国立文楽劇場で「義経千本桜」を観ました。
みなさま、こんばんは。
先日、知人に誘われて、国立文楽劇場で「文楽若手会」を観劇してきました。
文楽。
大阪文化のひとつではありますが、私が前に観劇したのは子どもの頃・・・。
ついていけるかしら、と不安にかられつつも、今回はなんと、講演前の楽屋や舞台裏を案内してもらえるという破格の特典つき!(←知人が若手会を応援しているご縁で。)
こんな機会を逃してなるものか~、とウキウキで出かけてきました。
大阪市中央区にある国立文楽劇場は大阪地下鉄、「日本橋(にっぽんばし)」駅7番出口からすぐ、徒歩1分のところにあります。
カラフルな興行のぼりを見ると、ウキウキ感とワクワク感がMAXになります。
ロビーには巨大なお人形の頭が・・・。
これ、使うことあるのかな・・・まさかね。
道頓堀界隈で有名なくいだおれ人形も・・・
大阪人にはあまりにも馴染みが深すぎて、つい、
「いやぁ、久しぶりやねえ。こんなとこで何してはるん?」
と声をかけたくなります。
ロビーで知人たちと集合したのは開演1時間半前。
そこから2階の楽屋に案内してもらいました。
楽屋のお部屋の入り口にはそれぞれ個性的な紋入りの暖簾が。
どれも素敵。
ちょっと渋めの色合いがたまりません。
舞台の上から客席を見たところ。
この日出演なさる人形師さんや太夫さんたちがあちこちで練習していて、誰もいない客席にその声が響いていました。
舞台の裏にはいろんなセットや小道具がスタンバイ、たとえば人形師さんたちが履く下駄なんかも見せていただきました。
下駄にはいろんな高さがあって、その底にはそれぞれ「藁草履」を履かせてありました。滑りやすくするため、また音を立てないための工夫なんですって。
どれも興味深くて、みなさまにもご覧いただきたかったのですが、夢中になってたから写真はないの・・・ごめんね!
廊下では今日登場する役者さんたち、いえ、お人形さんたちが待機中。
首の後ろを釘で「ひっかける」ように立たせておくんだとか・・・それを聞いたときには「かわいそう・・・」とすでに感情移入が始まっておりました。
相変わらず悲惨なくらい、写真が下手・・・ryoさんについてきてもらえばよかった(←わがまま)
実物のお人形さんたちはほんとにほんとに素敵なんですから!
衣装はもちろん全て正絹、金糸の刺繍も艶やかで、髪飾りの細工なんてものすごい細かさ!
「お金かかるんですよ~」と人形師さんは笑って説明してくださいましたが、お人形の着付けはその人形師さんたちが自ら行うそうです。
背中の後ろから左手を入れて、お人形の頭を下から支えたとき、その重さにびっくりしました。
お人形の重さは約3キロ。
こんな重いものを片手で支えながら演技をするってどんなに重労働でしょうか・・・。
筋トレしないと・・・と思わず口走りましたら、人形師さんは
「筋肉をつけた腕で人形は使えへんのです。やわらかい演技をするにはガチガチの筋肉がついとったらあかんのです。」
と笑っていらっしゃいました。
なので人形師さんたちは肩こりや腱鞘炎がデフォなんですって・・・大変だろうなあ。
で、今回の演目は「義経千本桜」と「妹背山婦女庭訓(道行恋苧環)」。(ちなみに上の写真で私がうれしそうに持っているお人形は道行のお三輪さんです。)
「義経千本桜」からは三段目の
「椎の木の段」
「小金吾討死の段」
「すしやの段」
思うに「義経千本桜」って、「敗者に心寄せる」物語なんですね。
壇ノ浦で活躍しながら兄に疎まれ居場所を失くしてしまった義経、そして源氏に敗れて一族郎党、波間に消えていった平家の面々。
勝ち誇る勝者の側よりもむしろ、散っていった敗者の方にこそ哀れを感じ、同情せずにはいられない・・・この物語が大阪で生まれ、ことさら愛された背景には、大阪人のそんな気質が強く影響しているように思います。まあちょっと「ひねくれた」ところが多いんですよね、大阪人って。判官びいきの強さときたら、他の地域の方には異常に感じられるほどかもしれません。(今回上演されたのは「三段目」だったから九郎判官義経は一回も出てこなかったけど・・・)
で、今回の上演で、特に心に残ったのが「すしやの段」。
平重盛に恩義を感じていた弥左衛門はその長男、維盛卿を匿っているのですが、弥左衛門の息子、「いがみの権太」はあろうことか、維盛卿を殺し、その妻子を鎌倉からの追手に差し出してしまいます。(←後々、それは誤解とわかるのですが。)
逆上した弥左衛門は息子「いがみの権太」を刀で一刺し、苦しむ権太に駆け寄る母・・・のシーンがすごい。
憎いながらも悲しさの母は思はず駆け寄って
「コリヤ天命知れや、不孝の罪思い知れや」
と云ひながら、先立つものは涙にて伏し沈みてぞ泣き居たる
弥左衛門歯噛みをなし
「ヤア泣くな女房、何吠えるのぢや。不憫なの可愛いのと云うて、こんな奴を生けて置くは、世界の人の大きな難儀ぢやわい。門端も踏ますなと云ひ付け置いたに内へ引き入れ、大事の維盛様を殺し、内侍様や若君をよう鎌倉へ渡したな。モゝゝゝもう腹が立つて、涙がこぼれて胸が裂けるわい。三千世界に子を殺す、親といふのは俺ばつかり、あつぱれ手柄な因果者にようしをつた」
と抜身の柄砕くとばかりに握り詰め、刳りかかるも心は涙
この場面を見たとき、私はすぐに、つい最近世間で大騒ぎになったニュースを連想してしまいました。
みなさまもそうでしょう?
引きこもりに家庭内暴力。この上、世間や他所様に迷惑をかけてしまったら・・・と恐れた父親が息子を手にかけたというあの事件。
その悲しい、酷いニュースとよく似た事情が舞台の上で繰り広げられているのを見て、なんとも言えない気持ちになりました。
もちろん、「義経千本桜」が生まれた当時と今では時代が違いますから、最悪の事態を招いたきっかけも違います。
どれほど悪事を繰り返していたとしても、我が子とはかわいいもの、弥左衛門もよもや息子を殺そうなんて、思ってもみなかったに違いありません。
けれどもそれが「忠義に背く」となれば、話は別です。
どんなに子がかわいかろうと親子の情が深かろうと、弥左衛門は権太を殺さなければならなかったのだろうし、世間もそれを「あっぱれな心がけ」と称賛したのでしょう。なにしろ、個人の「人権」なんて、その概念すらなかった時代ですから。
では、現代ではどうなのか。
果たすべき「忠義」なんて、もうどこにもありはしませんが、代わりのお題目は「世間様に迷惑をかけない」ということでしょうか。
世間に迷惑をかけるくらいなら、親が子を殺すことも了とする、そんな風潮が現代日本に残ってはいないでしょうか。
権太の母親が泣き崩れる姿を観客席から見上げながら、
「変わってない、この国の根っこの部分は、この文楽人形が生まれたころから、なんにも変わっていないんだ」
としみじみと思いました。
人権や個人主義といった、新しい概念が日本に入ってきてから百有余年、それでも私たち日本人は未だ封建社会に生きていたころの美徳や倫理観を引きずりつつ生きているということなのでしょう。
そのことのすべてが悪いとは思いません。
そういった美徳や倫理観なしでは、私たちはそもそも日本人とは言えなくなるし、こうして文楽や歌舞伎などの芸能に感動することすらできなくなってしまうでしょうから。
でも、それでも思うのです。
子どもを殺すことで「親の務めを果たした」と言わんばかりの論調が今も繰り返される風潮は、なにかおかしいんじゃないのかなって。
それは、日本が近代国家であることを放棄するのと等しい考え方ではないのかなって。
文楽や歌舞伎をはじめとする、古典芸能の中にだけ存在する考え方や美徳があってもいいんじゃないかな。
舞台の上でスポットライトを浴びて生き生きと躍動するお人形さんたちを見ながら、そんなことを考えました。
文楽。
一事は公金からの支援が断たれて、存続の危機にありましたが、今回の公演では客席はほぼ満席、観劇してみれば、その魅力はちっとも古びていなくて、今も昔も人の心の機微には共通点が多いのだという感慨を深くしました。要するに、すご~くおもしろかったです!
ちなみに今度の金・土曜日には東京・国立劇場で同じ演目が見られます。
興味のある方はぜひお出かけくださいね。
・・・若手会なので、チケットもお安いですよ・・・な~んて「安い」アピールをしちゃうところが、私が典型的な大阪人である所以です。ほほ。
インスタやってないけど映えそうな村に行ってみた。
みなさま、こんばんは。
このところカゼをひいてしまい、「はてな」をお休みしておりました。
たいしたことはないと思っていたのに、すっきりしないまま2週間近く長引くカゼ・・・もう若くない、と痛感しています。
体調はいまひとつ、でも日曜日には、親戚の集まりがありまして、鼻をすんすん言わせながら、お出かけしてきました。
お目当ては南郷公園にできたばかりの「明智光秀像」。
こんな感じ。
どどん。
実はこの銅像、夫の親族が亀岡市の依頼によって作ったものなんですって。
出来上がったのを見に行くぞーという話を聞いて、私たち家族も同行させてもらいました。
親戚に彫刻家がいたなんて、これまでぜーんぜん知らなかった私・・・
ほら、昔の人ってきょうだいがいっぱいいるじゃないですか、私も夫も「おじ」や「おば」や「いとこ」がうじゃうじゃ・・・今まで会ったこともない人がたくさんいるんですよねー。
で、作った張本人に会える、せっかくの機会なのだから、色々と聞いてみたいなー、と思っていたのですが、夫の親族は私の親戚と同じくみーんな大阪人。
なので、
まったく、
全然、
一時も、
黙ってはいないんですよね・・・。
結局、この日もただひたすら「うんうん」「はいはい」と頷くだけの時間が過ぎて行きました。
でも、少しは銅像の話も聞けたんですよ~。(←要するにほとんどが銅像に関係のない話で終始したってことですが。)
〇 台座のデザインは野面積みの石垣の雰囲気をイメージしている。
〇 足元のステンレスの意匠は洛中洛外図などでよく見る「霧」のイメージ。
〇 銅像制作の依頼を受けた後に、来年の大河ドラマの主人公が明智光秀に決まったと知った。それで背中を押された気がした。
んですって。
今年の「いだてん」は大コケしているみたいですけど、来年はまた王道に戻って戦国時代が舞台ですから視聴率も期待できそうですよね。
見ますよ!もちろん。
だって、
「長谷川博己の大ファンだから♡」 (←どうでもいい)
初めて長谷川博己さんを見たのはNHKの「セカンドバージン」だったかな、
あまりにも好みにドンピシャで、「誰これー!」と大騒ぎして、年甲斐もなくきゃあきゃあ言いました。
つくづく「細長い人」が好き♡そして「理屈っぽそうな人」が好き♡
長谷川博己さんがテレビに颯爽と登場した時には、内野聖陽さんを初めて知った頃のことを想起せずにはいられませんでした。
彼の登場にも鮮烈な印象を抱いたものです。
今ではすっかり中年の渋い大俳優に・・・と思ったら、ふんわり乙女なゲイの役もこなしたりして、すごい俳優さんだなあといつも思います。
大好きな俳優さんが「明智光秀」に・・・悲劇的な最後とわかっているので少し切ないですが、今から来年の大河ドラマが楽しみです。
来年、もしも明智光秀がブームになったら、ぜひぜひ亀岡市南郷公園内にある「明智光秀像」に会いに行ってくださいねー!(←宣伝)
で、亀岡市から帰阪する際中、山の中でいかにも「インスタ映え」しそうな場所を見つけました。
ずーっとこんな感じの(↓)田舎の山道を走っていたのに、
突如現れる大量のユニオンジャック。
なんだここは・・・と思わず入ってみたら、そこにはとても亀岡市とは思えないような光景が広がっていました。
いかにもイギリスの田園風景って感じ。(←行ったことないけど)
メインはレストランのようですが、雑貨やアンティーク家具などの取り扱いもあるようです。
特に驚いたのが、これ。
これ、「コテージ」らしいんですが、売り物なんですって。
このまま購入可なんだとか・・・いくらかかるのかは知りませんけど。
広ーいお庭をお持ちの方は検討してみてください!
他にもインスタ映えしそうなスポットがいっぱい。
普段は人で溢れかえっているみたいですが、この日はお天気がいまひとつだったせいか、レストランにもすぐに入れました。
スコーンも紅茶もローズソーダもどれもおいしかったです。
お腹が空いているときにもう一度行きたいなあ。
水色の首輪をつけた看板猫もいました。
人慣れしていて物怖じしない、理想の看板猫さんでした。
日本のごくごく普通の田舎の風景も美しいと思うのですが、そこに唐突に現れる英国風の庭園・・・ちょっと不思議な光景ですが、亀岡にいらした時には話のネタに訪れてみてもいいかもしれません。
ダラダラ10連休に作ったもの
みなさま、こんばんは。
10連休、終わりますね・・・長かったような、あっという間だったような。
私もきっかり10日間お休みしていましたが、振り返ってみて、一体何をやっていたんだか、さっぱり思い出せません。(←老化?)
思えば今年は娘の受験のために、暮れも正月もないような状態で、未だにちょっと放心状態、正直ゴールデンウイークだからと何かを企画したりお出かけしたりする気持ちにはなれませんでした。
この10日間、久々にゆっくり休んだことで、ようやく心のリハビリができたような気がします。
娘もこの休み明けからは、より大学生らしい生活に突入していくことでしょう。のんびり屋の娘ですが、できれば充実した学生生活を送ってほしいものです。
ついでに少しは女子力も磨いてほしいなあ。
ま、親である私が女子力なんてものには無縁の人生でしたから、娘に期待するだけ無駄なのかもしれませんけれども・・・。
でも我が家の娘の場合、ほんっとにひどい・・・女子力ゼロ、なんてレベルではないのです。
思えば3年前。
高校の合格発表の日。
入学説明会に娘とふたりで出かけたのですが、壇上の先生から、衝撃の一言が。
「うちの高校には、制服がありませんのでー」
・・・は?
私は隣に座っている娘を見ました。びっくりして。
そうしたら、娘も私を見てました。おんなじように驚いた顔をして。
「・・・知ってた?」
「知ってるわけないやん。」
そこから、私の頭の中は真っ白状態、説明会の内容なんて、ほとんど右から左に抜けていきました。
考えていることといったら、ただひとつ、
「入学式、何を着せたらいいんやろう?」
ってことだけでした。
「女の子は大変よねえ。制服がかわいくないからあの高校には行きたくないとか、平気で言うやん?いっそもう一段、偏差値のレベルを落としてでも制服のかわいい高校に行きたいって言うもんね。」
なーんて話が同級生の保護者同士で持ち上がった時なんて、目が泳ぐ、泳ぐ・・・。
みんな志望校を決めるときに制服のチェックをするんだな・・・と驚きつつも、娘に対しては、
「なんで制服のチェックせえへんかったん???」
とツッコまずにはいられませんでした。
もちろん娘からは、
「じゃあママは高校決めるときに制服のこと、ちょっとでも考えた?」
と切り返されて、ぐうの音も出ませんでしたが。
高校生活が始まったころには、着ていくものに少し悩む様子が見られましたが、結局はどんどん楽な方、ラフな方に流れて行った娘。
せめて大学に入ったら、もう少し女の子らしく、というか、ちょっとはおしゃれをしてもいいんんじゃないかなーと思っていたのですが、本人にその気はまったくナシ、相変わらずトレーナーにデニムパンツ、スニーカーという、味も素っ気もない格好で出かけていきます。
娘とお買い物に出かけてかわいいお洋服を見かけても、本人が着るかどうかわからないものに、お金を払うことにはひどく抵抗を覚えます。娘の部屋のクローゼットには、結局一度も袖を通すことのなかったお洋服が大量に眠っていますので・・・。
なので、このゴールデンウイークには久しぶりに娘のお洋服を自作することにしました。自分で作ればかなりの安価で仕上げることができますので、もったいなくないですものね。
娘の好みはとにかくシンプルで地味なもの、華美でないもの、かわいらしすぎないもの・・・
布地屋さんで私が見つけたのはこんな生地。
最近、レトロなワンピースを着ている若いお嬢さんをよく見かけるので選んでみましたが、さすがにちょっと地味過ぎでしょうか・・・。
でもでも!
ほら!梅田ルクアでみかけたこんなワンピース!こんなのが今流行ってるんだったら、十分アリじゃない?
はりきって、せっせと縫いました。
ちょっとデザインは違うけども・・・ま、素人芸なんでこんなもんでしょう。
で、
「ブログに載せるから、着ているところを写真に撮らせて~」
と娘に言ったら、
「ぜ~ったいイヤ!」
と断固拒否されてしまいました。ちっ。
顔は写さないから!
着てみないとどんな感じかわからへんやん?
って、かなり粘ってみたんですよ?
でも「無理無理無理、絶対無理!」と、取りつく島もありませんでした。
まあね、「養在深閨人未識」と言いますもんね、未婚の若い女性は自分の写真の取り扱いに慎重になった方がいいとは私も思います。
写真入りの年賀状とかも作ったことないもんなー。
今さら写真撮らせて~と言ったところで、当人には迷惑以外の何物でもないことでしょう。
なので、私が着てみました。(←チャレンジャー)
チャレンジャーだけど、二の腕は見せられません~。太いから。あはは。
だけど、ちゃ~んと着られます。
ジャバジャバ洗濯しても、バラバラになったりしませんよ!
これで材料費は3千円くらい。安い!!!
娘が着てくれなかったら、私が着ます・・・。
おまけ。
昨夜、もう一枚、縫い上げました。
着てみたら、ものすごく涼しくて、真夏にちょうどいいワンピースになりました。
ピンクとかで作ってみたかったなー。
ママはドラえもんではありません。
みなさま、こんばんは。
先日、娘を連れてお買い物に行ったときのこと。
私たちの前を歩いていた高齢の男性が、角から出てきた別の男性を避けようとして、身体のバランスを崩し、すとん、と尻餅をついてしまいました。
また間の悪いことに、男性が倒れ込んだのは自転車の駐輪場。
倒れる際に自転車に触れてしまったのでしょう、周囲の自転車が雪崩を打って一気にバタバタと倒れてしまいました。
その場にいた人たちはいっせいに駆け寄って男性を助け起こそうとしたり、「大丈夫ですか?」「お怪我はないですか?」と声をかけたり、大騒ぎになりました。
幸い、お怪我もなくご無事だったようなので、誰からともなくみんなで自転車を片付け始めました。
ふと目を上げると、娘も黙々と倒れた自転車を起こして並べています。
その姿を見て、
「そうだった、こういうところ、骨惜しみしない子だった。」
と思いつつ、他にあれこれ欠点があったとしても、自分の子どもがこんな時に見て見ぬふりをしてしまうような人間でなくてよかった、としみじみ思いました。
しかしながら。
その「誰に褒められずとも」「骨惜しみせず」「縁の下の力持ち的作業を厭わない」美質のようなものが、
「親に対してだけは発揮されない」
というのは一体どういうからくりなのでしょうか。
「まる子ちゃん(←仮名です)、掃除機あてて。」
と頼むと、
「え~。イヤ。」
って必ず返ってくるのはナゼなんだ?
「まる子ちゃん、洗濯物を持って行って。」
「え~、後で。」
・・・洗濯して、干して、取り込んで、畳む、までを親にやらせたんだから、せめて自室に運ぶくらいのことは、言われたらすぐにやりなさいよっ!と私が怒るのは不当でしょうか?
ま、いいんですよ、母親なんてそんなもんです。
子どものために尽くすのは喜びみたいなもんですから、別にいいんですけどね。
でも、頼み事を聞かないどころか、親を「こき使ってやろう」なんて態度はいただけません。
先日。
娘が言うのです。
「ねえねえ、ママー、これから私、自己紹介せなあかん場面が増えると思うんよね。
でさー、「ケーキ作りが趣味です♡」って言ってもいい?んで、みんなにケーキ作ってー、って言われたら、「助けて~ママえもん!」を発動してもい~い?」
・・・逆に聞きたい。
どうしてそんな、自分にとってのみ都合のいい、得手勝手な話がまかり通ると思うのか・・・?
あかんに決まってるやろー!!!
だいたい、ママは忙しいねんっ!
しかもその忙しさのおよそ6割はあんたのせいやねんでっ!!
卵をちゃんと割れるかどうかも怪しいのに(←あかん)、ケーキを作れるなんて、おこがましいにもほどがあるっ!「ケーキ作りが趣味です、今この瞬間にそうなりました、実際に作ったことは一回もありません。」って言うときっ!!!その方が自己紹介もウケるわっ!!!
と大激怒したことは言うまでもありません。
そもそも娘が「ええかっこ」したいがために、どうして私がせっせとケーキを焼かなくてはならないというのか・・・そんな不条理な人生があっていいのでしょうかっ?!
で、この際、本当にケーキを焼くくらいのことは自分でやってもらおうじゃないの、と一念発起(←私が)して、娘にケーキ作りを指南することにしました。(←結局私が忙しくなる羽目に・・・)
まず最初に焼いてみたのはシフォンケーキ。
食べちゃったので写真はありません。(←あかん)
おいしかったです。
で、今回挑戦してみたのはガトーショコラ。
ちょっと難易度は上がりますが、おいしいんですよ、これが。
コツはメレンゲをしっかり泡立てること。それだけ。
シフォンケーキ用のメレンゲはもう少し柔らかめでいいのですが、ガトーショコラの場合はしっかりしたメレンゲが必要です。根気よく、角が立つまで泡立てましょう。
オーブンに入れる直前の生地。
型に流し込むときに、生地がひらひらと、リボンのように落ちていくと、成功の証。
出来上がり。
焼き立てよりも、翌日の方がずっとおいしくなります。
当日は食べるのをぐっと我慢することをオススメします。
娘と一緒にキッチンに立つと、その手つきのおぼつかなさに、ついついイライラしてしまいます。
もっとちゃんとお料理もケーキ作りも教えておけばよかったなーと思ったり、いや、私だって娘時代には、なーんにもしなかったし、それでも別段、困った記憶はないしなー、と、いろんな想念が頭の中をよぎります。
私とほぼ同じ身長になった娘と憎まれ口をたたいているうちに、オーブンから漂ってくる甘い香りが私たちを包み始めます。
そんな瞬間が、いわゆる「幸せ」というものなのかしら、と思ったり、やっぱりちょっと私の育児は甘やかしすぎたかな、と反省したり、物思いは尽きません。
おまけ。
フランス人の友人から、とってもうれしい贈り物が届きました。
フェーブがこんなに大量に!
セネシオさま、marcoさん、ピカちゃん見てる~?
いいでしょ、いいでしょ~。
でも、フェーブって、保存がちょっと難しいですよね・・・?
実は本棚に飾っていたフェーブが、去年の地震で落下して、一部欠けてしまって大ショック・・・
どんな風に飾ればいいのかなーと悩んでいたところ、100円ショップで小さい箱を見つけたので、それを飾り棚に見立ててみました。
フェルト地に透明な糸でフェーブを縫い付け、フェルト地を箱に接着しました。
これで天地をひっくり返してもフェーブは落下しなくなりました。安心安心。
・・・でもかなりめんどくさかったので、もうやりません。ほほ。
統一地方選に思ったこと。
みなさま、こんばんは。
統一地方選、終わりましたね。
今回の選挙は私にとって、すごく特別な選挙になりました。
なぜなら、今度の選挙、
娘にとって初めての選挙だったから。
自分の子どもに選挙権!すでに選挙に行ける年齢に!
ビビります・・・ああ、私も年をとった・・・。
娘が18歳になった昨夏、
「キミ、投票できるようになったよ~、選挙には行ってよね~!」
という手紙がどこかから届いていたのですが(←よく覚えてないけど、おそらくは総務省あたりから。もちろんもうちょっとオフィシャルな文言で)、世間の高校生よりもさらに幼い印象の我が家の娘に、投票なんて大丈夫なのかしらん、と思ったことを覚えています。
選挙が近づくにつれ、
「どこに(票を)入れたらいいんかなー。むずかしいわー。」
なんてセリフが娘から飛び出すようになり、そのたびに、
「それは親子であっても意見が違って当たり前。自分の頭で考えなさい。」
と返しつつ、こんな会話を交わすようになったことに感慨を覚えずにはいられませんでした。
当日は入学したての大学の新歓イベントやらで早朝から出かけた娘。
帰宅後、ひとりで投票に行ったようです。
どの政党、どの候補者に投票したのか、私は知りません。聞いてみてもいません。
でも、きちんと投票に行ったことだけは確認しました。
思えば、自分の最初の選挙についてはなにひとつ覚えていませんが、娘が最初に投票した今回の統一地方選だけは、きっといつまでも忘れられない選挙になるのだろうという予感がします。
で。
大阪の選挙なんですが。
大阪維新の会が圧勝しましたね。意外でもなんでもないけど・・・。
メディアによる報道なんかでは、「大阪ではどうしてこんなに維新が強いのか」という論調をよく見かけますけれど、大阪に住んでいると、やっぱり今度の結果は「当たり前」って感じがします。(←私が維新を支持しているかと言えば、そうとも言えない点もあるけど。)
良くも悪くも、やっぱり大阪って、ちょっと特殊なんですよ。
大昔、作家の田辺聖子氏がエッセーで言及していたように、大阪では「官」に対する印象が、他の都道府県とは決定的に違うのです。
たとえば、「役人」と言えば、お勉強がよくできて、優秀な人間がなるってイメージがあるじゃないですか。
そういうイメージ、大阪だとちょっと弱くなってしまいます。
むしろ、
「ほんまに優秀な人間やったら、なんらかの商いで名を成しているはず。役人なんかやってへんやろ。」
ってことになってしまいます。
「前例主義」「慣例第一」「悪しき平等主義」・・・「官」や「役人・役所」とは、そういった負のイメージと一体で、だから大阪では行政を見る目が、ついつい、
「どうせ大したことはなにひとつできひんやろうけど、せめて商いの邪魔さえせえへんかったらそれでいいねん。(←標準語訳:どのみち大した仕事はできないだろうけど、ビジネスの邪魔さえしないでくれたらそれで御の字)」
って感じになるのです。
で、結果として、大阪がどんな街になったかというと、逆説的ではありますが、
「全国的にもまれなほどの役人天国」。
それもむべなるかな、だって誰も役人や公務員の仕事や行動に注意を払ってこなかったんですもの、「見てないところでコソコソ」と、いつの間にやら、公務員の給料にはいろんな名目で手当てがつき、公務員の給与と福利厚生だけはものすごく手厚い状態になっていきました。
メディアも、一部の市民団体も時には問題提起していました。
それでも大阪の一般市民の目が、役所や行政に向けられることはありませんでした。
それは大阪に住む人間の心の底にある「役人・公務員を軽んじる」意識がそうさせてきたのでしょう。
そしてそれをいいことに、増長し続けた役人や公務員たち。
「景気がいいとか悪いとかってどういうことなん?
ニュース見てたら、”景気悪い、景気悪い”ってよう言うてるけど、全然実感ないし、わからへん。」
と市民に言い放つ末端の公務員が実在していたのです。(←本当にいた)
要するに、大阪では市民と官がお互いを小馬鹿にし続けてきた経緯があるのです。
そこに登場したのが橋下徹という政治家でした。
彼は一体、何をしたのか。
私は彼の最大の功績は、徹底して「官」を馬鹿にし、「見るに値しない」と無視し続けてきた大阪の市民に向かって、
「こっちを見ろ!」
と言い続けたことだと思います。
大阪の市民はほとんど初めて、「官」に注目しました。
そして痛感したのです。
「行政」にも「官」にも「監視の目」が必要なんだなって。(←今さらだけど。遅きに失した感、大だけど。)
それって、他のどんな功績も吹っ飛ぶくらい、大阪では大きな転換点ではあったわけです。
橋下元市長は大阪を去りましたが、大阪維新の会は彼のやり方をよく踏襲しているのだろうと思います。
自民党のように古い地盤や、公明党のように鉄壁の組織票もない維新の会が選挙を勝ち抜くには、一般市民の目と支持だけが頼りなわけで、その視線を外すようなことになれば、彼らはあっという間に失速していくことでしょうから。
大阪維新の会が登場してから、大阪はずいぶんと変わりました。
いいことばかりではなかったけれど、ありとあらゆるものが東京に吸い上げられ、その上、海外との激しい競争に、日本自体が勝てない状況ですから、「以前のままの大阪」ならもっと悲惨な状態に陥っていても不思議ではなかった、という感じがします。
それくらい、大阪の行政はひどかったし、議会は無能でした。自分たちの待遇と体面のことしか考えていなかった。
でも今。
とにもかくにも大阪のお役所に行ってみればわかります。
そこで働く人たち。
以前は本当にひどかったものですが、横柄な態度の公務員は激減しましたし、彼らが市民の視線を気にしていることを感じられるようになりました。
大阪維新の会が、市民の目を味方につけている限りは、これからも大阪での強さを発揮し続けることでしょう。
なので私は大阪維新の会について一定の評価をすることにやぶさかではありません。
しかしながら、それでもひとつだけ、どうしても危惧してしまうことがあるのです。
それは彼らの「教育行政」について、です。
大阪の教育といえば、全国でも常に低位、問題が多いことは周知の事実です。
でも一方で、大阪の教育界の強みや長所については、ほとんど誰にも知られていません。
たとえば「夜間中学」。
様々な事情で中学校教育を受けられなかった人のための夜間中学は、すべての都道府県に設置されているわけではありません。
大阪には存在しますが、近隣府県にはないことも。
大阪の夜間中学は大阪以外に在住している人に対しても、希望があればその門戸を開きつつあります。
教育を受けたいと願う人がいる限り、その気持ちに応えようとする行政の在り様は、大阪がもっと誇っていいことのように思います。点のつけようのない分野ではありますが、そこを強くアピールして、関係者のモチベーションをアップさせることは政治家の大事な仕事ではないでしょうか。
それから、「インクルーシブ教育」。
最近、やたらとよく聞くようになった「インクルーシブ教育(障害のある者と障害のない者とが共に学ぶ仕組み)」という言葉ですが、大阪ではそんな言葉が流行る前から、緩やかにインクルーシブ教育が行われてきた経緯があります。
たとえば、障害のあるお子さんが就学年齢に達したら、行政はそのお子さんとご家族に対し、「どこの学校に通いたいですか?」と聞いてきます。そして、その希望に極力沿うように動きだします。
障害の度合いを見て、行政の方から「ここの学校に通うように」というアプローチが取られることは、ほとんどありません。
なので、大阪の小・中学校では、多くの場合、障害のあるお子さんがレアではありません。
むずかしいのは、それがベストの選択かどうか、誰にもわからないということです。
そりゃそうですよね、障害の度合いや程度によって、学校現場には相当な負担になることがありますし、正直、クラスが混乱したり、授業が遅れたりすることも覚悟しなくてはなりません。
けれども、障害のある子も、そうでない子も、「団子になって」「一緒に」育ち、学ぶことは意義あることでもあります。
ひとりひとり違う障害を抱えた同級生。
それは「個性」というものが、本来どういうことなのか、「個性を重んじる」とは、時にひどく厳しいことだということを、幼いうちから学ぶことができるのですから。
四肢に障害のあるお子さんがいた場合、そのお子さんの在籍する教室は、ずっと1階にあったことがありました。
補聴器をつけている児童も珍しくありません。
特定の教科のみ、支援学級で授業を受ける児童も、今では当たり前に存在します。
子どもたちは、普通学級と支援学級とを行ったり来たりする同級生をしなやかに受け止めて、それが「普通」だと思っています。
多動や他罰傾向が強い児童がいて、あまりにも授業に差し障りが出た場合、校長先生自ら「抜き取り指導」を行う場合もあります。空き教室などで少人数相手に授業をしたり、「保健室登校」ならぬ「校長室登校」があったり。それも当該児童の自尊心を傷つけないような配慮がなされていて、感心することもよくあります。
そのような学校現場が、いわゆる「テストでいい点数を取る」ことに向いているとは思えません。大阪の小・中学校が万年最低クラスに位置するのは、ある意味当然の結果という気がします。
けれども、不思議なことに、大学入試のためのセンター試験の結果を見てみると、大阪の子どもたちが取り立てて成績が悪いという事実はありません。
むしろ、大阪の公立高校は昔からレベルが高いことで定評があり、公立高校から国公立大、あるいは難関私立大学への進学もごくごく普通のことです。
けれども、大阪維新の会は、「小・中学校のテストの点数」だけにやたらと注目します。
府立高校から難関大学への進学率の高さ、その授業内容のレベルの高さ、そういったものには関心を示さないのに、ひたすら小・中学校のテストの点のみをあげつらうのです。
維新の会は本当に大阪の子どもたちの「学力」を心配しているのかな。
私も典型的な大阪人のひとりとして、どうも「政治家」「役人」「官」「公務員」を疑う癖があるようで、彼らが「大阪の子どもたちの学力が~」と言い出すたびに、
「これも「こっち見ろ~!」作戦のひとつなのかな。」
とか思っちゃうわけです。
有権者のほぼ100%が、かつては児童であり生徒であった。学校教育に不満を抱えたまま大人になった人も多いに違いない、だから、こと「教育」に関して言及すれば、関心は高まるであろうし、「教育」について危機感を煽れば、注目も集まるだろう・・・仕事してるアピールができるやん!!という作戦のひとつなのでは・・・と私がつい考えてしまうのは、穿ちすぎなのでしょうか?
仮にもしも、私が政治家だったとしましょう。
私なら、大阪の子どもたちの小・中学校での成績が悪いことよりも、もっと違うところに注目するだろうと思います。
すなわち、「小・中学校での成績は上位なのに、大学入試センター試験では下位に甘んじてしまう県はどこなのか、それはなぜなのか。」ということです。
もちろん、私は政治家ではありませんから、そういったことに興味があるわけではありません。
正直言って、自分の住む街の子どもたちのテストの点数が高かろうが低かろうが、どうでもいいというのが本音です。
だってそれは私の点数ではないし、私の子どもの点数でもないし。
自分の街の子どもたちの成績の順位に、いちいち一喜一憂する人の、その心の動きがよくわからない、というのが本音です。
でも、子どもたちの成績を、子どもたちの未来のためではなく、「政治」のために利用しようとする人がいるのだとしたら、そのことには注意したいし、抵抗もしたいと思います。
障害のある子も、ない子も、共に学び、共に成長する。
そんな学校環境を作ろうとして、大阪の先生たちは毎日手探りで、必死にがんばっています。
それはテストの点数には反映されないけれど、そのせいで「評価されない」なんてことがあっていいのでしょうか。
テストの点数を上げるように努めることは、もちろん好ましいことです。大事なことです。
でも、それならば、テストの点数に現れない面も、評価の対象に加えてあげられないものでしょうか。
ただ点数を上げればいいという風潮が広がれば、平均点向上に貢献できない児童の「排除」が始まるのかもしれないと思うと、不安になるのです。
大阪維新の会がそんな風潮を生み出さないか、これからも注意深く見ていきたいと思います。
春に新調したいもの。
みなさま、こんばんは。
私が「はてな」を始めてから、ずいぶん長い時間が経ちました。
長く続けているだけで、一向に成長は見られませんが、わっとさまがよくおっしゃっているように、自身の過去の記録として、「はてな」はなかなか有用だなって思います。
ちなみに3年前、UPした記事、
この記事の中で紹介した自作のバッグ。
帆布のトートに、
高校生の娘用に作ったショルダー。
3年経って、どちらもずいぶんくたびれてきました。
ちょっと近所に買い物に・・・に使いまくったトート。
帆布だけあって丈夫でしたが、傷みも出だしました。
娘のショルダーバッグ。
3年間、毎日毎日学校へよくお供をしてくれました。
お弁当に折り畳みの傘、お財布に定期入れ・・・学用品以外はこちらにポイポイ入れて通学していました。
おかげでデニムの色も剥げて持ち手のテープも擦り切れ気味・・・
「新しいのを作ってー。」
と娘が言うので、さっそくショルダーバッグの型紙を探しました。
まだ学生ですし、丈夫でしかもA4サイズのノートや教科書が入るサイズ、ポケットもついててかわいくて・・・机の横に掛けられるように、短めの持ち手がついてるのがいいなあ・・・。
で、見つけました。ネットで。
うんうん、かわいい。
学生らしくていいじゃないですか。
作り方までUPされてて親切!便利な世の中になりました。
さっそく生地屋さんで新しい帆布を仕入れてきて、せっせと作りました。
出来上がりはこちら。
女子力低めな娘ですが(とほほ。)、ちょっとでもかわいく見えるようにピンクを多用しました。
内袋もガーリーにしてみましたよ!娘の女子力がちょっとでも上がりますように・・・。
娘もひとめ見るなり「かわいい!」と気に入ったようなのでひと安心。
これからの4年間、今度はこのバッグが娘の通学を見守ってくれることでしょう。
で、余り布が出たので、私のトートも新調することに。
せっかくだから作り方工程を公開しようかなーといっぱい写真を撮ったのですが・・・
写真撮るのってめんどくさい・・・
そして説明するのはさらにめんどう!
・・・どうせ誰も作り方なんかに興味ないだろうし、工程の紹介なんか要らないかなー、要らないよねー。
ということで作業工程は割愛することにして(←人はそれを「逃避」と言う)、代わりに参考にした本の写真をUPしときます。
この本の、
このトートバッグを参考にしました。
見返しは折り返しじゃなくて別断ちにしたけど。
持ち手の付け方は違うけど。
持ち手の長さもちょっと長めにしたけど。
外付けのポケットも追加したけど。
マグネットボタンもつけたけど。(←人はそれを「すでに別物」と言う。)
まあとにかく、あちこち切ったり縫ったりしてできたんです。
仕上がりはこちら。
私が持つにはちょっとかわいすぎる気もしますが、春だし、いいんじゃないでしょうか。たまにはピンクもね。
できあがったバッグを持ってお出かけするのが楽しみです。
根三つ葉の芳香
みなさま、こんばんは。
先日、またまたmarcoさんから野菜をいただきました♡
大阪ではなかなかお目にかかれない野菜。「根三つ葉」っていうんですって。
「なかなか」どころか、私はこの年になって初めて拝見しました。これまでスーパーでも八百屋さんでも見たことがありません。
marcoさんのブログで物欲しそうなコメントをしたから送ってくださったんだろうな・・・
「いいなー、食べてみたい!」って言ってみるもんですね!えへ。(←図々しい)
根三つ葉だけでなくって、marcoさんは出汁をひくようのしいたけや昆布、それに生姜を干した「ウルトラ生姜」も送ってくださいました。
このウルトラ生姜、すっごく身体によさそうで、作ってみたいと思いつつ、そこはほら、私、根っからの無精者ですので(←周知の事実)、なかなか実行に移せなくて・・・そもそもお料理って苦手なんですよねー。
marcoさんにはきっとそのあたりもバレバレだったんだろうな・・・
「ウルトラ生姜だー!」
とその存在に気づいたときには、「marcoさん、なんて親切~!」と飛び上がって喜びました。(←いや、そこは反省して自作しようよ・・・というツッコミはいらないです)
で、marcoさんに根三つ葉のオススメ調理法をうかがったら、その中に鍋があったので、ウルトラ生姜もプラスして、その日の夕食は鶏肉とウルトラ生姜、そして根三つ葉のお鍋にしました。寄せ鍋風です。
湯気でくもってるし・・・。相変わらず写真が下手すぎ。
でも、早く食べたくって、写真どころではなかったんだもんねー。
ごく普通の、スーパーで売られている三つ葉と違って、根三つ葉はただ大きいだけではありませんでした。
包丁を入れたときに広がる独特の芳香の強さと言ったら!
春の、一斉に新芽が芽吹く季節、あの青々とした草いきれの中に立っている気がしました。
一足早く春を届けてくれたmarcoさんに心から感謝しています。
でね。
家族でお鍋に入れた根三つ葉のおいしさに驚きながら、私はなんとなくしみじみとしてしまいました。
「はてな」って、インターネットって、すごいなあ、不思議だなあ、って。
たとえば、ほら。
小学校の図書室でこんな本を見つけたとするでしょう?
そうしたら、すぐにカメキチさんのことを連想してしまう。
街なかで「福」の文字を見つけると、きっと福ふくさんのことを思い出すし、(だからお正月なんかはしょっちゅう福ふくさんのことを考えてることになってしまう…)
新しいラーメン屋さんを見つけると、ああ、このお店、横チンさんのお気に召すかしら、と考えるし、
立ち枯れた紫陽花の花に出会うと、必ずryoさんに写真を撮ってほしくなるし、
デパートで売られている、とびきりおしゃれなお弁当を見ると、「muraさんのお弁当の方が上だな…」って思って買う気がなくなっちゃうし、
青々と茂るブナの木を見ると、ブナさんはお元気かなって絶対に思い出すし、
手芸店でキラキラしたビーズを見ると、まゆじゅんさんならどんな作品になさるのだろうと考えずにはいられないし、
オリエンタルな踊りを見ればleyさんやねこさんを、予備校のCMを見ればⅯさまを思い出します。
「ぶたばあちゃん」の絵本を読むと、いつもうっかり泣いてしまって、同時にやはり、りんさんのことを連想します。
それから「お昼寝のススメ」みたいなニュースをF2でやっているのを見れば、セネシオさまが今ごろ面白がってるんだろうなと想像します。
精霊流しの映像をテレビで見たときには、いちご一笑さまは毎年、この光景をご覧になってるのだろうと考えて、一層感動を深くしました。
それから、日常会話に四文字熟語が出るとかえるさんを、カレンダーを見るとsoftwindさまを、しいたけをみじん切りにしている時(←ひどい)には、わっとさまを思い出します。
真っ白な帆船の写真を見ると、そのマストの上にisakuさんを探してしまいます。
そして手を振らなくては、と思ってしまう。
そうして、古書を見るたび、あるいはちょっとこなれた感じの古い居酒屋さんを見かけるたびにmarcoさんを思い出してしまうのです。
他にもブログを通じてメッセージをやりとりする、たくさんの方々。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら、なんですけれど。
私がこうして、日常のふとした瞬間に、みなさまのことをあれこれと思い出しては、お元気かしら、今ごろ何をなさっているのかな、と考えるみたいに、みなさまの方でも、時には私のことを思い出してくださっているのかしら。
東京の、私なんかは行ったこともないような、おしゃれなスーパーの店頭で、marcoさんが根三つ葉の束を手に取りながら、私のことをふと思い出してくださった、その瞬間。
その瞬間のことを思うと、うれしくて、本当にあまりにもうれしくて、「はてな」をやっててよかったー!って心から思うのです。
パソコンにしてもスマホにしても、血の通わない、無機質な物体ですのに、私たちはそれを通してこんなにも通じ合うことができる。交流することができる。
人間とはなんて素敵な生き物なんでしょう。ね?
つらいニュースや酷い出来事がたくさんあるのは知っています。
それでも、私たちはこれでなかなか捨てたものではない生き物だなって思うのです。