。
先生が、みんなの前で、5人の女子児童に「ブラジャーをつけてきなさい」と言ったのは、名前を挙げられた女子児童の性格、クラス内の立ち位置、それから「5人」というある程度まとまった人数、そういったものをすべて考え抜いた上での行動だったのだろうと。
その日、先生に名前を挙げられた女子児童は、クラスの中でも最も目立つ、中心的なメンバーでした。
明るく社交的でみんなに好かれる者、
責任感が強く、児童会やクラスの仕事でいつも活躍している者、
抜きんでて成績がよく、しっかりしている者、
やさしく親切な性格で誰からも頼りにされる者、
また、全員、身体的な成長が早く、体格もよかった。
ついでに言うと、口も達者だった。
おまけに気も強かった。
男子になにか言われて、めそめそしてしまう子がいなかった。
そして「5人」という人数。
いくらやんちゃな男子児童でも、クラスの中のそんなしっかりものの女子ばかりまとめて5人、同時に敵に回すなんてことができるでしょうか?
担任の先生はきっと、そこをよく見ていらっしゃったのだと思います。
仮にそれでも女子のデリケートな問題に、ふざけてちょっかいを出す児童がいたとしても、クラスの全員が彼女たちの味方について、瞬時に粉砕していたことでしょう。
ブラジャーをつける、というデリケートな問題は、その後も子どもたちの成長に伴って、いつまでもついて回る問題で、だからこそ先生は、クラス内の最も「強い個体」に、最初の壁を突破させようとしたのだろうと思います。
次にブラジャーをつけ始める女子児童はずいぶんと気持ちが楽だったはずですから。
子どもの世界であっても、「数の威力」というものは存在します。
名前を出された子たちは、ひとりではなく、共通の立場の者がいることで、一種の安心感を持つことができた。誰かひとりが攻撃されることにはならなかった。また、いざとなれば、「先生に言われたからブラジャーをつけているのだ、あなたたちも聞いていたはず。」と主張することができた。
そして子どもの世界であっても、やはり「力関係」というものがあるんだろうと思います。
誰が人気者で、誰がクラスのまとめ役なのか。
それらのすべてを把握した上で、女子児童の身体の変化というものに、真正面から切り込んで、なおかつクラス内の平穏を保つことに成功したのですから、先生の作戦勝ち、ということなのでしょう。
「先生って、本当によく見ている。」
そう感じた私は、学校の先生ってほんとにすごい、と思うようになりました。
大人になってから、先生にお目にかかったことはありません。
もしもう一度、先生とおめもじ叶うことがあったとしたら、
「先生、私はただ口が達者だっただけなのに!」
って言ってみたいと思います。
きっと、もうお忘れだろうなあ。
けれども私の方は先生の、あの強烈な指導のせいで、最初のブラジャーのことを、一生忘れられないと思うのです。
おまけ。
最近のお子さんは、自らのバストが大きくなることについて、どんな感想を持つのでしょう。
私たちのころよりは、もっとずっと肯定的に受け止められているような気がして、それはとても素晴らしいことだと思います。
成長し、大人になるということは、本来、喜ばしく、おめでたいことです。
できたら、すべての女の子たちが、大人になること、大人の身体を手に入れることを、素直に寿げる世の中になってほしい、女性性の獲得を恥ずかしいことと思わずにすむような社会であってほしいと願わずにはいられません。
ま、それにしても。
堂々とブラジャーのことを話題にできるようになるなんて、我ながらびっくり。
年をとるって、なかなか得難い経験ではありますね。
すべてはあの日から始まった。阪神淡路大震災が関西地方に残したもの。
みなさま、こんばんは。
地震のお話が続くことをお許しください。
6月18日の大阪北部地震から約半月、やっと地震のことをブログでお話できるくらいまで、気持ちの整理がついてきました。
地震ってほんとに怖いですよね。
なにが怖いって、揺れもそうですが、あの音。
地の底から響いてくるような、それでいて頭上から覆いかぶさるような、あの凄まじい音は一体どこからやってくるのでしょう。
阪神淡路大震災の時も、今回の地震でも、同じように響いてきたあの大きな音は、あまりにも大きな恐怖だったのでトラウマになりそうです。
そもそも、大阪という土地は、地震が本当に少ない街だったのです。
なにしろ、生まれてから阪神淡路大震災発生までに、私が地震を体感したのは、高校生の頃(←ってことはすんごい昔)にたったの1度、それも震度1の小さなものでした。
阪神淡路大震災までは、例えば家を建てるにしても、地震保険になんて誰も見向きもしないような土地柄だったのです。
思えばどうしてあんなにも無邪気に「大阪は地震とは無縁」と思いこんでいられたのか、甚だ疑問ではありますが、それゆえにこそ、阪神淡路大震災というものが我々関西人に植えつけたショックというのは、計り知れないほど大きなものでした。
以来、ずいぶんと関西人の意識も変わりました。
まず、個人の住宅から「婚礼たんす」というものが次々と消えていきました。
↑
こういうやつね。
我が家にもこんなタンスがありましたが、阪神淡路大震災の折には、そのすべてが倒れてしまい、セーターどころか靴下の1枚すら取り出せませんでした。
あの日、大阪府下でも約30人の死者が出ましたが、その原因の多くは倒れた家財の下敷きになったことによる圧死が多かったように記憶しています。
我が家も結局、すべてのタンスを処分しました。
今では、こんなタイプのタンスを所持している家庭はめっきり減って、残っているお宅でも、なんらかの転倒防止の策がとられていることが普通になりました。
今回の地震でも本棚の下敷きになって亡くなられた方がいらっしゃいましたが、阪神淡路大震災の後にタンスの処分が進まなければ、自宅内での被害はもっと拡大していただろうと思われます。
食器棚もね、危ないんですよ・・・。
勝手に扉が開いて中の食器が雪崩を打って外に飛び出し、あたりに破片が散乱、怪我のもとになりました。
我が家でも食器棚は処分して、作り付けの食器棚を使っています。
扉も斜め手前に引き出す仕様で、これがなかなか優秀です。
こんな感じ。
今回の揺れでも、扉は全く開かずに、食器もほどんど無事でした。
また、阪神淡路大震災後、住宅の耐震補強には税金から補助が出るようになりましたし、学校の耐震補強も進みました。
18日の地震の日、すでに登校していた娘は、自宅よりもずっと震源地に近い学校で地震に遭いましたが、「何が起こっているのか、まったく意味がわからなかった」ほどの衝撃だったのに、一時グラウンドに避難した後に戻った教室は、
「普段とまったく変わらなかった」
そうです。
これは直下型の地震に対しても、日本の耐震補強工事が非常に有用であることの証左だと思います。
阪神淡路大震災の教訓は他にもたくさん見受けられました。
まず、自衛隊の派遣が早かった!
阪神淡路大震災の時には自衛隊に派遣要請を出すのが遅れて、被害が一層甚大になりましたので、それを思うと隔世の感があります。
自衛隊のみなさんのご尽力には、被災地からも感動と感謝の声が多く上がりました。
また、阪神淡路大震災の時には、お役所で働く人のマンパワーが不足してしまい、家屋の危険診断さえなかなかできない状況でしたが、今回の地震では発生から1週間も経たないうちに、すでに1軒ずつの診断が始まっていました。
奈良や兵庫など、近隣府県の役所から支援が入ったからです。
それもまた、阪神淡路大震災の経験から、「次に同じことがあったら」の想定をお役所がしていたからこそでしょう。
また、ボランティアセンターが立ち上がるのも迅速でした。
阪神淡路大震災、また東日本大震災を経て、そのあまりに悲惨な被害の記憶が新しすぎて、「これくらいでボランティアさんに来てもらうのは申し訳ない」と遠慮が出てしまったのでしょうか、あまり申し込む人がいなくて、「遠慮せずにボランティアさんにお願いしてください」のチラシが配られていました。それもボランティアに来てくださる方がたくさんいらしたからでしょう。
今回、様々なところで、あの阪神淡路大震災の教訓が生かされているのを見ることができたのは、ありとあらゆる組織で、「神戸」をモデルに、被害の想定を何度も繰り返してきたからこそと思います。
反対に、まだ改善しなくてはならない課題もありました。
まずはもちろん、高槻市の小学校で起こったブロック塀による事故。
ひとたび大規模な災害が起これば、人間ひとりの力というのは非力なもので、だから、犠牲者を必ずゼロにすることは、とても難しいことはわかります。
でも、今回の事故は防げたはずではないですか?
地震が起こるたび、「ブロック塀は危険です」のアナウンスはしょっちゅうあったし、私も地震の度にそんなニュースを聞きました。
高槻市の職員だけがそれを知らないなんてことがあるでしょうか。
もちろん、行政の人間が、個人所有の敷地内にあるブロック塀を高圧的、あるいは強制的に撤去させることは難しいことでしょう。
でも「学校の」ブロック塀ですよ?
他の土地のブロック塀よりも、ずっとずっと撤去しやすかったでしょうに。
で、思うのですけど。
今ね、公立の学校って、すんごい「貧乏」なんですよ。
どこのお姑さんに管理されているんだろうと思うくらいの節約っぷり。(←ただの比喩です。世の中のお姑さんたちを悪く言うつもりはありません。ほんとにほんと。)
ボランティアで出入りしていても、あまりの「お金のなさ」にちょっとげんなりします。
「カラーコピーは高いから、よほどのことじゃないと使えないように、コピー機に鍵かけとこ。」
とか。
「コピー機に鍵」って。今どきカラーコピーが一体いくらするっていうのでしょう。そこまで管理しないといけないものでしょうか?
あと、
「ゴミ箱にはってあるビニールのゴミ袋は何度も再利用するように。」
とか。
考えられます?ゴミ袋ですよ。あの45リットルとかの。あれを再利用!
そこまで節約しなくてはならないくらい、学校ってお金ないんだ・・・という現実を見てしまうと、費用の安価なブロック塀が喜ばれてきたのもわかりますし、撤去のための費用もなかなか捻出できなかったんだろうなと想像できます。
だからこそ、「安全」に関する問題については、1市町村だけでなく、府や国の介入があってもいいのでは、という気がします。
「学校の敷地からはブロック塀の完全撤去を!」くらいのことを文科省に言ってほしい。心からそう思います。予算もつけてあげてください。
同時に私を含む、大阪のごく普通の有権者も、そろそろ、「小・中学校の統廃合」を受け入れなければならない時期に来ていると思います。
「離島に存在する唯一の小学校」じゃあるまいし、特に大阪市内では、今ほどの小学校の校数が必要だとはどうしても思えません。
私の自宅からも、徒歩通学が可能な小学校は5~6校。そのうち1学年1クラスしかない小学校は3校もあります。
少子高齢化の波が治まる気配が微塵もしない昨今、今後、児童数が激増することはありません。断言しますがそんな未来はやって来ない。
だとすれば、近隣小学校を統廃合して、学校数を減らす方向に持って行くべきです。
校長先生や教頭先生の人件費が1校分でも浮いたとしたら、その浮いた人件費でどれくらいのブロック塀が撤去できることでしょうか。
近所の小学校が廃校になるかも、の情報が流れてくると、そのたびに反対運動が巻き起こって署名なんかが回ってきます。
その運動をすること自体に反対はしませんが、私は署名しません。
年々先細っていく予算で、どうやって子どもたちの安全を守っていくのか、それを考えると、「なんでもかんでも反対ばかり」では、うまく行くものも行かなくなるんじゃないかなーと愚考しています。
改善しなくてはならない問題、その2。
今回の地震の発生は月曜日、朝の7時58分。
ほとんどの児童・生徒が登校途中、あるいは登校済みでした。
で、すったもんだの末に、すべての小・中学校で休校が決定しました。
娘の高校も休校になりました。
決定されたのが10時くらい。
中学生・高校生に関しては、帰宅を促す、で済んだかもしれませんが、問題は小学生。
余震が続いていましたので保護者のお迎えが必須でした。
で、すでに何とか勤務先に到着していた保護者の多くがまた引き返す羽目になりました。公共交通機関のほとんどが止まっているというのに。
仕方なく、自家用車やタクシーを使う人が多かったと思います。電車が止まっていることもあって、市内の道路は大渋滞、緊急車両の走行に支障が出るほどなのに、休校の決定がさらに渋滞を悪化させることになりました。
前述した通り、学校の耐震補強は優秀です。
下手に動き回って、道路上で余震に巻き込まれたり、渋滞を引き起こしたりするよりは、学校にとどまっていた方がずっとよかったのではないかと思います。
私たちは阪神淡路大震災から多くのことを学びました。
「あの時に、これだけの備えができていたなら、あれほどの犠牲者を出さずに済んだのに」という痛切な思いから、永遠に逃れられないほどに、多くのことを学んだのです。
その学びは確かに、今回の地震から、幾人もの人間を救ってくれたに違いありません。
けれども、18日の地震は非常に局地的なものでした。
仮に上町断層が動いたら、あるいは南海トラフ地震が発生したら。
どれほどの備えも追いつかないほどの被害が出ることでしょう。
私たちはもっともっと賢くならなくてはならないのかもしれません。
気の遠くなるような話ですが、想定されるあらゆる事態への解決策をひとつひとつ、見つけていく。
あきらめずに、対策を続けていくことだけが、不本意にも災害で命を失ってしまった人々への、唯一の供養なのではないかと思うのです。
長くなってしまいました。
言いたいことはまだまだたくさん。
特に高槻のブロック塀の事故に関しては、歯ぎしりするほどの悔しさで、しばらく冷静にはなれませんでした。(今日のエントリーもちっとも冷静ではありませんが)けれどもやはり地震のことは一度は書いておかなければ、と思いました。
最後まで読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。
出会う前から、夫との共通の記憶。それから地震のこと。
みなさま、こんばんは。
ずいぶん前に亡くなりましたが、私の母方の祖母は7人の子どもを産み育てた、典型的な明治の女性でした。
7人!
想像するだけでも「ふらっ」とします。
子どもってひとり育てるだけでも大変なのに。
で、夫の母方の祖母もまた、偶然ですが7人の子持ち。
なので親戚の集まりなんかに出向きますと、これが結構大変なんです。
だって、「おじおば」、その配偶者がいーっぱい。
似たような顔をしたおじさん、おばさんがうじゃうじゃいて、誰が誰やら。
結婚当初は、その中にいる義母を見分けられなくなって、目が白黒したこともあります。
夫も、私の親族と混ざると、なにがなにやらわからなくなるようで、ただひたすら曖昧な微笑を浮かべて時間が過ぎるのを待つ銅像のようになります。
夫の親族と一緒にいると、私はまったく話についていけなくなりますが、逆もまた然り。私も夫も親戚づきあいの際はただただ頷いて、話に混ざっている「ふり」をしています。
けれども、ひとつだけ、同じ同じ!と一緒に盛り上がれる話題がありまして。
それが祖父のこと。
戦時中、戦傷のために内地に帰還、その後応召されることがなかった夫の祖父は内地で終戦を迎えます。家族と共に戦時中を生きられた夫の祖父は幸運だったと思うのですが、ある日のこと、空襲警報が。
夫の祖母は子どもたちを起こし、乳飲み子を抱え(なにしろ7人!大変!)、慌てて防空壕へ行こうとすると、自分の夫の姿がないことに気づきます。
てっきりご近所、いわゆる隣組というやつですね、その消火活動に参加しに行ったんだろうと思っていたら、
先に入ってたんですって。防空壕に。
夫の祖母は、現代では考えられないことですが、妾宅へ出かける祖父を、風呂敷に包んだ着替えを持たせて黙って送り出すような人で、女中さんのお腹がどんどん大きくなっても怒りも動じもしなかった人ですが(←後になって女中さんのお腹の子の父親は別人であると発覚して、夫の祖父は「ほら!俺じゃないって言っただろう!」って大騒ぎしたみたいですが、家族みんなに「ああ、はいはい」ってスルーされたらしい。「日頃の行いって大事!」と夫の伯父はうれしそうに笑って言います。)、この時のことは、ずーっと怒り心頭だったようです。
で、よく似たことが私の祖父にも。
末っ子だった私の母がまだ産まれたばかりのころ。
大阪ではめずらしいことに地震が発生、祖母は大慌てで、まず7人の子どもを逃がそうと必死になっているというのに、
祖父はひとりで逃げたんですって。枕だけ持って。
この時のことを、祖母はやっぱりずーっと、ずーっと怒っていたようで、
親戚が集まると、必ず誰かがこの話を持ち出して、
「おばあちゃん、怒ってたなあ。」
って笑います。
きっと祖母たちは、祖父たちが自分を置いて逃げたとしても、さほど怒らなかったんじゃないかと思います。失望はしたかもしれませんが。
でも、幼い子どもたちを残して自分だけ、すたこらさっさと逃げ出したことだけは、どうしても許すことができなかったのでしょう。
晩年、夫の祖母も私の祖母も、祖父の介護と看病に明け暮れる日々でした。
祖母たちの心中は今となっては推し量ることができませんが、
「平素役に立たない人間が、いざという時に役に立つわけがなかった!」
と言い続けた祖母たちの怒りがそう易々と鎮まっているとも思えません。
地震や災害が発生すると、たまに「子どもを救おうとして亡くなった」お父さまのお話が出てきますが、そんな報に接するたびに、私と夫は「なんて痛ましいこと、悲しいこと」と悄然とするとともに、なんとなく目を合わせて、
「今ごろ、おばあちゃん、また怒ってるなあ。おじいちゃんのこと。
世の中にはこんなに立派なお父さんもいるのに!って。」
って言い合います。
同じ年で、出会ってからすでに4半世紀以上、共通の話題が多い私たち夫婦ですが、出会う前からこんな共通項があったんだなあと思うと、しみじみ縁を感じます。
「そんなことはおそろいでなくっていいねん!」
っていう祖母たちの声が聞こえてくるようでもありますが。ほほ。
で、地震といえば。
6月18日の地震では、幸い、我が家にはたいした被害はありませんでした。
最初の縦揺れは激烈でしたが、阪神大震災の時よりは揺れている時間も短かったように思います。
あれこれ壊れたり、棚の上から物が落ちたりはしても、阪神大震災の時のようなショックもありませんでした。
「ああ、そりゃ壊れるよねえ。」
という感想は、2度目だからなのか、それとも「娘さえ無事なら、モノなんて別にどうでも。」という気持ちなのか、自分でも判然としません。
当日はさすがに、街中、いつもとは違った雰囲気で、
高架の上で止まったままの電車、
そこから下車して線路を歩いて駅に向かう人々、
閉まったままの踏切、
水のペットボトルがなくなったスーパーの棚、
本来なら、それらの写真を撮ってみなさまにご覧いただくのが、ブログをやっている者として当然の行動なのかもしれませんが、私はどうしてもそういう光景に向けてシャッターを押す気持ちにはなれませんでした。
今は、高槻や茨木など、影響の大きかった地域が一刻も早く普段の生活に戻れるようにと祈らずにはいられません。
また当日、みなさまから、安否を尋ねるあたたかいメッセージをたくさんいただきました。
続く余震に怯えながらも、みなさまからのお言葉に気づくたびに、心の中に恐怖に打ち勝つための支えの杭を打ってもらったような気持ちになりました。
感謝してもしきれません。
終日、バタバタしておりましたので、お返事が遅くなったり、入れ違ってしまった方がいらっしゃるかもしれません。非常時のことと、どうぞご寛恕くださいませ。
世の中にはたくさんの人がいて、それぞれに違うことを望み、幸せの種類も不幸の形もたくさんあるのでしょう。
ネットの中ではその違いのあらわれ方も顕著な気がしますが、それなのに、私がこれほどまでやさしく、素敵な方々とばかり出会えているというのは一体どういうことなのでしょう。
じゃんけんは弱いし、宝くじには当たらないし、おみくじでもなかなか大吉をひけないくらい、くじ運のない私ですのに。
今回の地震で、我が身の幸せをつくづく感じました。
みなさまに、最大限の感謝を捧げたいと思います。
本当にありがとうございました。
東京に行かなくても食べられた!
先日。
marcoさんからまたまたすごいものをいただきました。えへ。
すごい。
marcoさんのブログでは見たことあるけど、ご近所のスーパーでは全然見つけられないものばかり。
まず最初に感動したのが、緩衝材として入ってた、新聞。
英字新聞!なんておしゃれ。
読めないけど、LAの不動産広告っぽい。広告でもおしゃれ!とっとこ。(←「とって置こう」の意)
ででで、LOVIのオーナメント!
今度は小さい赤いボール。
くり抜いてー、
重ねてー、
針金を引っかけてー、
合体させてー、
できあがり!
3個できたところでようやく慣れて、残りはかなりスピードアップ、一気にできあがりました。
合計8個。めっちゃかわいい。
ツリーに飾るとか、ガーランドにするとか、考えるだけでも楽しいです。
それからそれから。
マイクロトマトにフルーツほお好き!
marcoさんのブログで見て、食べたかったやつ!
どっちもすごくおいしくてびっくりしました。
マイクロトマトは小さいけれど味が濃厚。
我が家の野菜好きの母は「最近の野菜は味が薄い」が口癖なのですが、このマイクロトマトは一粒ずつが「ほんとのトマトの味」とご満悦でした。
それから「フルーツほお好き」。
初めて食べましたけれど、これねえ、めーっちゃおいしい!!
あまりにもおいしいのでお取り寄せしようと思って調べたら、
すんごいお高い・・・
これは買えませんわー。もう食べられないのかなー。
と嘆いていたら娘が言いました。
娘「種とか苗とか買ったらええんちゃう?」
うむー。種・・・。
でもさー、ママ、植物はすぐ枯らすしな・・・。
娘「だったら、職場に持って行けばいいやん。」
は?職場に?なんで?
娘「だってママさー、仕事となったら、めっちゃ必死になるやん。言われてないことまで引き受けて、持って帰ってまでやってるやん?仕事のうち、と思ったら、植物栽培も意外とちゃんとできるかもよ?けけけ。」
むっか。
でも、一瞬真剣に考えてしまいました。
一粒の種から、あるいは苗からフルーツほお好きがワサワサ生っているところを・・・
いや、でもやっぱり、
「マミーさん、また変なこと始めて!」
と職場でウワサされてるところを想像して我に返りました。
地道に節約して、お取り寄せします・・・。
それでそれで、まだまだある~。
これ、なんとmarcoさんの手作り♡
山椒の佃煮。
山椒って、鰻のかば焼きの上にパラパラとふりかけるもの、という程度の認識しかありませんでしたけれど、佃煮にしてもいただけるんだとびっくり。
すっごくおいしかったです。ごはんがすすむ、すすむ!
調味料としてのあの乾燥した山椒は、香りも風味も強い印象的ですが、生の山椒を佃煮にすると、あの独特の風味が柔らかくまろやかになって、醤油の風味とすごくよく合っていました。
これはほんとにおいしくて、このまま売れると思います。できれば売り出してください!これさえあればおかずは要らない!って感じです。
そして心にしみる甘いケーキ。
こちらもmarcoさんお手製のキャロットケーキ。
すみません、切り方が雑で・・・もうねえ、一刻も早く食べたくて、写真を撮るどころではなかった!
これもとってもおいしくって、家族で奪い合いになりました。
「スパイシー!」
「外国のケーキの味がする!」
って大騒ぎ。
ケーキを取り分ける時に、ちょっとこぼれたひと塊を、娘がさっと口に運んだときは、亡き祖母の、
「子どもはおいしいものをよく知っている」
っていう口癖を思い出しました。
ほんとにかわいいものとおいしいものがいっぱい、お腹いっぱいになって、満たされた気持ちになりました。
marcoさん、ほんとにありがとうございました。
でね、でね、marcoさん、ひとつ質問があるのです。
山椒の佃煮が入ってた、この容器。
これ。返さなくってもいいですかー?(←「いや、レシピを聞けよ」って家族からツッコミが・・・だって自分で作れる気がしないんだもんっ!)
夫に腹立つ。その3。
みなさま、おはようございます。
最近、当ブログでは、めずらしくも夫を「褒める」内容が続いておりますが、
先日、それを読んでいた夫が言いました。
「わかった!持ち上げてから落とす作戦やな!」
・・・なんという被害妄想。
別にそんなつもりは、
全く!
全然!
毛筋ほども!
なかったというのに(←3回くりかえすと嘘っぽくなるという好例)、夫を落とす話夫に言いたい苦情はた~くさんあるので、今日は我が家の夫にだけ耳の痛いお話。
私の夫はそもそも「こだわり」というものが極端に少ない人で、私が夫との結婚を決めたのも、そこが長所と映ったからです。
男性をかっこよく見せる雑誌なんかには「こだわりのある男」とか「大人のオトコ、こだわりの○○。」なんて見出しが躍っているのをよく見かけますから、私の夫選びの基準はちょっと奇異に感じられるかもしれませんけれど、この「こだわり」ってやつね、特に男性の。夫婦として一緒に暮らす場合、これほど「めんどくさい」ものってない、って私は思うのです。
お食事は必ずおかずが何品ないとダメだとか、アイロンのかけ方がどうのとか。
あとコレクション癖が強いとか。
私自身が何かに強いこだわりがあるわけではなく、ブランド物にもお洋服にも興味を持てない性格なので、夫となる人がそんなタイプだったとしたらきっとうまくいかないだろうなあとずっと考えていました。
「○○でないとダメ」とか「□□しか受けつけない」とか、あるいは自分の周りを自分の好きなもの、心地いいもので埋め尽くしておきたいとか、そういうこだわり傾向が強い人って、恋愛感情から覚めて、ふと気がついたときに、たまらなく「幼く」感じられるものだと思うのです。
例えていうなら、「スヌーピー」に出てくるライナス少年みたいだな、って。
まあそういう人も、かわいいと思えないこともないけれど、でもそれもあくまで自分が出産するまでの話。
いざ自分が出産してみると、そりゃ赤ちゃんの方がかわいいですものね。丸っちいし、やわらかいし、ミルクの匂いとかするし。
で、夫を見てふと気づく。
「あ、この人、私が産んだわけじゃない!しかももう大人やん!」って。
で、どうして夫のお世話までしないといけないの~!自分のことは自分でやって!の不満が募るようになるわけですが、そういう不満を感じているときに、「ああしろ、こうしろ」の要求をいっぱいされると、夫婦関係ってあっという間にこじれてしまうような気がします。
我が家の夫はたとえ私がお部屋の模様替えをしたとしても気がつかないくらいですし、鞄はモノが入ればいい、靴は歩きやすければいい、一事が万事、そんな感じなので、まさに私の理想通り、なんの不満もないはずなんです、そのはずなんですが・・・。
あるとき、ママ友のひとりがこんなことを言ったのです。
「好きな車と好きな女性のタイプはリンクするらしいよ」って。
ふ~ん。
なるほど。
夫の性格からして、イヤ~な予感しかしませんが、家に帰って聞いてみました。
「どんな車が好き?」って。
そうしたら。
夫「故障が少なくて、荷物がいっぱい積めて順調に走れば十分やねん、車なんか。」
へー。
びみょー。
まあね。
そこまではしょうがないですよね。
だって、そういう人だとわかってて、そこがいいんだと思って結婚したんだし。
でも、でもね。
「・・・車の好みと女性の好みって似てるらしいよ。」
って言った後の夫の返事。
慌てまくって、フォローしようとしたんでしょうけれど、
「見た目じゃなくて、性能重視ってことやで!」
って。
フォローになってへんし!
もうほんと、デリカシーのかけらもないわー。ってむかっときたのですが、おもしろいので「ははは」と笑っておきました。
大阪生まれだけど九州育ちの夫は、二言目には、
「なんでもおもしろいかおもしろくないかで判断するのが大阪人の悪いところ」
って言いますけれど、実のところ、その判断基準のおかげで一番得をしている(←命拾いとも言う)のは夫ではないかと思う今日この頃です。
おまけ。
新作。
カモミールとラベンダー。
完成したのを横から見た夫が言いました。
「菊となすび?」
・・・あ゛?
まあ、お盆も近づいてるしね・・・
って。
なんっっでやねん!
腹立つなあ、もう。
通天閣は別天地
先日、食事中に母が言いました。
「お母さん、通天閣って登ったことないわー。」
って。
通天閣ね。
確かに大阪のシンボルのうちのひとつなのでしょうけれども、シンボル的存在だからと言って、誰もがそこを訪れるわけではないですよね。
たとえば京都タワーに登ったことがない京都市民もいっぱいいるだろうし、
札幌時計台に行ったことがない札幌市民だっていると思う!(いますよね??)
私自身は大昔に一度登ったことがあるような気がするのですが、あまりにも古い話で、記憶が明瞭ではありません。
それに通天閣界隈は昔、あまり治安がよくなくて、私も酔っ払いに絡まれて以来、「二度と近づくまい」と心に誓って生きてきたので、すっかりご無沙汰していました。
でも、最近では再開発も進んで、治安も劇的によくなったとの噂ですし、娘も「行ってみたい」というので、先日、家族で通天閣に行ってみることにしました。
最寄り駅・大阪市営地下鉄(最近「大阪メトロ」って名称変更されましたが)御堂筋線「動物園前」駅。
壁面にはいろんな動物の意匠がタイル画で施されています。
キリンやゾウさん、トラもいます。
天王寺動物園へお寄りの際は、動物園前駅のタイル画もぜひぜひご覧ください。
でも今日は動物園に行くわけじゃなくって、
「新世界」。
とにかく「ごちゃごちゃ」「がちゃがちゃ」な街。
統一感とか”おしゃれな感じ”とかからは最も遠い街です。
それでも昔に比べればね・・・ずいぶんと「小ぎれいになった」とは感じます。
だけど、こういう「ダジャレ」の押し売りみたいなお店は健在。
ガチャポンばかりを取り扱っているお店のようです。
「しょ~もな~」(←しょうもない=「くだらない」の意)と鼻で笑って通り過ぎるのがオススメ。
新世界といえば、この「づぼらや」の看板が有名かな。
大阪といえば「戎橋」のグリコの看板か、この「づぼらや」。
でも入ったことないなあ。おいしいかどうかは知りません。
派手な看板は「づぼらや」の専売特許というわけではなくて、このあたりの食べ物屋さんの看板はたいてい「ド派手」。
大相撲風とか、
ビリケンさんとか、
えべっさん(恵比寿様)とか、
鶴亀に、
お船まで。
「一体全体、なんの騒ぎだー!?」と言いたいくらい。
見ているだけでお腹いっぱいになっちゃいます。
通天閣も見えてきました。
でもその前に、大きめのお土産屋さんがあったので、ちょっと寄り道。
と言っても、観光客向けの「ベタ」なものしかなくって、例えば、
ひたすら大阪弁推しグッズ。
それしかないのか、「たこ焼き」のオンパレード。
とにかく「吉本」頼み。
しつこいくらいのダジャレグッズ。
うーん、あんまり欲しいのが見つからない。
あ、でも、常に「はてな」のことが頭にある私ですので、
↑
こんなの(短くなった鉛筆用のキャップ)を見ると、セネシオさまのお気に召すかしら、とか、
↑
こういうのを見たらチコ次郎さんが「きゃあきゃあ」言うんだろうな、とか、そんなことばかり考えて店内をひやかしてました。
さてさて。
それではそろそろ肝心の通天閣に登ってみましょうか。
通天閣の真下から上を見上げたところ。
こんな絵が描いてあるんですね。
伊万里の古いお皿みたいでなかなかキレイ。
近くに来てみないとわからないこともありますね。
入場券。これも「ベタ」やなあ。
もちろん入場券は700円で、7百億円ではありません。
私が子どものころは市場なんかに行くと、50円のお釣りを渡すのに、「はい、50万円」なんて言うおじちゃんが必ずいたものですが(←ほんとにいた)、最近はめっきり見かけなくなりました。
「市場」がなくなってスーパーでばかり買い物してますものね。それも当然の時の流れです。
通天閣の中はところどころ撮影禁止の場所があるので、あまり写真がないのですが、とにかく中には「ビリケンさん」がいっぱい。
大阪の街の中で、これほどまでにビリケンさんに会うことってないんですが・・・やはり通天閣にとってビリケンさんはなくてはならないシンボルなのでしょう。
とにかく全力で観光客から小銭を巻き上げるシステム。
足に触るといいことがあるというビリケンさんですが、全体的に触られまくっているのがよくわかる汚れ具合。
で、5階の展望台に上がると、そこは謎の金ぴか空間。
合わせてビリケンさんも、
金ぴか空間に鎮座なさってました。(ビリケンさん、何体あるねん…と思った。「ありがたみ」という観点からは、完全に逆効果、と思うのは私だけ?)
ちなみに、この金ぴか空間のビリケンさんとか、展望台エレベーター前とかでは、「写真撮影」のサービスもあります。
1枚1,100円くらいだったかな。
やたら元気なお兄さんが写真を撮らせようとしてガツガツ迫ってきますから、がんばって「いりません!」と言いましょう。高いテンションと迫力に負けてはいけません。
「せっかく通天閣まで来はったのに、ここで写真を撮らへんなんて、「ターミネーター1」を見て、「ターミネーター2」を見いひんようなもんですよっ!」
なーんて言われると思いますが、その意味不明さにたじろいでいてはいけません。
すかさず「ターミネーター見てへんし。」(←ウソ)と言いましょう。
そしたら「え~。じゃあ、しゃあないかなー。」とあきらめてくれます。
恥ずかしがってもじもじしてたらダメですよ!
通天閣に入る前に、「いらないです!」「いりません!」と発声練習しておくといいかもしれません。
でも、ビリケンさんの前のスタッフには、自分のカメラやスマホのシャッターを押してもらうことはできます(無料)。
すんごいハイテンションでシャッターを押してもらえますから、それはちょっと楽しいかも。
今や、あちらの方が3倍くらいの高さ・・・。大阪の街を一望するにも、ハルカスからの方がいいのかもしれないなあ。
昔、まだ若かったころ、通天閣にやってきたときは、この界隈はもっとずっとうら寂しい場所でした。
なにもかもが古くて、いじましくて、薄暗くて、かつてここが一等地だった過去の出来事が夢であったかのような場所。
それが、今では「大阪らしさ」を求めてやってくる観光客の期待を裏切らないように、「大阪」のエキスを無理矢理ぎゅぎゅうっと詰め込んで、わかりやすい観光の街として生きていく道を選んだように思われます。
「大阪人以外の人にとって」どこよりも大阪らしく、「外から見たイメージ通り」の大阪であるように。
結果として、すれ違う人から聞こえてくるのは外国語ばかりで、どこかよその国に紛れ込んでしまったかのように感じられました。
ここは、大阪でありながら、違う世界の大阪なんだなあ、としみじみしつつ、
「夜ごはん、どうする?このあたりの串カツ屋さんに入ってみる?」と母に聞いたら、
母「こんなやかましいところで食べられへん。梅田で食べよ。」
という返事が返ってきました。
自分が「通天閣に行きたい」って言うたのになー、と思いつつ、地下鉄の駅に急ぎながら、これから先、この「新世界」はどんな風に変わっていくのだろうとちらっと思いました。
この時代に、通天閣の「今」を想像できた人が一体何人いたことでしょう。
時代の移り変わりについていけなくなった時も、それでも黙って新世界に立ち続けた、ちょっと時代遅れでダサくてカッコ悪い通天閣。
でも、そのちょっとカッコ悪いところも含めて、いえ、ちょっとカッコ悪いからこそ、
「大阪人はあんたを見限らへんよ。がんばり~。」
と声をかけたくなりました。
大阪に来られた際は、ハルカスと合わせて通天閣にもぜひ。
うんざりするほど「濃い」大阪に、どっぷり浸かってからお帰りください。
「男がアホな犬」なら出産直後の女性は何にたとえられるのか、夫に聞いてみた。
みなさま、こんばんは。
先日のエントリーで、ID:pucayuさまからこんなブックマークコメントをいただきました。(pucayuさま、ありがとうございました。いつもコメントくださるみなさまも、ありがとうございます。)
pucayu 出産後のおかしなテンションの当時を冷静にふりかえる今のマミーさんがかわいいです。
えへ。
かわいいって♪(←お世辞を真に受けて失敗するタイプ)
ええっと。
今日お話ししたいのは、ほんとの私はかわいくないのに、どれだけ猫をかぶってるか、ということではなくってですね、
「出産直後の女性がどれだけおかしなテンションになるか」
について、もうちょっと詳しく。
出産前後の女性の精神状況の変化について、山のように情報が出回っている今と違って、私が出産した当時はまだそれほど世間で認知されていたわけではなく(←私が知らなかっただけかもしれないけど)、私も「新生児を育てる際の注意点」ばかりが気になって、自分の身にどんな変化が起きるのか、考えてみることもありませんでした。
で、てんやわんやの子育てがスタートしてみたら。
やっぱりおかしいんですよね、私が。あきらかに。
なんといっても、気分の浮き沈みがいつもよりも激しくなりました。
ひたすらヒステリックになるというよりは、喜怒哀楽の感情がいつでも最大級の大きさで襲ってくる感じで、ほんのちょっとした幸運にも舞い上がるほどうれしくなったり、かと思うとつまらない失敗で、この世の終わりのようにふさぎ込んでしまったり。娘に授乳しながら読んだ本に感動してわんわん泣いてたり、ね。
でも、いくつかの精神的な疾患の症例患者が「自分はおかしくない!」と主張するのとは違って、自分でも「なんか変だな」という自覚がはっきりとあるのです。
逆に言うと、それがしみじみとつらい。
だって、なまじ「おかしい」という自覚症状があるために、ジェットコースター並みに激しく上下運動を繰り返す自分の「心」を抑えこむため、一日中、悪戦苦闘する羽目になるのですから。
「こんなことでどうしてこんなに浮かれているんだろう、冷静にならねば。」
とか、
「こんなことくらいでいつまで落ち込んでいるんだろう、早くきりかえなくては。」
とか、
「なんでこんなに泣くんだろう、この本の結末、ちょっとご都合主義じゃない?いつもの私だったら、絶対泣かないよね?」
とかね。
出産直後、なにがしんどいって、この、「ロデオのように浮き沈みする感情を抑え込もうとする作業」ほど「しんどい」ことはありませんでした。
中でも、すごく鮮明に覚えているのは、ある朝のこと。
娘が初めて、私の顔をはっきりと視認して、「にこー」って笑ったのです。
瞬間。
直径30センチの槍が飛んできて、私の心臓の真ん中に突き刺さったのかと思いました。
胸があまりにも痛くて、息もできなくなり、私は娘のそばにすとんと座り込んでしまいました。
スタジアムの照明を直視したみたいに、目の前は真っ白になるし、ありとあらゆる音が遠ざかって、心臓の鼓動だけが頭のすぐ横で鐘のように鳴り響き、私はもう、酸欠の金魚みたいに苦しく身を震わせながら、
「ああ、笑ったん?今、笑ったんやねえ。」
と出ない声で繰り返しながら娘を抱き上げて頬ずりしました。
どうやっても止まらない涙で娘の髪や頬をぬらしながら、私は「今のは一体なんだったんだろう」としみじみ考えました。
もしも、この感情が、今、胸にこみあげている、この痛みと苦しみとしか言いようのない強い感情が、本当の、本物の「愛」なのだとしたら、今まで私が考えていた「愛」とは一体なんだったのだろうと思いました。
そして、私は、私が「なにもわかっていなかったこと」に気づいたのです。
これが、これこそが正しく「愛」と呼ぶべきもので、今までの私は、真の「愛」とはなんなのか、なんにもわかっていなかったのだと。
私は今すぐ頭の中の辞書の「愛」というページを書きかえなければならないのだと。
で、それでね、私、
窓ガラスを「ばーん」と開けて、
「今までうっかり「愛してる」なんて言っちゃった人、ごめーん!あれ、勘違いでしたー!結果としてウソついたことになっちゃったけど、ほんとごめんねー!」
って叫ぼうかと思いました。
ぎりぎり踏みとどまったけど。(←マジでよかった、踏みとどまれて。)
ね?
変でしょう?
変なんですよ。
ただでさえ出産時のダメージのあらゆる痛みからまだ回復していない状態なのに、極度の睡眠不足、おまけに精神だけはジェットコースタームービーの主人公のような毎日。
まさに「疲労困憊」、なのに「興奮状態」としか言いようのない状態でした。
そんな時、私の救いになったのが、知人からの出産祝いについていた「カード」。
そこにはこんなことが書かれていました。
「出産直後はホルモンのバランスが崩れて精神状態が不安定になります。
だんなさまに甘えて、ゆっくり休んでね。」
この言葉を読んで、私は自分の身に起っている諸々の変化が、
「私だけじゃなかった!誰にでも起こる自然現象で、いつかはきっと治まるんだ!」
と知って、心の底から安心したのでした。
以来、少しは気持ちが楽になり、たとえ気分の浮き沈みがあったとしても、落ち着いていられるようになりました。
また、夫には甘えていいのだとお墨付きを得たような気がして、「寝られなかった」とか「しんどい」とか、堂々と言えるようになりました。
夫も、感情の起伏の激しくなった私をよく支えてくれたと思います。
夫は常々、「男は頭の悪い犬!」と主張してやみませんが、
娘がある程度大きくなってから、あれほど「おかしくなっていた」私は一体、彼の目にどんな風に見えていたのだろうと、ふと疑問に思って聞いてみました。
「男の人が犬なんだったら、じゃあ、子育て中の女の人は何?」
そうしたら、
夫「子育て中のメスライオンやな。逆らったら、命にかかわるで。」
とのことで。
む。むむむっ。
・・・ライオンはカッコいいから、別にいいけど。
でもでも、じゃあ、「普段」はどうなのかしら。
なんの動物にたとえられるのかなあ?
「じゃあ、子育て中じゃない女の人は?」
夫「・・・子育て中じゃないメスライオンやな。」
「命にかかわる」という点では、変わりはないんじゃないかという気がするのですが、ま、それだけ妻がコワいってことですよね。
ほほほ。