それって、スローな焚書では?
みなさま、こんばんは。
大昔、私がまだ大学生だった頃。
一般教養の講義で「図書館学」を受講したことがあります。
その講義の中で、私は戦後の学校図書館法が昭和28年につくられたものだと知りました。なので、学校図書館法の中に
「すべての学校は図書館を設置しなくてはならない。」
という趣旨の一文を見たとき、心の底から感動したことを覚えています。
だってね?
みなさま、想像してみてください。
昭和28年。
戦後の混乱期を抜け出すために、人々が必死だった時代。
いわゆる「団塊の世代」が一斉に小学校に通っていた頃。
教室が足りなくて講堂を仕切っていくつものクラスが授業をしていたとか、一クラスに60人もの生徒がぎゅうぎゅう詰めになっていたとか、児童が午前と午後とに分かれて登校していたとか、子どもが少なくなった今の時代からは想像もできないほど、「教室が足りない!」エピソードで溢れかえっていた時代です。
そんな時に、「学校には必ず図書館を設けること」という義務は、すんなり受け入れられたのでしょうか?
私には、とてもそうは思えません。
きっと、法案成立前から大蔵省なんかが大反対したんじゃないかなあ。
「図書室を作るくらいなら、ひとつでも多くの教室を作るべきだ!」
とかなんとか言って。
でも、当時の文部省は折れなかったんだと思うんです。
ありとあらゆるものを失い、昨日までの正義は墨で黒く塗られ、アジアの一等国どころか、世界の最貧国に陥った日本。
国民の多くにとって、未来どころか明日、お腹いっぱいに食べられるかどうかが最大の関心事・・・そんな日常が続く中で、でも、それだからこそ、子どもたちには本が、図書館が必要なのだと、当時の文部省の役人たちは考えたのでしょう。
その理念は時代が移り変わっても、それなりに大切に受け継がれてきました。
どれほどの不景気に見舞われても、どれほどコスト管理が厳しくなっても、国は学校図書館に納める本のお金だけは、毎年支給してきたのですから。
ところが、ここにきて、どうも来年度の本の購入代が減らされるかもしれない、というウワサが聞こえてきました。
2020年度から変わる地方公務員制度。
官製ワーキングプアの温床になっている非正規公務員にもボーナスが支給されるという話ですが、国がその財源をはっきりさせないために、地方自治体は大混乱。
ボーナスを支給する代わりに月給・基本給を下げる、フルタイム勤務をパートに切り替える、結果、年収は逆に減ってしまうなどの問題が続出する有様です。
で、私のところに聞こえてきた「ウワサ」によると、大阪市でも非正規公務員にかかる人件費の増大分の不足を補うために、学校図書館用の本の費用を削るんですって。
考えられます?
それでいいの?
納得できない・・・本当に納得しかねます。
本来、子どもたちの読書のために配分された本の予算を、人件費に振り分けるって、そんなのアリですか???
未だにそのウワサの真偽がわからないのですけれど、もしも本当だったらどう考えればいいのだろうと、ここ数日ショックを受けています。
昭和28年の文部省の役人たちが持っていた気概を、今の役人たちは失ってしまったのでしょうか。
子どもたちの本代に手をつけるなんて・・・そんな親がいたら、私たちは眉を顰めるに違いありません。それを国や自治体が率先してやるだなんて・・・。言葉もありません。
確かに今の文科省を見ていたら、意外でもなんでもないですけどね・・・。
センター試験から共通テストへの移行に関してもグダグダですもの。
受験生のことを一ミリも考えていない改革。
暴論を許してもらえれば、一部の業者に対する利益誘導が目的だったとしか考えられません。
この国はどうなっちゃうのかな。
いくらお金がないからって、昭和28年当時よりも困窮しているわけではないでしょうに。
「タコは食べ物がないと、自分の手を食べる」という俗説がありますが、子どもたちの教育のためのお金に手を付けるって、それに似た匂いを感じます。
もうひとつ。
昭和28年の学校図書館法は、学校に図書館を設置することを義務付けた一方、図書館司書の配置については「努力目標」にとどめられています。
そのため、未だに専任の司書が存在しない学校図書館がたくさんあります。
大阪市の公立小学校もそう。
1週間に1度だけ、非常勤の補助員が派遣されてくるだけです。
せっかくの学校図書館も、専任の司書がいないので鍵がかけられたまま、子どもたちは自由に図書室に出入りすることもままなりません。
先ごろ、日本維新の会が、学校司書の配置増を求める国会決議案に反対し、臨時国会への提出が見送られていたことが話題になりました。
維新「司書はAIで代替可能」 唯一反対、増員決議できず | 共同通信
AIってすごいな・・・。
図書室の鍵を開けて、本の貸し借りを手伝って、蔵書を点検し、書架を整理し、傷んだ本を補修して、新たに購入する本、廃棄する本の選別を行い、その上授業の進み具合を把握しながら指導案に沿った本を選んで教室まで運び、子どもたちにぴったりな本を選んであげつつ、読み聞かせもしてくれるんだ!しかも子どもたちのケンカの仲裁まで!
機械に弱いマミーさんのことですから、AIがそこまですごい進化を遂げているとは全然気がつきませんでした!(←イヤミ)
学校図書館は、子どもたちの成績向上のためだけにあるのでしょうか?
集団生活がつらい時、お友だちとちょっとケンカしちゃったとき、少しだけ一人になりたい時・・・そんな時に、「いつでも行ける、いつでも開いている」図書室は、子どもたちにとって安心して存在できる最後の砦になりうるはずです。
その図書室の存在をないがしろにする党には、なんら魅力を感じないし、期待もできません。
大阪に住んでいますから、維新の会がそれなりに大阪に変革をもたらしたことは否定しません。その業績のすべてが悪いとも思いません。
けれども、この先、私が維新の会に投票することは決してないでしょう。
ここ数日は出会う人、出会う人に「維新に投票するのはできたらやめてね。」と言って歩いています。
それにしても、PISAの読解力の結果が8位から15位に落ちて大騒ぎするわりには、本や図書館予算を充実させようとは誰も思わないんですね・・・それって大いなる矛盾に感じる私はどこかおかしいのでしょうか。
子どもたちの未来のための投資。
それをケチって縮小するなんて。
日本人としてこの国に生まれ、これからもこの国で生きていくことを、これほど不安に感じたことはありません。
この国は、本当に大丈夫なのでしょうか?
予期せず聖地に踏み込みました。
みなさま、こんばんは。
金沢旅行の続きです。相変わらず退屈な記事になると思いますが、どうぞお付き合いください。
金沢の奥座敷と言われるだけあって、近づくにつれてどことなく秘境めいた雰囲気が漂ってきます。
山がぐんと近づいて、これ以上どこにも行けなくなりそうな・・・閉塞感と非日常感をたっぷりと味わえます。
鄙びた田舎町。
行き止まりの町。
家族旅行というより、不倫旅行にぴったり!みたいな。知らんけど。
ところがどっこい、この日は不倫旅行どころではなかった!
なぜかというと、「アニメ」に関するお祭りの日だったから。
見てこれ・・・
どっから湧いて出てきたの~?と言いたくなるくらいに、どこもかしこも若い男性でびっしり・・・。
どうもこの湯涌温泉、あるアニメの舞台となったらしくて、近年、そのアニメを使って町おこしをしているらしいのです。
そのアニメとは・・・2011年に放送された「花咲くいろは」。
ぜんぜん知らにゃい・・・。娘もまったく知りませんでした。
で、このアニメの中に登場する「ぼんぼり祭り」っていうお祭りをリアルでも開催するようになったのですって。
びっくりびっくり、アニメの方が元ネタとは。
なかなかの再現率!
出店なんかはちょっとチープな感じというか、正直まだまだ「大学生の学祭レベル」って感が否めませんでしたけど、「痛車」って言うんですか?アニメのキャラクターがいっぱい描かれてる車みたいなのもたくさん停まってて、なるほどアニメのためのお祭りなんだなあという感想を持ちました。
それにしても、10年近く前に放送されたアニメーションのために、今でもこんなにたくさんの人が集まるだなんて・・・ファンとはなんとありがたいものであることでしょう。
考えてみたら、アニメの登場人物は年を取ったり、結婚したり離婚したり、ましてや薬物で逮捕されたりしませんもんねえ・・・イメージダウンによる打撃なんかを心配しなくていい分、コスパ的にも最高なのかも・・・これからは町おこしを最初から織り込んだアニメが出てきたりして・・・もう有るのかな?
私だって 「ベルばら」のラッピング電車を見るとうれしくなっちゃいますもの、
ファンの人たちが聖地巡礼する気持ちもわかるなー。(私はいくらベルばらファンだと言ってもフランスには行きませんよ?飛行機コワい。)
あちこちで
こんな立て看板やアニメのグッズを売るお土産物屋さんを見ました。
旅館にもファンのオフ会と思われる団体客が。
で、ちらっと思ったんですけど、世の中ではほら、「オタク」って特別な目で見られたりするじゃないですか、「キモオタ」なんて呼称もあるくらいだし。
でも、この日、私が見たアニメファンの人たちは、みんなとっても「普通」の人たちでした。
ネット上でいかにも「キワモノ的な」男性の写真を典型的な「オタク」だと紹介したりするのって、あんまり賛成できません。
なんでもわかりやすく一般化したりアイコン化したりすることによって、人を揶揄の対象にするなんて、感心しないなー。いじめの温床になりかねませんもの。
「大阪のおばちゃん」だって、みんなヒョウ柄とかトラ柄のお洋服を着てるわけじゃないですからねっ?私も着たことないし、これからだって着る予定はありません。飴ちゃんも持ち歩いてません!(←でも確かに飴を「飴ちゃん」とは言う。)
で、旅行の話と言えば。
やっぱりメインは「おいしいもの」の話だと思うんです。
その土地ならではの、その土地でしか食べられないもの。
それをキレイに撮った写真と一緒に紹介する・・・のが旅ブログの基本かなーと思うんですけど、私の場合、写真がない・・・。
おいしいものが出てきたらすぐ、
「わーい!」
とばかりにパクパク・・・で、気がつけばお皿は空っぽ。
UPしたくてもそもそも写真がありません。
金沢では何を食べてもおいしかったのに・・・
特に魚介類と、それからお米!
以前、岡山を訪れたときには、「岡山を首都に!」と思いましたけれど、金沢は私の中の「次の首都候補」からすぐに外しました。
うっかり次の首都になってしまって、能登の田圃がちょっとでも削られることになったら日本の大損害!
それくらい白米がおいしく感じられました。
金沢に住んでたら、マミーさんはきっと風船のように肥えてしまうことでしょう・・・怖い怖い。
探してみたら、この旅のお食事で唯一の写真がありました。
なんだこれ・・・ボケボケです。
おそらく、「海が見える~!」とうれしくって撮った写真なんだと思います。
こちらはランチのために訪れたカフェ「海とオルゴール」さん。
「お肉が食べられない者がいるので、お肉を使っていないメニューはありますか?」
と尋ねたら、ベジタリアンかビーガンだと勘違いされて、
「なんか都会からややこしいのが来た!」
と盛大に誤解されました・・・。
違う違う、そうじゃない、そういう「意識高い系」じゃなくってただの好き嫌いなんです~!
とわかってもらうまでにずいぶん苦労しました・・・。それもおもしろかったけど。
それにしても海にも山にも近くて、金沢って本当に素敵なところだなあと心から思いました。
湯涌温泉だけでなく、和倉温泉とか茶屋街とか美術館とか博物館とか、あちこち見て回ったんですけれど、もう書くのがめんどくさい・・・(←あかん)
でも、どこもすごーく素敵だったので、みなさまもぜひぜひ金沢にお出かけくださいね。
私もいつかまた行きたいです!
初めての金沢。
みなさま、こんばんは。
この1週間、マミーさんは絶不調。
カゼの症状もないのに発熱が続き、まったく使い物になりませんでした。
昔から熱にはめっぽう弱い・・・37度の熱でヘロヘロのグダグダ、
「全機能停止」
あるいは、
「顔が濡れて力が出ない~」
状態になります。
今日になって、やっとなんとか通常運転に戻れそうな気がしてきました。
なんにもできずにひたすら寝てばかりの1週間でなんのネタもありませんので、今日は今月初旬の連休、金沢へ家族旅行に行ったお話をさせてください。
ずいぶん久しぶりの家族旅行。
もともとは娘の受験が終わったら行こうと計画していたのですが、春休みは入学準備、夏休みは8月中旬まで娘の大学での定期テストが入っていて、結局こんな時期までずれ込んでしまいました。
正直、合格通知を手に入れたときのテンションはすでに遠い彼方、
「今さら旅行~?もうどうでもいいやん~。」
って気持ちだったのですが、娘が「合格したら旅行に連れて行くと言った!確かに言った!」としつこいので、結局逃げきれませんでした・・・。ちぇー。
思い返せば入試の直前、ちっとも勉強しない娘に業を煮やし、
「試験、全滅したらどうするのっ?全然勉強しないで!どこの世界に夜10時に寝る受験生がいますかっ?!
もしもどこにも受からなかったら、ママは、もうママは家出するっ!出て行くからねっ!」
とやいのやいの言いましたっけ。
娘が「・・・私を追い出すんじゃなくて、ママが家出するの?」
と聞くので、
「当たり前やん!まる子ちゃん(←娘のことです。もちろん仮名です。)を追い出したら、ママ、また朝から晩まで心配せなあかんやん。だからママが出て行くねん!
まだ寒~い日本海側のどこかに行ってな、それでママな、
カニ食べてくるわっ!!!」
とまくしたてましたら、娘に、
「それ、ただの旅行やんな?」
と冷たく返されました。・・・腹立つ。
で、仮にどこかの大学に奇跡的に引っかかったら、「ママひとりでおいしいカニを食べに行くという家出」ではなく、「家族で旅行しよう」という約束になったのですが、どこに行くかまでは決めていませんでした。
娘の希望は「おいしいものが食べられて温泉に入れるところ」。
「年寄りかよ。」
と思わないでもないですが、私の母ももちろん一緒ですから、その希望は娘なりの気遣いだったのかもしれません。
散々悩んだ末に、まだ訪れたことのない「石川県」にしようと意見がまとまりました。
で、行ってきました、人生初、石川県、金沢。
うーん。かっこいい・・・。
テレビでよく見ていましたが、実物はもっとかっこいい!
いかにも日本的でいいじゃないですか。
どうして大阪駅とか京都駅もこんな風にできなかったんだろうかとしみじみ思います。
その点、東京駅はいいですよね。レトロな雰囲気で。とても素敵です。
でも大阪駅も京都駅もモダン過ぎて、日本にある意味があるんだろうかと思ってしまいます。
もしも自分が外国からの観光客だとしたら、絶対大阪駅よりもこちらの金沢駅の方が魅力的に感じるはず。
誰やねん、大阪駅のデザインしたやつ。出てこーい!と思っちゃいました。
ところで、石川県で感じた「美」は駅だけではありません。
なんていうかな、どこを切り取っても「とてもハイセンス」。
趣味がいいというか、「粋」というか、美的センスの塊というか・・・どこを見ても、どこを歩いても、うっとりするような風景の連続でした。
もちろん兼六園にも行きました。
紅葉にはまだ早かったけれど、もうすぐやってくる雪への備えまでもが美しい・・・。
金沢には「芸術的才能」がある人が多いのでしょうか。
風景をこんなにも美しく魅せることができるのって、ものすごい才能です。
大阪にもそういう才能のある人をちょっと寄こしてほしい・・・いや、行きたくないと言われそうだけど。
金沢の街を散策していて、ふらりと立ち寄ってみた尾山神社。
前田利家公を祭った神社らしいのですが、どことなくハイカラな感じがします。
こんな神門初めて見ました。ちょっと西洋建築風で、しかもちょっびっと中華風?不思議な感じです。
中華風と言えば、絵馬の中にはこんなのがいっぱい。
香港からの観光客が残していったのでしょう。
中国語なんて全然わからないのに、「なんとなく」理解できてしまうところが漢字のすごいところ。
娘と一緒にこの絵馬を見ながら、ふと胸を突かれる思いがしました。
娘と同じような年頃の若い人が、かの地ではどんどん追い詰められているのでしょう。
もちろん、若さゆえに性急に、無謀に突っ走ってしまうところがあるにしても、自国の警察や軍隊に簡単に圧殺されていい命などこの世にあるでしょうか。
なんとか人死にが出ないように、香港政府と中国政府には、最大限の自制をお願いしたいものだと思いました。
そもそも人権派の弁護士が次々と連れ去られ、その家族が幼い子ども共々、何年も過酷な軟禁状態に置かれているのを見れば(しかも村八分状態で)、香港の市井の人々が中国政府に対して不信感を持つのも至極当然のように感じられます。
香港の現状に口を挟む暇があるのなら、中国政府は自分たちの足元を掃き清めた方がいいように思います。香港の人々にしても、今さら二等国民のように扱われた英国による統治時代に戻りたいと考えているわけはないでしょうから。
ああ、やっぱり私は旅行に関する記事が苦手です。
話が脱線するどころか、何を言いたいのやらさっぱり。
すみません、この続きはまた次回。
石川県、金沢。
あまりにも魅力的なこの街について、もっと体系的に、より素敵に紹介しているブログをご紹介しますのでみなさまはぜひこちらをご覧ください。
私もいつもうっとりしながら見ています。
で、夫が今、ここまでの下書きを読んで、
「まさかの丸投げ!」
と大爆笑しています。
いいやん、別に・・・
苦手なことは苦手やねんっ!
相変わらずうるさい夫婦です。
小ネタ集2回目?
みなさま、こんばんは。
今日は久しぶりに「小ネタ集」をやってみよーかなーと思います。
大したネタがないので。(←いつもだけど。)
だったらブログなんて放置しとけばいいのに、つい湧いて出てしまうのはおしゃべりな人間の悪いところです。
いつものことですが、今日も人生に有用なことは何ひとつ出てきません。
それでもつきあってやろうというやさしい方はぜひ最後までお付き合いください。
1.こけた。
先週、こけました。思いっきり。
階段の最後の一段のところで。ずるっ!っと。
お尻を思いっきり強打したあげく、「ふええええっ?!」っていう情けない声が出ました。
子どもの頃は痛くってもすぐに「ぱっ」と立ち上がれたものですけど、この年になると、痛みと同時に「立てるだろうか?」の恐怖心が渦巻きます。
無事に立てたときには、「立てた!」とクララのように喜び、そろそろと歩き出しては、「折れてない!」とほっとしました。
これから階段を降りる時には必ず手すりを持ちます。
湿布を貼り換えるたびに、そう決意しています。
2.ドクターイエローを見た!
今日、お散歩していて、ドクターイエローを見ました!
人生で3回目か4回目か・・・(←うろ覚え)
今度こそ写真を!と思ったのに、またしてもスマホ、スマホ、と探しているうちに、ドクターイエローはあっという間に走り去っていきました。がっかり。
見ると何かいいことがある、と言われるドクターイエロー。
いつかみなさまと一緒に見たいものだと思いますが、あまりにも「どんくさい」マミーさんのことですから、いつになることやら・・・
今日はネットから拾ってきた写真でご容赦を。
みなさまにもいいことがありますように。
3.「帰ったら?」が口癖になる。
「自己申告書講座」のために訪れていた中学校、明日から定期テストに入ります。
なので、放課後の図書室を自習室として開放しています。
私のところにもまたまた「子どもたちの自習のお手伝いを・・・」の協力要請が来ました。
娘もお世話になった学校ですから、時間が合えばなるべく参加するんですけれど、私、毎回怒ってばかりです。
お友だちと一緒に自習にやって来るのはいいとして、みんな全然勉強しないのですもの・・・しゃべってばっかり、いらんことして互いの勉強の邪魔をしてばかり。
保護者の立場になって痛感しましたけど、「お友だちと一緒に勉強する」って、あれ、「遊びに行く」と同義語ですからね?
騒いでばかりの子どもたちに「もう帰りぃや・・・全然勉強になれへんやん」とひたすら繰り返す私。徒労感だけが募ります。
でも、ボランティアとして参加する人間の中には、高校生や大学生になった卒業生もたくさんいて、彼らが和気藹々としゃべっているのを見るのは、私にとっても楽しいことです。
中学生も年の近い先輩のことは大好きなんですね。生意気盛りの彼らも、高校生の先輩の言うことはよく聞くような気がします。
ちなみに娘も私とは別日にボランティアで参加しているのですが、「帰って勉強したら?」しか言わない私と違って、
「どこかわかんないとこ、ある?」
と聞いて回ったりして、「やさしい」と大評判になっていると聞きました。
マミーさん家では娘さんの方がやさしい、という噂が出回ってるんだろーなー。むむむ。
4.年賀状、いる?
先日、母がプリプリ怒っているので話を聞いてみたら、
「郵便局の人がチャイム鳴らして簡易書留ですって言うから出たら、書留なんて無くって、年賀状の販売やった。」
というのです。
本当に郵便局の人だったのか聞いてみたら、確かに郵便局の配達バイクに乗って、制服も着ていたとのこと。
「書留」って言われたら、玄関ドアを開けるじゃないですか。
そんな販売方法ってあります???
正直、ひどい話だと思いましたけれど、それだけ販売ノルマが厳しいってことでしょうか。
メール、SNS、色んな媒体が出てきて、ハガキの販売は年々減少しているのだし、もう年賀状の売上を気にするのはやめたらどうだろうと思いました。
お客さんを騙すみたいなやり方まで取らなくてはならないなんて、あまりにも気の毒です。文化であろうと伝統であろうと、誰かのそんな悲しい苦労の上にしか成立しないものなら、私は無くなっても惜しいと思いません。全然。
5.久しぶりにクラシック。
土曜日、兵庫県立芸術文化センターの定期演奏会に行ってきました。
演目はショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番とマーラーの交響曲第1番「巨人」。
クラシックのコンサートに行くと必ず思い出すことがあります。
それは高校時代の英語の授業。
バーナード・ショーの随筆がテキストだったのですが、そこには確か、こんな記述が。
「オーケストラの演奏というのは、始まってからよりも、演奏前、オケのメンバーが調律している時が一番心躍るものだ。」
それを読んだ私は、
「どこの世界にも吉田兼好みたいなおじさんがおるねんな。本居宣長に怒られるで。」
と思ったものでした。
今も、コンサートが始まる前、オーボエの音が
A~~~~~~~♪
と響くと必ずそのことを思い出します。
そしてバーナード・ショーの言うことも、ある意味もっともだなーと思うのです。
もちろん、始まってからの演奏も素晴らしかったですよ!
ものすごく前の席だったので、演奏者が息を吸う音まで聞こえてきました。
チェリストはアントニオ・メネセス。
複雑なショスタコーヴィチの曲を暗譜して弾くってすごい・・・人間の能力の底知れなさに驚きます。
高音のトリルなんてすごく大変そうで、演奏の途中、時々すごい「ドヤ顔」をするのにも、「うんうん、わかるわかる、すごいすごい、昆布茶でも飲む?」と労いたくなりました。
でも特に素晴らしかったのはコンマスかな。いや、女性だったのでコンミス、アビゲイル・ヤング。
この人の演奏が本当に素晴らしかったです。
他の弦とは全く違う・・・彼女の音だけ、演奏の中から一音ずつ、拾い出せそうに思えました。
普段は金沢の「オーケストラ・アンサンブル金沢」でコンマスをなさっているのだとか。しょっちゅう聞きに行けるんだな・・・金沢の人がうらやましいです。
マーラーの交響曲はマーラーらしく後半どんどん盛り上がっていって、観客席も高揚感の塊になります。
弦がどれだけ複雑で面倒な旋律を奏でていても、それを吹き飛ばすかのような管、そしてパーカッション。(ああいう時、弦楽器メンバーは「俺ら、全然目立てへんやん!」とか思うのかな・・・?)
ああ、生まれ変わったらパーカス奏者になりたい・・・としみじみ思いました。
今日もくだらない話ばかりしてしまいました。
ここまでお付き合いくださったみなさま、本当にありがとうございました。
国際化とかグローバル化とかって?しつこく自己申告書のはなし。
みなさま、こんばんは。
先日お話したように、行ってきましたよ、「自己申告書講座」。
今年もやっぱり大変でした。いや、これが。本当に。
まず開始早々、
「こんなん、やってられんへんわー、帰りたい~!」
と叫び出す男子。
時々います。こういう子。100パーセント、男の子です。
こちらもまったくのボランティアですから、さすがに「むむっ」とします。
誰が帰りたいって、私の方が帰りたいに決まってますもん。
猫なで声で「そんなこと言わんとがんばりぃー」とか言ってもらえると思ってるんでしょうか?だとしたら大間違いのコンコンチキ、勘違いも甚だしいって話です。べろべろべ~だ。
「今、帰りたいって声が聞こえたけど?
今日は希望者のみが参加してるはずやで?
引き留めないから帰んなさい。遠慮せんと。誰も止めへんから。
帰り、帰りぃ。」
いかにも「やべー」と言いたげに首をすくめている男の子が目の端に入ってきますが、意外とマミーさんは「いけず」なのです(←バレてる?)。畳みかけます。
「みんな勘違いしてるかもしれへんけど、高校は義務教育ではありません。
行きたくなかったら行かなくてもいいねん。誰も行ってくれとは頼んでへん。
そもそも「志望校を選ぶ」って言うけどな、「選ばれる」のはあんたらの方やねん。
向こうから「いらん」って言われたら、来年の春から行くとこ無いんやで。
みんなが合格を喜んでるのに、自分だけその輪に入られへんとこ想像してみ。結構キツイと思うで。
わかったら、四の五の言わんと真面目にやり。」
そこまで言うと子どもたちもさすがに観念するのか、机の上に目を落として必死に考え始めます。中3のこの時期にそこまで言わないとお尻に火がつかないってところがすでに絶望的ではありますが。
初回なので子どもたちは志望校のアドミッションポリシーを読んだり、自らの中学校生活を振り返ったり。
3時間近くを費やして、まだまだ形にならない自己申告書を持って帰っていきました。
今年の自己申告書講座はあと2回。
あと2回もある・・・とげんなりする気持ちと、あと2回でなんとかまとめてあげないと、と焦る気持ちがせめぎ合って、その日の夜はなかなか眠れませんでした。
で、今回、あちこちの学校のアドミッションポリシー(求める生徒像)を読んでいて感じたことがあります。
それは今の学校って、「グローバル」とか「国際社会」って言葉が好きなんだなってこと。
各校のアドミッションポリシーには軒並み「国際社会のリーダー」「グローバル・リーダー」「国際社会に貢献できる人材」という言葉が並びます。
でも、それって本当に難しい課題だろうなって感じます。
例えば、娘が高校2年生の冬。
研修旅行という名の修学旅行に、オーストラリアに出発することになったのですが(←公立高校なのに海外だなんて贅沢!)、事前準備のレポートにこんな注意事項がありました。
「ホストファミリーに何を食べたい?と聞かれたら、「なんでもいい」と答えてはいけません。食べたいものをはっきりと主張しましょう。」
って。
それを読んで、私、笑ってしまいました。
確かに「何食べたい?」と聞かれたら、「なんでもいい」って言ってしまいますよね、日本人って。
それを「自分でものを考えない」とか、「責任回避」とか言う人もいるのかもしれませんが、私はそうは思いません。
「何を食べたい?」と聞かれて、「なんでもいい」と答えるのは、この国のマナーだと思うんですよ。
つまりね、
「こんなにも広い、こんなにもたくさんの人がいる世界で、他でもない、あなたと出会えたことの偶然を思うと、それはとんでもない幸運に思えます。ましてや一緒に食事ができるほど親しくなれるなんて、これ以上の喜びがあるでしょうか。
でも、人の世は儚く、短いものです。一緒に食事ができるのはこれが最初で最後かもしれません。
だから、あなたと一緒にごはんが食べられるなら、それがたとえおにぎりひとつでも、パンのひとかけらでも、この世で最上のご馳走に感じられることでしょう。
だから、何を食べるかなんてどうでもいいことです、メニューになんかこだわりません。
なんでもいいですよ。」
の前半部分がまるっと抜け落ちて、「なんでもいい」と言っているだけなんじゃないかなって。
だって、重篤なアレルギーのある友人でさえ、最初は必ず「なんでもいい」って言いますもの、「なんでもいいけど、ごめん、○○だけはアレルギーで無理なの」って。
で、真にグローバル化に対応した人材とは、そういう、「他国と自国の文化の違いやマナーの違いによる軋轢」を自覚した時に、真摯に真剣に「なぜ、どうして」と考えられる人間のことをいうのだと思うのです。
ただやみくもに外国のマナーを学び、それを真似るだけで、彼我の違いについて考えることをしなければ、それはグローバル化でも国際化でもなんでもなく、ただ単に「郷に入っては郷に従え」を体現しているにすぎないんじゃないかな。
で。
ある時。
外国人の友人とチャットで話していた時。
私がやはり日本人らしく「謙遜」してしまったら、友人が言いました。
「なんでそんなこと言うの?自己評価が低すぎるよ!」
あんまりしつこいので、たまらず私は言いました。
「日本では、ありとあらゆる褒め言葉は他人のためにこそ在る。自分のためには使わない。」
って。
そうしたら、パソコンが壊れたのかな?というくらい長い沈黙の後で友人が言いました。
「・・・そういう考え方っていいな。
日本では他人に対するリスペクトがあるってことだもん。
こっちではみんな、俺が俺が、私が私が、でうんざりよ。」
私は日本人のこの「謙遜文化」が他国に比べて優れていると言いたいわけではありません。
ただ、他所の国では自己アピールが重要だからと言って、日本でも付け焼き刃的拙速さで子どもたちに受験の時だけアピール上手になりなさいというのは、あまりにも酷ではありませんかと、言いたいのです。
もしも、これからの日本人はもっと自己アピールがうまくならなければならないというのなら、もっと小さいうちからそのように躾、教育するべきだし、それは私たちが育んできた「謙遜」と「謙虚」という精神文化を失うことも覚悟の上でなければならないと思います。
私たちはそれでいいのか。本当に?
グローバル化とか、国際化とか、とても前向きでカッコいい言葉は、けれど、私たちに多くの覚悟を求めているのだろうと思います。
今回、自己申告書講座のお手伝いをするにあたり、千葉の県立高校で教鞭をとっている友人からアドバイスをもらいました。
「自分で自分の長所ってなかなか書けない子が多いから、「友人」に手伝わせてその子のいいところを答えてもらうといい。「あんたってこうだよ!」って他者紹介してもらって、それを自分のものにしてもらうの。」
ほーら、やっぱり。
自分以外の人間の「長所」や「いいところ」はみんな上手に見つけられるんじゃない。
それって、私たち日本人が最も世界に誇れる美点だと思いませんか?
オードリー・ヘプバーンだって言ってるじゃないですか。
「美しい瞳であるためには、他人の美点を探しなさい。」
って。
生意気で、勉強嫌いで、作文が苦手な子どもたち。
でも、彼らもきっと「友人の長所」はスラスラと答えられるはずです。
次回の自己申告書講座では、そのあたりを念入りに聞いてみたいと思います。
最後に、私が言いたいことを全部言ってくれている感動的な絵本を紹介。
自分の「いいところ」をなかなか見つけられなくて困ってしまう男の子が、先生にすごーく素敵な「いいところ」を発見してもらって喜ぶおはなし。とってもいい絵本なので、どこかで見かけられましたら、ぜひ。
自己申告書講座、残り2回。
今年の参加者はなかなか手強いですが、あと少しがんばります!
大阪府立高校受験に必須、「自己申告書」というやつ。
みなさま、こんばんは。
今年も早11月、残りわずかとなりました。
毎年、この時期になると私にはちょっと気の重い行事がやってきます。
それはご近所の中学校で開かれる「自己申告書講座」のお手伝い。
中学3年の生徒たちが、志望する公立高校へ提出する「自己申告書」を書くお手伝いです。
自己申告書とは。
受験する公立高校に願書と一緒に提出する書類のことで、生徒自身が自分について書く自己PR書のようなものです。
入学試験・内申書の結果と合わせ、主にボーダーライン上の生徒を選別することに使われ、各校が発表しているアドミッションポリシー(求める生徒像)に合致する生徒が有利と言われています。
中学時代に経験したエピソードを引き合いに、自分がどんな人間かをアピールし、将来の夢を実現させるべく、高校生活で何をどのようにがんばろうと決意しているのか・・・
くらいのことを1300字程度の文章にまとめればいいのですが、毎年、この自己申告書を書くことに苦労する生徒たちが多くいるらしく、中学校から私のようなオヒトヨシの暇人に向けてお手伝いの要望がやってくるのです。
生徒の参加数は希望者だけなので、毎年20~30人くらい。
大変なんですよね、これが。毎回毎回。
なにしろ子どもたちって作文が大嫌い。(←私もキライだけど)
どの子も例外なく、真っ白な原稿用紙を前にして、 悲痛な顔をして座っています。
「あの、書き出しはなんて書けばいいんですか?」
なんて聞かれて、
「そうやなあ、「私(僕)が中学3年間で一番がんばったことは~」とかでいいんじゃない?」
と答えると、みんな一斉にそのまんまを書いてしまいます。
内心、
「ちょっとは文言を変えたらどうだろう・・・。
「この3年間で学んだことは~」
とか、
「中学校生活で経験したことのうち忘れられないことは~」
とかさ。」
などと考えたりしますが、正直そんな細かいことにこだわってはいられません。
なにしろそこからが長いから。
「で、キミが一番アピールしたいことを書こう。
この3年間で何をどんな風にがんばってきた?」
って聞くと、みんな「しーん。」としてしまいます。
そこからはもう作文のお手伝いではありません。
ほとんどが「聞き取り調査」。
「3年間吹奏楽部?部長さんなの?いいねー、それを書こうよ。」
「え?3年間皆勤?それはすごい、そこはぜったいにアピールするべき!」
「ガールスカウト所属?いいやん、いいやん、ポイント高いよ!」
「生徒会で表彰された?それを書かずに何を書くん?!」
子どもたちひとりひとりのアピールポイントを聞きだして、それを作文に盛り込むように伝えるのですが、みんななかなか書き出そうとはしてくれません。
むしろ、ちょっと戸惑っている感じ。
「部長って言っても、みんなに押しつけられただけやし・・・」
「皆勤ってそんなにすごいことですか?ただ毎日学校に来てただけやし・・・」
「ガールスカウト・・・半分遊びみたいなもんで・・・」
「あいさつ運動で表彰って、そんなんアピールになるんすか?」
もうね、正直ね、心の底から、
いらいら~っ!
ってします。
なんでみんなそんなに自己評価低いのん?
謙遜が行き過ぎて自虐になってるでっ?!
と言いたい気持ち。
でもここでキレちゃうとそこから一歩も進まなくなるので、ぐぐっと我慢!
「みんなから部長を頼まれたということは、人望があるってことやんか!」
「真面目にコツコツ、が一番ポイント高いねん、この場合!」
「あなたの志望校のアドミッションポリシーに「グローバルな人材」って書いてあるやん、ガールスカウトで外国の子とも交流あるんでしょ?それ、最高のアピールポイントやんか!」
「あいさつ運動で表彰なんて、めっちゃいいことやん、みんなで掲げた目標をちゃんと守れるってことやんか、そこをアピールせずにどこをアピールすんのよ!」
自信を喪失しがちな15歳の面々を必死に持ち上げて(←気分は松岡修造)自己申告書を書かせようとしても、彼らは自分自身のことをちっとも正当に評価しようとはしません。
むしろ、そんな風に自己アピールをする自分のことを、「恥ずかしい」と思っている様子です。
作文のお手伝いだったはずなので、もちろん「てにをは」がおかしければ直さなくてはならないし、漢字の間違いも正さなくてはなりません。
でも、そこまで到達するのにかかる時間が長い、長い!
業を煮やして、 うっかり
「こう書けば?こんな風に書けば?」
などと言ってしまうと、子どもたちはそのまま、その通りに書いてしまいます。
それを見ると、あんまり口出しするのもなー、とためらいを感じずにはいられません。
なにしろ、あれこれ手を回して採点側の高校の先生たちの意見を聞いてみると、
「いかにも大人が手を入れた、って丸わかりの自己申告書は、読む気も失せる。」
だそうだから。
なので、なるべく子どもたち自身の言葉で、作文を仕上げてほしいと思うわけですが、それがほんとに難しいのです。
おそらく、他のテーマなら、彼らももう少し容易に書けるんじゃないかと感じるのですが、この「自己PR」っていうやつが、彼らにとって、ものすごーくハードルが高いように思われます。
うんうん唸っている彼らを見ながら、彼らも小学1年生のころには、
「ぼく、こんなことできるねんで!」とか、
「わたし、こんなの持ってるねん!」とか、
そんな風に自慢気に話してくれていたことを思い出します。(←私が小学校で読み聞かせをしてあげてた子たちなので)
それが小学5年生くらいになると、ほとんどの子がもう、自慢気なことは一切言わなくなります。それどころか褒められても「いえいえいえ・・・」と謙遜を始めるようになります。
おそらく、小学生4~5年生くらいで、多くの子どもたちが、「実るほど頭が下がる稲穂かな」に代表される「日本的美徳」を獲得していくのでしょう。
それが、「当たり前に獲得していくもの」だとは私には思えません。
有形無形の躾、教育、社会化の中で、我々日本人のほとんどは、自らを強くアピールするよりも、控えめに謙遜しつつ生きていくことを良しとするよう仕向けられていくのでしょう。
たとえどんな表彰状をもらったとしても、たとえ3年間皆勤、無遅刻無欠席だとしても、それを誇らず、ひたすら謙遜することだけを学んできた子どもたちに、15歳になったとたん、急に「自分をアピールして!」と言ったとしても、それはひどく難しいのだろうなあとしみじみ思わずにはいられません。
(現実的な話、私にしても、自慢話ばっかりの人が目の前にいたとしたら、限りなく「引き潮」になっちゃいますもんね・・・お友だちになれるかどうか考えちゃう・・・ほほ。)
つくづく思うのですが、私たち大人は、一体彼らに何を期待しているのでしょうね?
内心では、そつなく上手に自己PRできる、「俺が俺が!」「私が私が!」タイプよりも、謙遜と謙虚さを持つ人間に育つよう、彼らに日々さまざまな圧力をかけているというのに、受験や就職活動の時だけ、やたらと自己主張をしろと言う。
そんな小手先の、場面ごとの使い分けだけを器用にこなせる人間を、社会は求めているのでしょうか。
もしも。
もしも彼らに、お友だちでも家族でも、好きな芸能人でも、誰でもいいから、「自分以外の誰か」のことをPRしてください、というテーマで作文を書かせたら、きっと彼らはスラスラと、原稿用紙に何枚もの作文を書くことができるんじゃないだろうかという気がします。
苦労して自己申告書を書いている彼らの背中を見ながら、私の中学時代にはこんな制度がなくて本当によかった・・・と思っていることは、もちろん内緒です。
で。
私がそんな感慨に浸りつつ、彼らに限りない同情を寄せているというのに、作文が完成したとたんにいきなり、
「ウェーイ!イエーイ!ヤッホー!」
になってしまう中学3年生・・・。ついさっきまで原稿用紙の前で「しょぼぼぼぼーん」としていたのがウソのようです。なので、もちろん私も叫びます。
「うるっさいねん!
まだ書いてる子ォがおるやろー!
書き終わった子は遊んでんと、はよ帰りぃ!
考えたら(←考えなくても)あんたら受験生やんかー!
帰って勉強しぃや!!!」
ああ、今年も大変なんだろうなー。やれやれ。
一周回って新しい?本屋さんのカタチ
みなさま、こんばんは。
先日の記事で、中川洋典さんの「ミカちゃんのひだりて」という絵本を紹介させていただきました。
実はこの「ミカちゃん」、モデルさんがいるらしいのです。
しかもそのモデルとなった本物のミカちゃんは、中川さんと同じく絵本作家の「こしだミカ」さんなのですって。
こしだミカさんの作品の中で一番有名なのって、この本かなあ。
2013年の課題図書なので、どこの小学校にもあるんです。
でも、私のお気に入りは「ねぬ」。
マイノリティとして生きること。
自分らしく生きること。
それが意外とむずかしいことを、力強い絵とともに語る力作です。
で、先日、市内のある本屋さんでこしだミカさんの個人展をやってるという話を聞いたので出かけてきました。
住宅街の中、こじんまりとした佇まい。
一見しただけでは本屋さんとは思えない雰囲気です。
本屋さん?古本屋さん?雑貨屋さん?
とっても不思議な感じ。
「海月文庫」さん。
私が訪れた日には、こしだミカさん自ら本を売っていらっしゃいました。
びっくり。
作家さんもいろんな仕事をするんだな・・・。
壁には布地に描かれたエビ。
「布地だったら、長~く描いていられるでしょ、延々と。」
とこしださん。
どれだけ描くのが好きなんだろう、としみじみ。
こしだミカさん作、食器も。これは売り物。
なんかよくわかんない作品も・・・
おもしろいけど、家にあったら「ざわっ」としそう・・・。非売品でした。
お話ししていると、こしだミカさんって、
「ふわわーん、ほわわーん、ぽわわわわ~ん」
とした人でした。
私のようながさつな人間には一生かけても到達できない境地ではありますが、こんなふわふわした雰囲気の女性には限りない憧れを感じます。
それでこんな力強い絵を描ける才能があるんですものねえ・・・天は時に非情なほど不公平です。
もちろん、この日はこしだミカさんの絵本もたくさん販売してました。
私が購入したのはこの本。
「ほな また」
大阪弁で、「それじゃまたね」の意。
夜に訪れると月のマークがほんのりと浮かんで見えるのが「海月文庫」さんの目印。
しょっちゅういろんな作家さんが訪れて、直にお話をうかがえます。
私も長谷川義史さんにお目にかかってサインをもらったことも。
小さくてちょっと「胡散臭い」けれど(←失礼!)、作家さんと読者との距離をうんと縮めてくれる、不思議な空間がそこにはあります。
大阪メトロ「西中島南方」駅、もしくは阪急「南方」駅から徒歩10分、お近くにお寄りの際はぜひ。
話は変わりますけれど。
先の連休中、石川県に遊びに行ってまして・・・帰阪したらカゼをひいてしまいました。
たいしたことはありません。すぐによくなると思います。
で、今日、薬局に市販薬を買いに行って思ったのですが、カゼ薬っていーっぱい、色んなのがありますよねえ・・・。
私がよく購入する市販薬って、「ジキニン」なんですけど、
みなさまのオススメのカゼ薬って、ありますか?
これ、すっごく効くよ!とか、これを飲んだら一発でよくなるよ!とかの情報をお持ちでしたら、ぜひともお知らせいただきたく・・・どうぞよろしくお願いします!