思い出の校舎

 

今日は古いお話しをひとつ。

私が通っていた高校のことについてお話ししたいと思います。

 

・・・何回も言いますけど、私にだって、一応、女子高生時代ってのがあったんですからね?

ほんとなんですからっ!

 

ついつい、取り乱してしまい、失礼しました…。

 

で、ですね。

 

旧制中学の流れをくむ私の母校の校風は、自由という名の放任主義(体育の授業以外)で、これといった校則もなく、学校からの干渉も少なかったように思います(体育以外はね…)。

 

それなのに、自由とは程遠い感覚が校内に常に蔓延していたのは、

どんな場所にも、どんな時にも、

 

「伝統」

 

なるものが、そこかしこに色濃く息づいていたからだろうと思います。

 

特徴的だったのは、その校舎。

 

1930年に建設された、レンガ造りの校舎は、廊下にも腰高までレンガが配され、

建設当時は全館スチーム入り、当時はさぞかしモダンで最先端の校舎だったと思われます。

 

が、しかし。

 

戦時中の軍部への鉄製品供出のため、スチーム管はすべて引き剥がされ、

結果、冬はとんでもなく寒く、夏は耐えがたい暑さの建物が残ったのでした。

 

上空から見ると、なぜかP字型の校舎は、方向音痴の生徒の方向感覚を狂わせ(←私のことです)、一段一段がやけに高い階段は、高齢で足元のおぼつかない先生方を教室に来るのを阻み、私たちの方が理科の講義室まで出向かなくてはなりませんでした。

昔は当たり前だったのか、教壇は異様に高く、窓の位置も高かったので、校舎内は昼なお暗く、おまけに戦後の学制改革以前は男子中学でしたから、女子トイレが極端に少ない…。

そして米軍グラマン戦闘機の機銃掃射の弾痕が残る壁。

 

要するに、現代建築になれた私たちには驚きと不便がいっぱいに詰まった校舎なのでした。

ですから私たち生徒は、そんな校舎を愛情半分、揶揄半分で、

 

「監獄、牢獄、収容所」

 

なんて呼んでいたものでした。

 

そして、伝統ある学校にはつきものの、悲しい歴史もありました。

 

第2次世界大戦中、大阪には大規模な空襲が何度も繰り返されたわけですが、

当時の生徒には、空襲から「学び舎を守る」ための「当直当番」の制度があったようで、学校を防衛中の生徒が2名、焼夷弾の直撃を受けて亡くなりました。

 

学校には、その生徒さん2名のための石碑が建てられていて、

石碑の裏には、各々のご遺族、お母さまとお姉さまだったかな、それぞれの言葉が寄せられていました。

 

校庭の隅にひっそりと建てられたその碑の裏側を、私が読んだのは在校中の一度だけです。

特にお母さまから寄せられた言葉があまりにも悲しかったので、私は二度と、その碑に近づくことはしませんでした。

 

なので、ものすごくうろ覚えなのですが、確かこんなことが書いてあったように思います。

 

「学校防衛の当番に出かけていくとき、息子は笑いながら、

「当番の人間にはパンやお米が支給されるから、持って帰ってあげるよ」と言いました。

私は、「お腹が空いていては、いざというときにお役に立たない。だから必ずお食べなさい。」と言って見送りました。それが息子との最期になりました。

亡くなった息子のかばんを後で開けてみたら、手つかずのパンとお米が出てきました。」

 

 

このとき、思わず真っ白になった自分の頭の中の感覚を、私は今でもはっきりと覚えています。

 

どうしよう、どうしよう、なんとかしなければ、と切羽詰まったような気持なのに、

「死」というものが、「どうしようもないこと」として、

厳然と、圧倒的な巌のような存在で目の前に立ちふさがって、息もできないような苦しさでした。

 

あの時、私は「とりかえしのつかないこと」の真の意味を、初めて悟ったような気がします。

 

当時の大阪市内の食糧事情からして、亡くなった生徒さんが、平素、空腹が満たされるほどの食事をしていたとは到底考えられません。

旧制中学の生徒といえば、10代半ば。

 

食べ盛りなのに、いつも空腹なのに、眠ることもままならない深夜、配られたパンを家族のために取っておくなんて!

 

わが身に置き換えて考えてみても、自分にそんなことができるような気はとてもしませんでした。

そんな親孝行な生徒さんが冷たいお墓の中にいるのに、

私たちときたら、そんな彼らが命がけで守ろうとした校舎を「監獄」だの「牢獄」だのと呼んでいたのです。

 

どれだけ、ここで、この校舎で勉強し、無事に卒業したかったことだろう。

 

授業開始のチャイムがなる前に教室に帰ろうとする自分のつま先が、校庭の白い砂の上に微かに影を落としていたことまで、よく覚えています。

 

二度とこの校舎を「監獄」とは呼ぶまいと誓ったことも。

 

しかしながら、今、自分が大人になってみますと、

あの石碑の思い出は、また違った悲しみを私にもたらしてやみません。

 

高校生の私は、そんなにも親孝行で立派な少年が、生を全うできなかったことの悲惨さに気をとられていましたが、今は彼のお母さまの悲しみが、胸に迫ってやまないのです。

 

空襲で子をなくした親はそれこそたくさんいたことでしょう。

当時の大阪市内では、いえ日本全国、どこの大都市でも、空襲の被害者の遺体が珍しくはなかった時代です。

 

神戸の地震の時、あるいは東日本大震災のときのように、

この生徒のお母さまも、自分だけが不幸なのではない、皆、等しくなんらかの被害や喪失に耐えているのだと、自分に何度も言い聞かせたことでしょう。

たまたま我が子の当番の日に空襲があったことは、運が悪かったのだと。

 

けれども、同じく強く思ったことでしょう。

 

せっかく食べられるパンがそこにあったのに!って。

 

せめて、ひとくちでも食べさせてやりたかった。

死ぬ前にひとくちだけでも。

 

死ぬ運命が避けられなかったというのであれば、

せめてもの願いとして、

ひもじいままで死なせたくはなかった。

最期に「おいしいね」と満たされた気持ちにさせてやりたかったと。

 

このお母さまが、人生で何度そう思ったことだろう、

何度それを口惜しく思ったことだろうと思うと、

そのことが、私を繰り返し、叩きのめすように、いたたまれない気持ちにさせるのです。

 

安全で、言論の自由が保障されている現代日本にいる私が、

やれ平和だ反戦だと、口幅ったいことは申しますまい。

私だって、当時の日本に生きていたら、いっぱしの軍国少女だったのかもしれないのですから。

それに、今こうしているこの瞬間にも、シリアでは空爆の煙幕になるようにと、子どもたちが命の危険を冒しつつ、古タイヤを燃やしているのですから。

 

ただ、それでも、私の心に引っかかる点をあげるとしたら、

それは、私の母校が、すでにこの世には存在しないということです。

 

もちろん今でも学校自体は存続しています。

しかし、件の校舎は老朽化と耐震能力に不安があるとのことで取り壊されてしまいました。

 

校舎が建て替えられたのは今から10年前ほど前。

終戦から約60年で、取り壊されたことになります。

 

たった60年!

 

命をかけて学び舎を守れと若い命をふたつも犠牲にしながら、

たった60年で、古くなったからとあっさり取り壊してしまう。

 

耐震補強は技術的に難しかったのでしょう。余計にお金がかかったのかもしれません。

 

でも、そこにお金をかけてこそ、先進国の名に恥じないと思う私の感覚は少しおかしいのでしょうか?

若い、若すぎる命を、建造物と引き換えにしておきながら、その建物をたったの60年でさっさと捨て去ってしまう、それがこの国のかたちでしょうか、この国のこたえでしょうか。

 

・・・けれども、そんな私も特段、取り壊しに反対はしませんでした。

 

わからなかったからです。

あの石碑の裏に名前のあった生徒さんのお母さまのお気持ちが。

 

わが子が命がけで守ろうとした校舎がなくなることに反対なのか、

それとも、内心では、

戦時中のこととはいえ、一時は、わが子の命よりも価値の重かった校舎など、

いっそこの世から消えて無くなれと、思っていらっしゃるのかが。

 

これは本当にわからなかった。

考え続けて、今でもわかりません。わかろうはずもありません。

わかってもいけないのです。

こんな悲しい出来事は、二度とあってはいけないのですから。

 

母校の前を通り過ぎるたび、モダンで瀟洒な新校舎が目に入ります。

 

その度に、これは一体なんだろう?と不思議な気持ちになります。

 

私の母校は、もう、どこにもありません。