校長先生はえらくない。
相変わらず小学校で「読み聞かせ」のボランティアを続けています。
なので、小学校に(たまに中学校にも)出入りする機会が多いのですが、
今日は、「学校」について、
時々、私が考えていることをお話しさせてください。
学校。
とても不思議な空間です。
ボランティアを始めて、私が一番驚いたのは、
学校という組織が
驚くほどの「横社会」だということです。
どこの学校にも「校長先生」がいます。
私は以前、校長先生というものが、
学校では、ある程度の権限を付与されているものだとばかり思っていました。
でもその認識は違っていました。
たとえば、
何かの話し合いで、
校長先生の許可をもらったとします。
でもそれは、本当の許可ではないのです。
もし、教職員のうち、たった一人でも、
それに対して「NO」と言えば、
校長先生の許可など、
まったく意味を成さなくなります。
日々の連絡事項も、
他の先生には伝わりません。
社会に出たとき、
あれほど口を酸っぱくしてたたき込まれた
「報連相」(報告・連絡・相談)・・・
日本で唯一、通じないのが学校です。
先生同士の間でも、
隣のクラスについて口を挟むのは、
なんとなくタブーの匂いがします。
児童は、許可が無ければ、
隣のクラスの教室に、
入ることすらできないこともあります。
教室とは、担任の先生の牙城であって、
そこに何か問題があっても、
担任の先生が望まない限り、
誰にも手出しできない雰囲気なのです。
察するに、
校長先生は「上司」ではありません。
どちらかといえば、
町内会長や、
商店街の世話役といった感じに近いでしょうか。
(商店街の役員が、
対外的な広報のお仕事はできても、
それぞれの店舗の経営状況にまでは
口出しできないように、
校長先生もまた、
各教室の中には、あまり踏み込めないようなのです。)
なので、時々、
社会的に問題を起こした学校の校長先生の
「謝罪会見」をテレビで見ると、
そのたびに、とても複雑な心境になります。
「きっとこの校長先生も、
この問題、今知ったばかりなんだろなあ。」
と思って。
もちろん、どんな現象にも
一長一短があります。
校長先生の権限を低くすることにも、
それなりな意味があるのでしょう。
強権的な教育への抵抗をしやすくするとか。
しかしながら、
学校現場の現状を見ると、
先生の数だけ、
主義主張や、「能力の差」があって、
それに振り回される校長先生が
疲弊のあまり、思考停止に陥っているように思われます。
・・・「パソコンを使えば手間が省けますよ。」
校長先生「手作業のぬくもりも大切ですから!」
・・・「調べ学習に使う図書って・・・」
校長先生「今どきの調べ学習はパソコンでしますから!」
ひどいダブルスタンダードに見えて、
ある一点において、
校長先生の主義は揺るぎないのです。
その一点とは、すなわち、
「めんどうなことはしたくないねん!」
これにつきます。
世間ではモンスターペアレントの問題が大きくなっています。
もちろん、私も、
の存在は、あってはならないと思います。
しかしながら、
対人関係とは、いつだって
「合わせ鏡」なのです。
どうして今、
モンスターペアレントなんてものが発生するのか、
それを考えると、
学校の「行きすぎた」横並び主義、
それに伴う
各教室、各教員の
「個人主義」に名を借りた
「見てみないふり」
の弊害が大きすぎるのではないかと思います。
学校では、
教育よりも、「事なかれ主義」が大切。
うっすらそう気づいてしまうと、
「声が大きい人」は黙っていません。
今の学校とは、
「言った者勝ち」状態なのです。
そして、一番にそれを許し、
自ら首を絞めているのは、
「学校」そのものなのです。
学校に問題が生じる度に、
制度の疲弊を感じます。
自分たちの学校で起っている問題でも、
「違うクラス」でさえあれば、
シベリアくらいに遠い問題になってしまう。
謝罪会見も校長先生がしてくれる。
日本の学校の教室では、
時に、主役は子どもたちではありません。
担任の先生です。
校長先生はえらくない。
世の中に、校長先生の謝罪会見ほど、
無意味なものって、他にないような気がします。
関係ないのですが・・・。
先日、
ボランティア先で、
初めて子どものケンカに遭遇しました。
全力で止めましたら、
なぜか、ものすごい筋肉痛になりました・・・。
もう若くない・・・。とほほ。
コメントへのお返事が遅くなりそうなのですが、
全身筋肉痛なんだなあ、
とお許しいただけたらうれしいです。
あと、言い訳ですけど、
ムーミンもがんばってます・・・一応。
証拠として、久しぶりのムーミン谷を・・・。
ムーミンパパ「モンペってなに・・・?」
世の中、知らない方が幸せなことも
確かにあります。
ですよね?ふふ。