ふたつ目のクリスマスケーキ
私には「父の思い出」というものがほとんどありません。
幼い頃から、両親の仲は険悪で、ずっと別居しておりましたから、父と暮らした記憶がほとんどないのです。
日本がまだ、右肩上がりの経済成長を、これでもか、というほどの勢いで成し遂げていた時代、多くの男性がそうであったように、私の父もまた家庭を顧みず仕事に没頭し、その上浮気や母に対する暴力もあったため、私が物心ついたときには、両親の仲は冷え切っていました。
子どもというものは、意外とそんな事情をそれとなく感じるものでして、私もひとつ違いの弟も、両親の不仲については誰に説明されなくても感じとっていました。私たち子どもには、それをどうすることもできないのだということも。
なので、たまに父が帰宅しますと、私も弟も、冷え冷えとした剣呑な空気に気づかぬふりで両親の顔色をうかがうことに全力を傾注し、子どもらしい無邪気さを演じることに腐心し、その裏で、私たちが寝入った後で「破滅的な局面」が両親に訪れるのではないかと怯えるあまり寝室にも行けない、となかなかヘビーなことになりまして、父の帰宅は「できればあってほしくないこと」の筆頭に、常に存在しているのでした。
けれども、私たち姉弟にとってはそれが日常であって、とりたててそんな生活を不幸だと感じていたわけではありません。
当時の日本には、そんな家庭が掃いて捨てるほどあったのですし、たとえ寝食を共にせずとも、経済的な困窮をさせないように、最低限の務めを果たしてくれた父には、今でも感謝の気持ちを持っています。
ただ、長じるにつけ、母の気持ちはずいぶん複雑なのだろうという気はしていました。今よりももっと、母子家庭の生活は苦しかった時代です。学歴も資格も、これといったものがない母には、離婚へ踏み切る勇気がなかったのかもしれませんが、宙ぶらりんな生活はさぞかしつらかっただろうと思います。
ですから、後年、父がガンに倒れたとき、母がその看護を「当たり前のように」こなし始めたときには、私たち姉弟は内心、驚かずにはいられませんでした。お互い何も言いませんでしたけれど。
「赦し」であるとか、「水に流す」とか、そういった大げさなものはありませんでした。
ただ日常生活の延長として、父の入院生活を黙って支える母を見て、私と弟もやはりまた、何も言わず母に倣いました。
両親の顔色を見ながら、必死で「なにもわからない子ども」を演じていた頃と同じ熱心さで、私たち姉弟は、「ごく普通の家庭」を父の病室で演じていたような気がします。
今になってふりかえれば、私は父と、そこで初めて長々と話したのであり、通常であれば自宅の居間で刻まれるような父との思い出は、私の場合、すべて病院のリノリウムの床や、ベッドのまわりのクリーム色のカーテンや、看護士さんの声や消毒薬の匂いとセットになって、心の中に織り込まれているのです。
母が父を赦したこと。
なにもなかったかのようにふるまったこと。
そして黙ってなにもかもを水に流したこと。
私も弟も、それに倣って父を父として見送れたこと、父の最後の時間を支えることができたこと。
それは、私たち姉弟にとって、母からの最大の贈り物であったと今ではわかります。
赦しとは、誰のためでもない、自分のためであったと、
赦すことでまた、自分が救われるのだと、数少ない父との思い出を抱きしめながら思います。
幼い頃、父がクリスマスにホールサイズのケーキを持ち帰ったことがありました。
母と私たち姉弟はすでに母が買ってきたケーキを食べ終わった後でしたので、父が買ってきたケーキは、まさに「場の空気を読めないお土産」を絵に描いたようなものでした。
普通の家庭なら、「確認もしないでお父さんったら!」と笑い話で済むのでしょうが、当時の私たちには、そのケーキがまた一層の剣呑さを我が家にもたらす「災いの象徴」のように思われたものです。
「これ以上は食べてはいけません」と母に言われて残っているケーキ。そこに新たに出現した父のケーキ・・・父の買ったケーキだって食べなければ父に申し訳ないような、でも父のケーキを食べることで母の気分を損ねては・・・と、幼いながらに気を使って、食べたいとダダをこねるべきなのか、明日食べるね!と父に言うべきなのか、ずいぶん迷った記憶があります。
記憶の中で食卓の上にのっているケーキは、私の視線の上にあります。たぶん小学校に入学する前のことでしょう。
クリスマスに我が子にケーキを買ってくるくらいには、父も私たちのことも愛していたのでしょうが、それにしても、と思うのです。
父はもっと幸せになれたはずなのに、と。
もう少し、若い頃から思慮深ければ。
あるいは人並みの寿命があれば。
病気にかからずとも、母はきっとなし崩し的に父を許したことでしょう。そして私たち姉弟もまた。
誰のためでもない、私たち自身のために。
今年も母が、地元のお店で購入したケーキを食べました。
あのクリスマスの夜、私たちが食べたケーキもこの同じお店のケーキであったのだろうと思います。
ただ、父があの日、どこでふたつ目のクリスマスケーキを買ったのかは、今となってはもう、知りようがありません。
そして、父が買ってきたあのふたつ目のケーキの味を、私はどうしても思い出せずにいるのです。