USJ「ピーコック・シアター」初体験。

みなさま、こんばんは。

 

先日のこと。

ユニバーサルスタジオジャパン「ピーコック・シアター」に行って参りました。

 

大阪人なので、USJにはこれまで何度も訪れたことがあります。

小学生の卒業遠足もUSJという土地柄ですから、年間パスポートを持っている人も多いと思います。

ただ、私は個人的にそれほどの興味を持てずにいました。

USJにしろ、東京ディズニーランドにしろ、内心では

 

「え、でも、要は遊園地でしょ・・・?」

 

と思ってしまう口。

かわいげがないんですよね。

わかっているので、実生活ではこんなことは言いません。

 

けれども今回は2019年9月にオープンしたばかりの「ピーコック・シアター」での、とあるパーティーに招待していただけるとのことで、大喜びしました。

食事を楽しみながらショーを楽しめるんですもの、長蛇の列に並んで絶叫マシンに乗るという苦行とはひと味違う!

 

www.usj.co.jp

本格的な歌やダンスが楽しめて、お食事もできるシアター!

期待値がだだ上がり!!

f:id:mamichansan:20191027215443p:plain
f:id:mamichansan:20191027215422p:plain


「ピーコック・シアター」はパーク内東端「ステージ33」エリア、スペースファンタジー・ザ・ライド(←めちゃコワい)のお隣にあります。

f:id:mamichansan:20191027213911j:plain

こういうクレデンシャルがID認証パスになる模様。

スルっと通してもらえました。

f:id:mamichansan:20191027213848j:plain

会場ステージ。相変わらず写真が下手・・・

ショーの写真はないんですよ・・・やっぱり生のステージを写真や動画に撮るのはマナー違反だろうと思ったので。

でも、本当に素晴らしいショーでした。

楽しかったなー。

まさに非日常。

日本のショービジネスの質もすごく向上したんですねえ・・・びっくりしました。

歌もダンスも素晴らしかったし、司会者が観客を「のせる」術も一流でした。

2時間なんてあっという間!

もっとも、シンガーもダンサーもほとんど外国人だったけど・・・

でもほら、最近の若い人はスタイルも抜群だし、歌もダンスもすごく上手な人がいっぱいいるじゃないですか。

いつか、こんなショービジネスの場でも、日本人演者が増えたらいいな。

こういう世界で生きていきたいと願う人は多そうだし。

 

ホテルでの立食パーティなんかも、全然退屈しない性質ですけれど(←おしゃべりだから)、参加者を中だるみなく楽しませるには最高の仕掛けかもしれないと思いました。

USJパークチケットもついていますから、費用的にもお得かも・・・。

在阪企業でパーティを企画立案する方々、ぜひぜひ候補に。

パークで一日遊べるし、参加者増は必至、パーティの成功間違いなしです!

 

で、パーティの後はパーク内を満喫!

数年ぶりのUSJですから、今回のお目当てはなんといっても、そう、ハリーポッターエリア!

f:id:mamichansan:20191026224902j:plain

なにしろ、今回、久しぶりにUSJに来ることが決まってから、ハリーポッター全巻を読んだんだもんねー。予習、予習。

いや、ハリーポッター第1巻「ハリーポッターと賢者の石」は20年くらい前に読んだんですよ。世間ですごく評判になってたし。

でも、なんていうのかなー、その時の私にはハリーポッターが、

「ファンタジーというよりは・・・読むRPGみたいだな。」

って感じられて、読み続けようという気にはならなかったのです。 

要するに、あまり「ハマらなかった」のね・・・。

そういう人、多いみたいですよ?

私の周りにも「最初の1巻は読んだけど、あとは読んでない」っていう人、多いもん。

 

思うに、ファンタジー作品って、人生最初の一冊の影響力が大きくないですか?

これぞファンタジーなんだ!っていう、刷り込みみたいな。

 

私の場合はル・グウィン作、ゲド戦記影との戦い

f:id:mamichansan:20191028180856p:plain

これこれ。

小学校の図書館でこの本と出会ったものだから、私の中の「ファンタジー」は、いつもゲド戦記が基準になってしまいます。

仮に人生最初のファンタジーが「ハリーポッター」だったら・・・私の人生に何か違う影響があったのかなーって時々考えます。

ハリーポッターだけではなく、例えば「ナルニア国物語」シリーズだったら、とか、「指輪物語」だったら、とか。

 

それから、「もしもこの本を子ども時代に読めていたら」なーんてこともよく考えます。

たとえばほら、「ダレンシャン」とか「デルトラ・クエスト」とか・・・

最近の本だったら「バーティミアス」シリーズとか。

f:id:mamichansan:20191028182536p:plain

↑これ。(ジョナサン・ストラウド著:理論社

全3巻、一気読みをオススメします。

 

娘は小学生の時、「精霊の守り人」シリーズにどハマりして、明けても暮れても「バルサバルサ」だった時期がありました。

 

f:id:mamichansan:20191028182959p:plain

こんな本まで買わされて、中のレシピを再現させられたことも。

その後、私もこのシリーズを読みましたけれど、

「私の小学校高学年時代は、ほぼ「守り人」でできている」

という娘と同じ熱情では、「精霊の守り人」を語ることはできない気がします。

 

最もふさわしい年齢で最もふさわしい1冊に出会えるのって、実はものすごーい僥倖なのではないかなーって、ファンタジーを手に取るたびに思わずにはいられません。

 

今回、ハリーポッターをわくわくしながら読んでいる私を見て、娘も隣でポッターを読み始めました。

 

「魔法の世界にも学校があるってところが西欧社会っぽいよね」

「日本だったら・・・「一子相伝」になるよね」

「それか比叡山で修行とか」

「杖に頼るのは邪道!とか言い出して、印を結びだす・・・」

「あ、でも紙は使いそう、式神とか!」

「・・・陰陽師やな。」

 

なんて会話も楽しかったです。

親子で同じ本を読むなんて、ちょっと気恥ずかしいところがありますが、気兼ねなく盛り上がれるのも、ファンタジーのいいところなのかもしれません。

 

おまけ。

f:id:mamichansan:20191026225002j:plain

ゲストがこぼしまくるチュロスやバタービール(←激甘)の泡をマメにお掃除するスタッフさんを、さらにマメにお手伝いしまくるパーク内のスズメさんたち。

人間にこんなに平気で近づくスズメは外界では見られません。

食べ過ぎでちょっと太ってたかも。

私もこの日は食べ過ぎました・・・またダイエットしなくては・・・あーあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祝・ノーベル賞。北野高校の思い出。


みなさま、こんにちは。

最大級レベルの台風が列島を直撃中。

こちらでも強い雨が降っております。みなさまの街はご無事でしょうか。

どうぞくれぐれも安全に、無事にお過ごしくださいますように。

 

ところで先日の吉野彰さんノーベル賞受賞の知らせは久しぶりにおめでたいニュースでしたね。

特に今回は個人的にテンションがダダ上がりしました。

なにしろ、吉野彰さんは私が卒業した高校の先輩だったもので。

ま、おんなじ学校って言うだけで、なんの接点もありませんけどね・・・。

 

それでもなんとなく「おおぅ・・・!」という気分になるのですから、人間とはおかしな生き物です。

また、ここ数日、新聞やテレビに母校の名前が登場することが増えて、少々ノスタルジックな気分でおります。

 

ということで今日は大阪人なら誰もが知っている私の母校、大阪府立北野高校についての思い出。

 

1.意外なことに体育学校。

私も入学するまで知らなかったのですが、北野高校の体育の授業はほんと~に!厳しいものでした。

卒業生ならみんな口をそろえて体育の授業のしんどさをアピールするだろうと思います。

しめ縄のような太い縄を使っての二重跳び。

高校には珍しい50Ⅿ(最深部分は180センチ!)プールを使っての水泳の授業。

冬には断郊競争(という名のマラソン)。

どれも回数やタイムが目標に達しなければ放課後の「追試」が必須。

体育に「追試」ですよ?考えられます?しかも放課後に毎日!できるまで!

ラジオ体操第二の追試もありましたからね・・・(←開発者が北野の関係者だったから。どんなに練習しても難癖つけて落とされて、追試に回されます。私ももちろん受けました。)

運動音痴でスポーツ嫌いの私にはまさに悪夢。

特に水泳の授業は水泳部の連中も「キツイ」と言うほどの地獄でした。

女子は1時間の間に25Ⅿを20本!(平泳ぎ10本クロール10本)・・・いくら若いと言ってもヘロヘロになりました。男子は800Ⅿくらい泳がされてたんじゃないかな…。

1年生の時には毎日の追試が10月1日まで続きました。あの日の寒かったこと、プールの水がすでに汚く濁っていたこと、隣で変な虫が泳いでいたことは死ぬまで忘れません。とにかくもう私は一生分泳ぎました。金輪際、二度と泳ぎません。絶対。

 

おそらく現役の生徒さんたちは今ごろ体育大会の練習に明け暮れている頃だろうと思いますが、北野の体育大会は「体育祭」と呼んではいけないことになっていました。

 

「うちの体育大会は祭事ではない。競争だ!」

 

と強調していた体育科の先生の怒号に「ひぃ・・・」となったのを今でもよく覚えています。

体育科の先生はみんなコワかった・・・北野の学生は「勉強ばかり」と思われてなるものか!という気概に満ち満ちた先生方がそろっておいででしたが、私個人の意見としては「ありがたいけど迷惑な・・・」の感想が強いです。ごめんなさい。

 

7歳ほど年下の後輩は中学時代、「志望高校を決める際、体育が苦手な子は北野を受験させてもらえなかった」と言っていましたが、私の中学時代にもそんな親切な先生がいれば・・・と恩師に向かってちょっと恨みがましい気持ちにもなりました。

ただ単に「家から近かいから。」という安直な理由で志望校を決めてはならない、という重い教訓にはなりました。

 

2.徹底した自主・自律の精神を尊ぶ。

北野高校にはそもそも校則がほとんどありません。

徒手帳にも「高校生らしいふるまい、身だしなみであること」くらいの記述しかなかったように記憶しています。

 

また、たとえば「先生が所用や風邪でお休み」をすると、その授業は大学と同じように「休講」となります。

その休講を私たちは「ブランク」と呼んでいました。

その時間、生徒は何をするのも自由です。

食堂に行って友人たちとおしゃべりしてもよし、図書館で本を読むもよし、次の授業の準備をするもよし。

先生方からなんらかの指示を与えられるなんてことは皆無でした。

 

特徴的だったのは「授業の始め方」。

よく、日直さんが「きり~つ、礼、着席!」って声をかけるじゃないですか。

北野にはそれがありません。

最初の授業で日直が「起立!」と言ったとたんに、先生にたしなめられました。

 

「我々教師は君たちに教えるプロとしてここにいる。君たちも「教わるプロ」としての態度を身につけねばならない。号令に合わせて立ったり座ったり、そんなことはサルでもできる。そんなみっともない真似は二度とするな。教師が入ってきたら、黙って立て。そして互いに礼をしよう。誰に言われるまでもなく、自ら。それでこそプロだ。」

 

なので、北野高校では、先生が教室に入って来られるとみんな無言で立ち上がってお互いに礼をして着席します。

 

「言われたから~する」「指示されなかったから何もしない」というような行動や考え方はひどく侮蔑される校風だったように思います。

先生方も生徒について干渉することはほとんどなく、自分たちで考え、自らを律することを強く求められる学校でした。

情報も知識も、「与えられる」ことを期待して、ただ漫然と待ってると、確実に置いてきぼりにされる、ちょっと厳しいところがありました。

自由であること、干渉されないこと。

それを望むのであれば、まず自らをきちんと律することを求められるのだと高校時代に実感しました。

そのような校風のせいで私たちは入学後、急速に大人になったような気がします。

 

3.みんな読書家。

北野高校の図書館は本館廊下のつきあたりから渡り廊下を通って連結されている別館にありました。

f:id:mamichansan:20191011210610p:plain

この廊下のつきあたりです。郷愁がヤバい・・・ほほ。


公立高校で「図書室」ではなく「図書館」が設けられている学校は非常に珍しいのですが、それでも収まりきらないほどの蔵書数に、完全な「閉架式」スタイルが採用されていました。本を探す時には図書の目録カードから探すスタイルね。

こんなの↓

f:id:mamichansan:20191011210300p:plain

なつかしいなあ。

「カードが新しいから、きっと本も新しいはず!」

と勇んで貸し出しをお願いしたら戦前の本が出てきたこともありました。

旧仮名遣いの本もいっぱい。

自分で本を手に取って選ぶことができない図書館でしたけれど、生徒の利用率はすごく高かったと思います。

一度、同級生たちと休み時間に「漱石派か鴎外派か」で大論争になったことがあるのですが(最後には「なによ、やぶ医者のくせに!」「なによ、この神経病み!」という非常に低レベルな罵り合いになりました。ま、そこは女子高生ですから・・・ね。)、いつのまにやら「文豪の中では、誰が好き?」の話題にシフトして、やれ太宰だ芥川だ、川端だとものすごく盛り上がりました。

「谷崎が好き」って言った子に「ええええええっ!!!」って悲鳴が上がったりね。

友人は机の上に漱石の写真を飾ってると言ってましたっけ。

「千円札の写真じゃないのよっ!あの片肘ついてるやつねっ!」と強調する友人に、漱石派の面々はみんな一斉に頷いてましたっけ。

読んだ本について、これから読みたい本について、いつも誰かと意見が交わせたあの環境は、私にとって今でも得難い宝物です。

・・・今になって思うと、漱石、鴎外、太宰に芥川・・・でも菊池寛は出なかった・・・結局みんな「顔」とかビジュアルで選んでたのでは?という疑惑が・・・

所詮、女子高生なんて、いつの時代もそんなもんですよねー。ほほ。

 

4.先生方が各々勝手に自殺防止プログラムを始める。

これは私が勝手に感じたことなので、覚えていない同窓生が多いかもしれませんが、入学当時、何度か「自殺を戒められた」ように記憶しています。なにしろ自殺者が多い学校だったので。

思うに、それまでさほどの苦労をしなくてもそれなりにお勉強ができた生徒たちにとって、北野高校に入学して試験を受けるということは、人生初の試練と屈辱とにいっぺんに襲われるようなものなのです。

自分が意外と「勉強ができない」あるいは「凡庸な」人間だったと思い知らされた瞬間のあの衝撃。

学業に行き詰っての自殺は、北野高校ではちょくちょく発生しがちな問題で、先生方にとっても心傷める、恐ろしい出来事だったに違いありません。

なので、入学後しばらくは、先生方も時々、私たちに「死ぬな」というメッセージをさりげなく送ってこられたのではないかな。

 

たとえば、大阪大空襲の際に亡くなった生徒の鉄兜を持参して、その生徒さんについての授業をなさった先生。命の大切さ、かけがえのなさについてお話しされました。

頭頂部に直撃弾が命中した場合、人間の脳はその衝撃に耐えられないんだなあと思ったのを覚えています。

 

それから、最初の定期テストで「わざと」難易度を下げた先生がいました。

クラスの平均点は95点。結果を踏まえて先生がおっしゃいました。

「今回のテストは、他の高校のレベルに合わせた。平均点が90点超え。これでは君たちの通知表をつけることはできない。みんな「5」になってしまう。だから次回からのテストははっきりと難しくなる。30点や40点を取るものも出てくるだろう。でも落胆するな。違う高校に行けば、君たちは今もこれからも90点が必ず取れる。保証する。」

すでに他のテストで実際に、生まれて初めての30点やら40点やらをとっていた私たちは絶望の眼差しで先生を見上げました。

不動の優等生の立ち位置から、一気に劣等生の仲間入り・・・ひどく落ち込みましたし、それが私という人間の本来の能力なんだと思い知らされましたけど、今となっては、それもいい経験だったという気もします。

ただ安直に「家が近いから」という理由で志望校を決めてはいけないという教訓はほんとに重いものでした。(←しつこい)

 

個性的だったのは現代社会を担当されていたA先生。

 

「「自殺」は北野の伝統である。

諸君。なぜ生きている?死ね!

って言われた時にはのけぞるほど驚きました。

前述の7歳下の後輩も言われたそうですから、毎年言ってたんでしょうね。

未だにその時の驚きは新しいままです。

おそらく、労せずして特別な存在だと勘違いしがちな若い私たちに、北野では自殺でさえも「凡庸な」出来事なのだから、たとえ自殺したとしても、特別な存在にはなりえないのだと言いたかったのではないかと思いますが・・・先生の真意は今も掴みきれていない気がします。

 

5.差別?知らん。男尊女卑上等。

もともと北野高校は旧制中学時代、男子校だったので、何から何まで男子中心でまわっているところがありました。

そもそも校歌が男子校仕様。

「紅顔の子弟千有余」

「あゝ母校北野高校その健児励まざらめや」

あの「荒城の月」で有名な土井晩翠による作詞なんですけれど、生徒数の増加や設立からの経過年数によって、歌詞は一部変更されて歌われているにもかかわらず、「紅顔」「健児」はぜーったいに変えない。変えるつもりも微塵もない、って態度は在学中からひしひしと感じました。

女子トイレは少ないし。

授業中、「だから女はダメなんだ!」「女はおしゃれに気を取られるようになるとダメ。」も先生方の常套句でした。

「うちの女子生徒は長じて良妻賢母になる。」っていうのも多かったな・・・。

声を荒げてわざわざ「不愉快です」なんて言う子はいませんでしたが、私も含め、ほとんどの女子生徒は「けっ。」って思ってたんじゃないかなあ。

でも確かに友人たちはみんなまさしく「良妻賢母」になっています・・・ただ数学の世界と違って、人間の社会には「例外」がつきものでして・・・我が家の夫は身をもってその「例外」を実証中でございます。

 

昨日、北野高校の近くを通りかかりましたら、吉野さんのノーベル賞受賞を祝って、横断幕が掲げられていました。

f:id:mamichansan:20191011122321j:plain

なんかね・・・ちょっとしょぼかった・・・(←ここだけの話。)

卒業生有志で慌てて作ったんだろうなー。

f:id:mamichansan:20191011122553j:plain

今や校舎は建て替えられてモダンなコンクリート造りの建物になっていますが、かつてのレンガ造りの校舎の一部がモニュメントとして残されていました。

このレンガの色こそが、私の高校時代の色そのものです。

 

長々書きましたけれど、体育の授業の厳しさについては全然書き足りない・・・。

これから進路を決める中学生には特に気をつけてほしいのです!

あなたは体育が好きですかー?

水泳が好きですかー?走ることが好きですかー?二重跳びはできますかー?

よほどの覚悟がないと北野の体育は乗り切れませんよー!

・・・水に顔をつけられないレベルのかなづちでも、北野に入れば必ず泳げるようにはなりますけどね・・・

f:id:mamichansan:20191012113936p:plain

旧校舎玄関。奥に見えている階段を上ると講堂の入り口でした。

f:id:mamichansan:20191012113619p:plain

今は取り壊された旧校舎。上空から見るとP字型で、よく迷いました。

(旧校舎の写真はネットからお借りしました。)

 

ジタバタしています。

みなさま、こんばんは。

 

先日、って言っても2か月も前のことですが、友人からお誕生日のプレゼントをもらいました。

 

じゃん。

f:id:mamichansan:20191005084221j:plain

またまたフェーブをいっぱい。

 

うれしくって、きゃあきゃあ言いました。

決して集めてるわけではないんですけど、こういう小さいものって大好き!

今回はキャラクターものが多いような・・・

キティちゃんもいる・・・フランスでも有名なんでしょうか?

ついおかえり、って言いたくなります。

 

で、100円ショップでこんな小物入れを見つけたので、

f:id:mamichansan:20191005084319j:plain

フェルトの布を台にしてひとつずつ縫い付けました。

f:id:mamichansan:20191005084654j:plain

かわいいけど、アバターの存在感がすごい・・・

 

中でもうれしかったのが、このフェーブ。

f:id:mamichansan:20191005084033j:plain

ちいさいお家。大好きな絵本を思い出させるフォルム。めっちゃ好みです。

f:id:mamichansan:20191005205642p:plain

バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」。

半世紀以上前に書かれたとは思えない、本当に素敵な絵本です。

このフェーブだけは特別扱いしようと思い、朝からちまちまと作業をしました。

まずは白いフェルトに緑のフェルトと羊毛フェルトをプラス。

f:id:mamichansan:20191005210202j:plain

次に芝生部分と道の部分を追加。それから木の幹を刺繍。

f:id:mamichansan:20191005210231j:plain

木の実はビーズで。

ちなみにこのビーズも友人からの贈り物。

絵本の表紙にはツバメも飛んでるなあということで、2本どり刺繍糸で刺繍。

f:id:mamichansan:20191005210310j:plain

い~んじゃないでしょうか。

あとはフェーブを透明な糸で縫い付けて・・・

f:id:mamichansan:20191005084351j:plain

よしよし、なんとなく絵本の表紙に近づいた気がします。

あとは小さな額に工作用の板をつけ足して奥を出し、組み立てます。

f:id:mamichansan:20191005084414j:plain

出来上がり~。

 

はあ、楽しかった・・・

でもね、ショックなことがひとつあるんです。

 

この額、一辺が5センチ程度なんですけど、もう、裸眼での作業がキツイのです。

2本どりの刺繍糸を針に通すのももうメガネなしでは・・・うぅ・・・

 

そろそろ老眼鏡を本気で取り入れないといけないのかなあ。

 

い~や~だ~!!!

大体、「老眼鏡」って言葉がキライ!なんか他にいい名称ないのかしらん。あーあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ケーキじゃなくって文科省を斬りたい。

みなさま、こんばんは。

 

またまたブログを放置してサボりまくりの日々でした。

連日更新なさっているブロガーさんってほんとにすごい・・・

心底敬服する毎日です。

 

あれもこれも・・・と、ブログに書きたいなーと思うことはいっぱいあるんですよ?(書く、というより、みなさまとおしゃべりしたい、って気持ち。)

でもいざ更新しようとすると、むくむくむく・・・と湧き上がってくる

「めんどくさ~い」

の気持ち。

この無精で怠惰な性格を一擲する方法ってどこかに転がってないかなー。(←この考え方がすでに怠け者)

もうブログを書くのをやめて、みなさまのブログを読むだけの人になりたい・・・。

 

と思っていたら、先日。

千葉に住んでいるリアル友人からメールがありました。

 

「夏休みだったし、マミーさんのブログ、読み返してるよ。」

 

って。

まあ、本当にびっくりしました。

こんな駄文ばっかりのブログを読み返してくれるなんて。

しかも彼女は「はてな」のユーザーでもないのに。

持つべきものは友ですねえ・・・。

 

千葉県の高校で教員をしている彼女。

苦労も多いと思うのですが、きっといつもテキパキ、颯爽と明るい先生をしているのでしょう。目に浮かぶようです。

時々、学校のエピソードなどを聞かせてもらいますが、その度に、学校で働くってほんとに大変だなって思います。

子どもたちが育っていく、夢のように素晴らしい場所ではあるけれど、反面、子どもたちを取り巻く負の世相にも向き合わなければならない職場。

ストレスもいっぱいあるだろうと思います。

 

で、学校と言えば。

最近、教育がらみで話題になっていた本がありましたよね。

私も読んでみました。

f:id:mamichansan:20190908143459p:plain

「ケーキの切れない非行少年たち」宮口幸治著 新潮新書

1時間もあれば読める本ですが、内容がなかなかセンセーショナルなので、あちこちで書評や感想レポートを見かけました。
ケーキを3等分してください、と言われてベンツのマークのようにケーキを切れない少年たち。

ほんとにそんな子がいるのかな…と聞かれれば、「いるんだろうな。」としか、言いようがありません。

子どもの頃を思い出してみても、クラスに何人かはそういう子、いましたもの。いましたよね?

小学校の高学年にもなって「日本の首都」を答えられない、簡単な四則計算ができない、九九を覚えきれない、本を音読させればつっかえて間違いばかり、そもそもほとんどの漢字を読めない、書けない同級生。

大学時代にはアルファベットを覚えていない中3の女の子の家庭教師を頼まれたことがありました。

それから「田」や「中」はなんとか書けても「湯」の字は書けない娘の同級生。

 

人生のところどころで、そんな子どもたちに出会うたび、「どうなっているんだろう」という不思議と、「どうなってしまうのだろう」という不安、その両方を感じずにはいられませんでした。

 

これまで、そういった子どもたちの多くは、「努力不足」のひとことで一刀両断されてきたのでしょう。

最近ではLDやADHDなどの言葉も使われ出して、努力や躾だけの問題ではないという認識が得られ出していますが、それでも「だったらどうすればいいか」という方法についてはまだまだ「学校次第」「先生次第」の面が強いように思われます。

 

この本を読んでいて思ったのは、これほど認知能力に問題のある子どもが多く存在していることがわかってきたのなら、もっと大規模かつ根本的な対策を国家レベルで打つべきではないだろうかということです。

個人的には、「落第制度」もやむなし、と思います。

九九もおぼつかない生徒に、その学齢に達したからと言って、因数分解なんかを教えたとしても、なにがどうなるとも思えません。

先生が言っていることが何ひとつわからないというのに、50分間、黙ってただ座っていなければならないなんて、それはなんという名の拷問でしょうか。ある意味虐待としか思えません。

「わかった!」とか「ああ、そうか!」とかの感動も、「だったらどうなるんだろう?」という知的好奇心のひとつも持てない授業。

学校で過ごす大半の時間がそんな風に過ぎていくとしたら・・・

私なら耐えられそうにありません。

 

でも、もちろん、こんなにも同調圧力の強い国で「落第制度」が浸透することが難しいことは私にもわかります。

だったらせめて、特別支援に特化した授業を週に何時間か受けさせるというようなことはできないものでしょうか。

支援学校、学級に在籍するほどではないのだけれど、通常の授業にはどうしてもついて行けない子どもたち。

そんな子どもたちに対しても、せめて小学校での授業内容に関しては、なにがなんでも理解をさせる。それが国の、そしてこの国に住まう大人の責務なのではないでしょうか。

 

この本の中に、ことさら印象的だった記述があります。

 

「しかし、診察を続けていると、彼らは何に対しても「イライラする」という言葉を使っていることに気づきました。担任の教官が来てくれなくてイライラ、親の面会がなくてイライラ、はまだわかるのですが、お腹が空いてもイライラ、暑くてもイライラ、被害者に悲しい思いをさせたことに気づいて自分にイライラ、悲しいことがあってイライラ、なのです。実は彼らは感情を表す言葉として「イライラ」しか知らないのでした。」

 

このくだりを読んだとき、私は言葉で言い表せないような悲しみを感じました。

彼らはなんと貧しい、惨めな境遇にあるのでしょう。

仮にどれほど多くのお金を持っていたとしても、「イライラ」という言葉しか持たないのであれば、それはこの世で最も貧しい人間であるとしか思えません。

「手に汗を握るような」緊張も、

「胸の張り裂けるような」悲しみも、

「目の前が暗くなるような」絶望も、

「砂を噛むような」味気なさも、

彼らは知らないのです。経験したとしてもそれを表す言葉を知らないのです。自分の感情に名前をつけられず、ただ「イライラ」としか認識できないなんて・・・。なんという徹底した貧しさであることか。

(もちろん、「イライラ」しか知らないなんて、ちょっと言いすぎかもしれません。

いくらなんでも彼らにしても、「やべー」「すごーい」「ムカつく」くらいは知ってるんじゃないかな。)

 

やれ英語の早期教育だとかプログラミング教育だとか、あるいはセンター試験改革であるとか、文部科学省ってずいぶんと忙しそうです。

でも、そうじゃない、そういうことじゃないんだー!という気持ちは私の中で年々大きくなっていくばかりです。

行事が少なくなってもいい、少しくらい退屈なくらいでいい。

でも最低限必要な知識はなにがなんでも身につけさせる。

学校って、そういう場所であってほしいなあと強く思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夫にデリカシーがない。

みなさま、こんばんは。

 

連日暑い日が続いていますが、みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか。

 

私はただいま、絶賛ダイエット中でございます。

恥を忍んで打ち明けますと、減らした体重は15キロ。

5キロのお米を3袋分、500グラム入りマヨネーズだと30個分!

 

よくまあそれだけ太っていたものだと我ながら呆れるばかりではありますが、そもそも元から「太る体質」ってやつなんですよ・・・。

 

いや、言い訳じゃなくって!!!

ほんとのほんとに、それほど大食いってわけじゃないんですってば!

 

はてな」には、お食事の写真をUPされるブロガーさんが多いじゃないですか。

それを見ると、いつも思うんですよ。

 

「私はこんなに食べていないのになー。なのに私の方が圧倒的に太ってるんだなー。」

 

って。

それって、ものすごーく、ものすごーく、ものすごーく!

 

「理不尽!」

 

って感じるんですよね・・・。

 

「神さまって不公平やわあ。私、こんないっぱい食べてないのに。

でもこのブロガーさんの方がずーっと痩せてはるんよ?な~んか腑に落ちへんわー。」

 

と「はてな」を見るたびに文句たらたら。

そうしたら夫が言いました。

 

「食べたもんがすぐに脂肪になるってことは、栄養が足りなくなってもすぐには死なへんってことやんか。

氷河期とか来てもあなたは生き残れるんちゃう?

優秀な遺伝子!って思っとけば?けけけ。」

 

 む。

 

氷河期・・・。

 

 

いつ来んのよっ?!

 

あー、腹立つ、ほんっとに腹立つ!!!

なんでこんなのと結婚したかなーとぶうぶう言いつつ(←お腹が減っているから攻撃性が増す)、空腹に耐え(←ほんとにガマンした)、必死にダイエットしてきたわけですが、減量が10キロを超えたあたりから、さっぱり痩せなくなりました。

やっぱり代謝が落ちてるんでしょうか・・・最初の10キロは3か月くらいで落ちたのに、ラスト5キロを落とすのに半年近くかかってしまいました。

で、ここにきて、また停滞期が。

 

いわゆる「美容体重」っていうんですか?

「身長ー110」ってやつ。

その体重まであと1キロ、たったの1キロなのに、それが落ちない。全然落ちない。

相変わらず食事はかなりセーブしてるんだけどな・・・。

体重計の針は、まるで形状記憶合金なのか、と思うくらいにいつもぴたりと同じところを指すのです。

おまけにもう一つ深刻な不満が。

体重に限ればようやく20代の頃に戻ったわけですが、なーんか違うわけですよ。

そりゃ私だって、今さら20代に戻れるとは思ってませんが、それでも拭いきれない違和感・・・。

どうして下半身は相も変わらずぷよぷよしているのに、上半身だけが貧相になっていくのか。

 

「なんか違う、思ってたようにならない」と止まらない文句をブツブツ呟いていましたら、またまた夫が言いました。

 

「それくらいでもう、十分ちゃうの?

そもそも俺、あなたの足が細くなったところ、見たことないけど?」

 

む。

 

「は?昔はもっと細かった?

・・・子どもの時?」

 

むかっ。

 

「もうそれ以上は無理なんやって。

来世か、生まれ変わりに期待しぃや。」

 

むっかー!!!

 

・・・ねえ、みなさま、どう思います?この夫。

デリカシーがないにもほどがあるって思いませんかっ?!

自分は若い頃から痩せ型で、ダイエットなんか一度もしたことがないからって言いたい放題、ほんとにほんとに腹が立ちます。

 

私は夫と同じ年ですから、平均寿命から言えば長生きの可能性は私の方に軍配が上がると思うのです。

なのでもしも私の方が夫よりも長生きしたら、夫のお墓には「○○家之墓」でも「南無阿弥陀仏」でもなく、

 

「口がわざわいし続けた男が眠る墓」

 

って彫ってやろうと思っています。絶対!

 

まあかく言う私もね・・・若い頃の夫の写真を見ると、

 

「痩せてるっていうより、「ぺらっぺら」やね。

薄っぺらいよねー、人として。けけけ。」

 

な~んて言ってますから、お墓に彫るなら

 

「失言一家」

 

とかの方がいいのかな、とちらっと思ったりしています・・・ほほほ。

 

で、最近なんですが。

パソコンの調子が悪いんですよ・・・んももー。

 

f:id:mamichansan:20190808222457j:plain

なので、このあたりをこじ開けたら(←夫が)、

f:id:mamichansan:20190808204149j:plain

なんか、こんなちっちゃいプラスチックが出てきました。

なんでしょう、これ???(←誰に聞いてるのやら。)

夫が言うには、どうもパソコンの中で何かが欠けちゃってるんですって。こわー。

 

はてな」だけでなく、一応お仕事にも使っているパソコンなので、壊れちゃったらどうしよう、と電源を入れるたびに、びくびくびくーっとしています。

なんとか使えているので、このまま様子見するつもりですが、仕事が一段落するまで、しばらく「はてな」で不義理が続くと思います。

どうぞご容赦くださいませ。

 

 

(ID:xx_mar0_xx)まろさん、確かにパソコンのプラスチックも夫のデリカシーも欠けてますけどね、私の日常に何が一番欠けてるかっていうと、まろさんのブログですよ!

ネタはいっぱい溜まってるでしょう?

さっさと新しい記事書いてくださいね~!!!きっとよー!

でないと何かを毟りに行きますからねっ!(←鬼畜)

住所知らないけど。ほほ。

 

 

 

 

矢川冬「もう、沈黙はしない…性虐待トラウマを超えて」を読みました。

その本のことを知ったのは、わっとさまのブログを読んだからでした。

 

www.watto.nagoya

 

「もう、沈黙はしない…性虐待トラウマを超えて」矢川冬:著

 

 「実父から受けた性的虐待」がひとりの女の子に与えた影響と、その後の人生についての克明な記録。

この本に書かれていることが、「ほんとうにあったこと」だということに、いたたまれなさを感じずにはいられません。

 

父親から性的虐待を受ける子どもの話を取り上げた本といえば、ほら、

 

f:id:mamichansan:20190717085951p:plain
f:id:mamichansan:20190717090011p:plain


天童荒太氏の「永遠の仔」が有名ですが、こちらも「気の滅入る」本でした。

実の娘に性的虐待を繰り返していた男を殺害した犯人は誰か?という謎が作中のキーポイントになっているわけですが、これほど「同情のできない」被害者もいない、と思いながら読んだ記憶があります。

「犯人、別に誰でもいいやん。殺されて当然やん。よかったよかった。」

とつくづく思いました。

物語を貫く「謎」の解明よりも、虐待を受けて育った登場人物たちの行く末が気になって読むのをやめられなくなった作品です。

 

他にも子どもへの性的虐待を題材にした本と言えば、小説ではありませんが、

萩尾望都作「残酷な神が支配する」全10巻もすごい。

読んでいると、主人公の恐怖や混乱にこちらまで取り込まれてしまいそうになります。

それでもさすがは「少女漫画界の偉大なる母」と呼ばれる天才・萩尾望都だけあって、全編まるで神話の悲劇のような迫力と、イェイツの詩のような抒情性ある作品になっています。

 

どちらも一読の価値ある作品ですが、共通点は、

「子どもに対して性的な虐待を繰り返す、卑劣な人間が殺害される」

ということ。

 

けれどもそれで登場人物たちが苦悩から解放されるわけではありません。

むしろ子どもたちは、加害者の死によって、一層の混迷と混乱を深めていき、死してなお被害者を苦しめる性的虐待の恐ろしさを読者に痛感させます。

しかしながら、同時にそこが物語らしい「都合のよさ」を感じさせてしまう部分でもあります。

 

現実問題として、性的虐待を受けている子どもたちは、そう簡単に解放されたりはしません。

人生100年時代、子どもが幼ければ親だってまだまだ若いことでしょう。

あっさり死んでくれるはずがありません。

今日も、この瞬間も、抵抗のすべもなく、卑劣な性犯罪に踏みにじられている子どもがいるのかもしれないと思うと、とても口には出せないような、激しい憤りを感じます。

 

矢川冬氏の「もう、沈黙はしない…」を読むと、いつ終わるとも知れない悲惨な夜を過ごす子どもの痛々しさに言葉を失います。

ちいさな子どもがこんな痛ましい思いを抱えつつ朝を迎えるようなことがあっていいのでしょうか。

誰にも理解されず、誰にも助けを求められず、自分と同じ境遇の人間がいないだろうかと図書館をさまよう幼い頃の筆者。

つらいトラウマに苦しみながらも必死に勉学に励み、自立して自身を養い、今、同じような境遇にある人を救おうと一身を投げ打ちシェルター開設を目指す・・・。

 

わっとさまが「勝手に協力しちゃえ!」と決意なさった気持ち、よーくわかります。

 

私にはなんにもできませんが、

「この本が日本のすべての図書館に置かれるのが私の夢です。お近くの図書館に注文票を出していただけたら・・・」

というのが筆者の願いだと知って、私も近所の図書館(大阪市立図書館のサテライト図書館である区の図書館)に注文票を出しに行きました。

これまでにも注文票を出したことは何度もありましたし、注文票を出せば購入してくれるのが普通でしたので、この時、私は大阪市立図書館をまったく疑ってはいませんでした。遅くとも数か月の後には、この本が大阪市立図書館の蔵書になるだろうと。

 

それから約半年。

今回はずいぶん時間がかかってるなあ、と思っていたら、やっと「用意できました」の連絡が。

さっそく図書館まで取りに行きました。

そうしたら、なんだか仰々しいビニール袋に入れられた本が出てきました。

f:id:mamichansan:20190716215848j:plain

なんと・・・「大阪立図書館」から借り出しの本でした・・・。

 

もうねえ・・・ショックでしたよ・・・。「は?」って感じ・・・。

 

いや、そこは買おうよ・・・市でも。

こういう本こそ税金で買うことに意味あるんちゃう?

普段、「府市合わせ」(大阪府大阪市は仲が悪いことを揶揄した造語です)とか言うてるやん?他の県ならいざ知らず、大阪府大阪市、仲悪いんやろ?もっとお金のかかるビルとか工事とかでも張り合って二重に税金かけてるやん。(←あかん)

なに急に協力し合ってんのよ!こういう本こそ買いぃや!ベストセラーやからってどうでもいい本、何十冊も買うてるくせに!(←どの本とは言いません。)

 

と思ったけれど、まさかカウンターでそんなことをまくしたてるわけにもいかないので、しょぼーんとしながらすごすごと帰ってきました。

読んだけどさ。府立図書館の本。

なんか釈然としないわー。

 

ということで、結局私も購入しました。

f:id:mamichansan:20190716220111j:plain

一応、大阪市立図書館の名誉のために弁解すると、おそらくこの本、「オンデマンド印刷(注文印刷)」なので購入が難しいのだろうと思います。

「先払い」っていうのがね・・・図書館のシステムにはないのではないだろうかと・・・。

なので、上の本のうち、1冊を市立図書館に寄贈してきました。

わっとさんのブログを読んでいると、寄贈の度に、あれこれ書類を書かされていらっしゃるので、私もそのつもりで行ったんですが、

「取り扱いはこちらに一任していただけますか?」

と口頭で聞かれて「はい。」って言ったらそれでOKでした。簡単簡単。

寄贈したのがつい先日のことなので、まだ蔵書検索にはひっかかりませんが、そのうち大阪市立図書館でも借りることができるようになると思います。

 

で、残りの1冊ですが。

そちらは近所の中学校に寄贈することにしました。

 

こういう言い方は誤解を受けるかもしれませんが、「もう、沈黙はしない…」の筆者、矢川冬氏はおそらく、生まれ持っての知的能力が高い人だろうと思うのです。 

しかしながら誰もがみんな矢川冬氏のように「賢い」わけではない・・・。

家庭環境に恵まれていない児童の場合、正直言って、「自治体の図書館に行く」という習慣を持たない子が多いです。自分の住む街の図書館がどこにあるのか、はっきりわかっていない子もたくさん・・・。

でも、学校図書館なら、行けると思うんです。その存在を知っていると思うんです。

なので、近所の中学校で学力向上支援スタッフとして働いている友人に問い合わせてみました。

そうしたら、図書室内の支援事業用本棚に置くと快諾してくれました。よかった。

 

ところで、学校の図書室に置くとなると、それなりに本に準備を施さなくてはなりません。

まずは分類シールを用意します。

f:id:mamichansan:20190716215933j:plain

図書館の本の背表紙についてるやつね。

日本十進分類法から最適の数字を選んで3桁で表示します。

f:id:mamichansan:20190716221320j:plain

ほんとはもうちょっと上に貼りたいところ・・・でも「矢川冬」という名前は筆者がまさに命を削る思いをしながら勝ち取った名前ですから(「もう、沈黙はしない…」第3~4章参照)、極力隠れないようにしたかった・・・。

分類シールを貼ったら、次に「ブックコートフィルム」を貼ります。

ブックコートフィルムとは本を汚れから守るために貼る、透明シールのようなカバーのことです。図書館の本には必ずこのカバーがかけられています。

貼るには少しコツが要るのですが、読み聞かせのボランティアをやっていると、定期的に「ボランティア講座」なるものが開催されて、「ブックコートフィルムのかけ方」について教えてくれます。

なのでマミーさんはこのブックコートフィルムをかけるのがちょっと上手い・・・数少ない私の特技です。

f:id:mamichansan:20190716220148j:plain

まずは大きさに合わせてカット。

f:id:mamichansan:20190716220210j:plain

端を斜めにカットして、表紙裏側から貼り始めます。静電気を吸いやすい素材なので、周囲のゴミやホコリは徹底的に取り除いてから始めましょう。

f:id:mamichansan:20190716220227j:plain

空気が入らないように、定規やハンカチなどで、そうっと滑らすように貼っていきます。

f:id:mamichansan:20190716220248j:plain

表表紙、裏表紙まで貼り終わったところ。

上下、余った部分は裏に折り返します。

f:id:mamichansan:20190716220309j:plain

裏から見るとこんな感じ。

空気が入ったりフィルムが縒れたりせずにうまく貼れました。

f:id:mamichansan:20190716220325j:plain

写真じゃあまりわかんないけど・・・でも手に取るとつるつるして汚れ・傷みに強くなりました。これで本が強く、丈夫になりました。いろんな人が手にとる図書館に置いても長持ちしてくれることでしょう。

 

でもこれだけではちょっと物足りない。

ただ本棚にあるだけではね・・・子どもたちが実際に手に取ってくれなくては。

なのでPOPを書いてみました。

f:id:mamichansan:20190716220346j:plain

ちょっとセンセーショナルに過ぎるかも・・・と思いましたが、子どもたちに気づいてもらえないと図書室に置く意味が無いので...。

f:id:mamichansan:20190716220404j:plain

「新しい本」のコーナー、一番目立つところに置いてもらいました。

置きながら思いました。

「どうかこの学校には、この本を必要とする子どもがいませんように。

そしてできればたくさんの子どもたちがこの本を読んで、助けを求めている人の存在に敏感になってくれますように。

できれば子どもを虐待するような大人には育ちませんように。」

と。

 

今回、この本をめぐって、わっとさまの行動力に、そしてその影響力に驚きました。

わっとさまの記事を読んでおなじようにあちこちの図書館にこの本を寄贈するたくさんの人たち・・・。

インターネットって、ブログってすごいなあとしみじみ思いました。

 

わっとさまのブログがなければ、私がこの本と出会うこともなかったでしょう。

わっとさまに心からの敬意を捧げるとともに、遠くからではありますが、筆者・矢川冬氏のこれからの人生が少しでも明るいものになるようにお祈りいたします。

 

最後に、断りもなく勝手に言及したことをわっとさまと矢川冬さんにお詫び申し上げます。

もしも差し障りがあるようでしたら、この記事は即刻削除いたします。

そのようにご希望でしたらぜひコメント欄等でお知らせください。

 

長くなりました。みなさま、最後までお付き合いくださってありがとうございました。

 

最後に、矢川冬氏のブログを念のため。

yagawafuyu.hatenablog.com

それから、「もう、沈黙はしない…」の内容については、わっとさまのブログで詳しく紹介されていますので、こちらでさらに何かを付け足すことは控えました。

興味のある方はぜひ、わっとさまのブログをご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

つながっていく喜び。

みなさま、こんばんは。

 

先日、我が家の娘がとうとう「読み聞かせ」のボランティアデビューをすることになりました。

万年、読み手不足に悩んでいた私たち・・・

先月、

 

「読み聞かせに行かなきゃ、と思って私がバタバタしてる横で、まる子(←娘のことです。もちろん仮名です。)ときたら、講義が午後の一コマしかないって、朝からゴロゴロしてんのよー。どう思う?」

 

と私が愚痴りましたら、メンバーが一斉に

 

「なんで連れて来ォへんのよ?」

 

と言うので、

そうか、そうか、もう大学生なんだし、絵本くらい読めるよねー?と勝手に翌月の読み聞かせ要員に登録して帰ってきたのです。

 

「マミーさん家のまる子ちゃん、来月、読んでくれるってー。」

 

の一報が巡ると、「じゃあうちの子も。」と他にもふたり、大学生が参加してくれることになりました。みんな娘の元・同級生です。

 

「ああ、まる子ちゃんもSちゃんもMちゃんも、もうみんな大学生なんやねえ・・・。ついこの前までランドセルしょってその辺ウロウロしてたのにねえ・・・。」

 

と古参のメンバーはしみじみ。

最近、メンバーになったばかりの若いママさんたちは、

 

「読み聞かせしてもらってた子が元気に大学生になって、しかも今度は読み聞かせをしてあげる側に!いいなあ、いつかうちの子もそんな風になってくれたら・・・!」

 

と大盛り上がり。

日が経つにつれてうなぎ登りに上昇していく期待値に、最初は軽く考えていた私の方がプレッシャーを感じるようになりました。

 

娘が今回担当するのは3年生。

まずは子どもたちの興味を外さないよう、慎重に絵本を選ばなくては・・・。

娘に頼まれて私が選んだ絵本はこちら。

 

f:id:mamichansan:20190713200831j:plain

 

上の3冊から娘が選んだのは「オオカミがキケンってほんとうですか?」でした。

親子って絵本の好みまで似るんでしょうか・・・?私も大好きな1冊です。

 

mamichansan.hatenablog.com

 

5年生のクラスに入る予定だった私も、読む本を探していたのですが、せっかく娘が初めて読み聞かせに行くのですもの、記念に私もおんなじ本にしようと思いました。

 

f:id:mamichansan:20190713200814j:plain

あちこち手を回しておんなじ絵本を手に入れました。

 

で、金曜日。

いつものように読み聞かせをしながらも、どうしても3年生のクラスが気になる私・・・。

読み終わった後、子どもたちと一緒に聞いていた先生との、

 

「すごい本でしたね・・・ちょっとびっくりというか・・・胸にささるというか・・・」

「ね!そうですよね、私も最初に読んだときにはびっくりしましたー。」

 

なんて会話中も、気もそぞろ、子どもたちの「ありがとうございましたー。」の声に送られて、大急ぎで3年生のクラスに走って行きました。(←よい子は廊下を走ってはいけません。)

 

3年生のクラスでは娘がちょうど、最後のページを読み終わるところでした。

子どもたちが娘の手元の絵本に注目しているのが見えます。

「ああ、よかった、みんな集中して静かに聞いてる!」

心からほっとしました。

子どもって残酷なくらい正直で、つまらなかったらざわざわして、ちっとも聞いてくれませんから、読み聞かせがうまくいっているかどうかは、教室の前まで来るとすぐにわかってしまうものなんですよ・・・。

今回はとてもいい首尾だったと、教室内の空気ですぐにわかりました。

 

「おしまい。」

と絵本を閉じると、子どもたちは「はっ!」と今起きたばかりのような目でこちらを見上げてきます。

娘もきっとこの瞬間、とっても緊張したのでしょう、

 

「きょ、今日も一日がんばってね!」

 

という挨拶も、ちょっとたどたどしいというか、初々しいというか・・・

子どもたちの、

「ありがとうございました~。」

という唱和に、真面目くさってお辞儀を返す娘の姿をつい、にまにまと眺めてしまいました。

 

読み聞かせの後、メンバーはみんな図書室に戻ってきます。

そこには娘の同級生、SちゃんやⅯちゃんの姿も。

高校進学時から進路の分かれてしまった娘たち。

「久しぶり~」と声をかけあう3人を囲んで、ボランティアのメンバーはすっかり「親戚のおじさん、おばさん」状態、

 

「まああああ、キレイになって!(←うちの娘はのぞく)」

「大学生になったんやねえ。学校、遠いのん?」

「もうすっかり大人やねえ・・・(←うちの娘はのぞく)」

「子どもたちも喜んだと思うわー。年の近いおねえちゃんが大好きやもんねえ、子どもって。」

と大騒ぎ。

最近入会したメンバーからも注目を浴びて、3人とも恥ずかしそうにしていました。

 

本当に、つい昨日のことのように思えるのです。

彼女たちのために読み聞かせをしていた日々が。

教室に行くと、

「あー、まる子ちゃんのお母さん!」

と言いながら、駆け寄ってきた彼女たちの小さな背丈、まだ甲高い声、汗の光る額に貼りつく、まだ一度も染めていないまっすぐな髪の毛・・・。

 

それが、いつのまにやら私たちと同じ目線になった彼女たち。

すらりと伸びた手足に、きちんとお手入れされた髪の毛、うっすらとメイクした頬のすべすべな肌・・・

それはまるで蕾が花開く瞬間に立ち会っているかのようでした。

とても目が離せなくなってしまうのです。

要するに、若いって素敵・・・。ほほ。

 

小学校には彼女たちが5年生だった時の担任、S先生がまだ在職していらっしゃるので、彼女たちに挨拶に行くように促しました。

きっと先生もものすごく驚かれたことでしょう。

(後で娘に聞いたら、まさに「ぎゃー!」としか言えないような悲鳴をあげられたそうです。そりゃそうですよねえ・・・12歳から18歳と言えば、女の子がもっとも変身する時期ですもの。)

 

娘たちと入れ替わりに、図書室には校長先生が入って来られて、卒業生がこうして子どもたちのために読み聞かせに来てくれたことを、ことのほか喜んでくださいました。

 

「僕も担任をしていたころ、毎年、水泳の授業に力を入れていたんですよ。

そしたら、卒業生の中から水泳部に入るのがたくさん出てきましてね、そういうのが高校生になると夏休みに模範演技をしに来てくれたりしたもんです。

子どもたちも高校生がすごい早さで泳ぐのを見ると、憧れるんでしょうね、ものすごくがんばるようになるんです。

いや、あれはうれしかったな・・・こうして「つながっていく」んだって気がして。」

 

わかる気がします。

私たち親にしても、読み聞かせをしてもらっていた子どもたちが、今度は読み聞かせをする立場になる、ということが、こんなにも幸せな気持ちになるのだと、今知ったばかりですから。

 

落ち着いたところで、「次回の読み聞かせは~」と打ち合わせが始まりました。

娘は「いや、もういいです・・・数に入れないでください・・・」

と言っていましたが、百戦錬磨のご近所のおばさんたちに太刀打ちできるはずもなく、

 

「は?ああ、はいはい、じゃあまる子ちゃん、次は2年生ねっ!」

 

って言われてました。

・・・断るなら、自分で断ってほしい・・・私にも勝てる気がしません。全然しない・・・。

 

ちなみに、ここまでの下書きを読んだ娘が、

 

「いちいち、「娘をのぞく」ってしつこいねん!失礼やわー!」

 

とすっかりお冠なので、一応、

 

私の娘のわりには、それなりにキレイに、そして大人になった。

 

と言っておきます。(そういうことにしておいてくださ~い。)