「特別な配慮」という美しい言葉の裏側

昔むかしのお話しになりますが、私が子どもの頃のこと。

 

小学校高学年のある日のことでした。

授業中、同級生のS君が、前の席の女の子の髪を

ハサミでちょきん!

と切ってしまったことがありました。

突然のできごとに、髪を切られた女の子は茫然自失、担任の先生は沸騰したお湯のごとく怒り狂い、教室内は騒然としました。

 

今でも、その日の風景が鮮明に思い出されます。

先生に叱られているS君が、どうにも困ったような淡い笑顔をうっすらと顔にはりつけて立っている姿。

笑っていたのは、きっと叱られて泣き出しそうなのを気取られまいとする、精一杯の虚勢だったのだと思います。

ふてくされているようには見えませんでした。

むしろ、自分でもどうしてそんなことをしてしまったのかさっぱりわけがわからない、とでも言いたげな、困惑しきった表情でした。

 

学業のふるわない、落ち着きのない子でした。

想像ですが、きっと授業についていけず、退屈のあまり机の上でハサミをもて遊んでいたのでしょう。目に入ったものがたまたま前の席の女子児童の髪の毛だっただけで、切るものはなんでもよかったのではないかと思います。

 

今の時代なら、きっといろんな名前がつくのでしょう。

学習障害とか、発達障害とか。あれこれ。

でも、当時はそんな名前は誰も知らなかったし、意識の端に登ることもありませんでした。

S君は、髪を切られた女の子の許しを得ましたが、まわりから同情されるほどの厳しい叱責を受けました。

 

けれども今になって思えば、先生が同級生の前でS君をギチギチに叱りつけたことは、彼を守る意味合いもあったのかもしれません。

先生があまりにも簡単に彼を許してしまっては、髪を切られた子に同情する女の子たちの非難は、その後もずっと彼について回ったことでしょう。

誰にも否定できない正義をふりかざして誰かを追い詰めるのは、「集団になった」幼い女の子たちの常套手段ですものね。だから、

「あれだけ叱られたんだしね・・・」

というクラス内の共通の認識は、そんな集団的非難の発生を予防し、結果としてS君のそれからの学校生活を穏当なものにしたのではないかと思います。

 

で、翻って、現在の学校の中を見てみますと。

 

S君のような児童がいっぱい。

 

気に入らないことがあると、教室内でも廊下でも大の字に寝そべって、絶対に動かない、くらいならかわいいもので。

 

教室から出て行ってしまう

学校からもいつの間にか消えてしまう

徒歩7分の登校中にいなくなる

授業にまったく、全然、さっぱりついていけない

授業を妨害する

同級生・先生に「かなりな」暴力をふるう

暴力をとがめられると、他の児童の持ち物を破壊する・窓から放り投げる

家庭科室から刃物を持ち出し、同級生を刺す(←幸い軽症だったもよう)

 

というようなことが、散発的に発生しております。

念のため申し上げておきますが、上記の例はひとりのお子さんのことではありません。過去、約10年の間に見聞きした例であって、全部違うお子さんです。ひとつの学校の同じ学年にこんな問題行動を起こすお子さんが、同時にかたまって存在するわけでもありません。

ただ、どの学校、どの学年にも「決定的に学業に向かないお子さん」は必ず複数いる印象は受けます。

 

こういった問題行動が、発達障害によるものなのか、それとも養育・家庭環境によるものなのか、それは誰にもわかりません。わかっていたとしても公表もカミングアウトもされません。

なので、そのようなお子さんたちは、たいていの場合、十把一絡げに「特別な配慮を必要とする児童」という名称でカテゴライズされて、学校生活の中で

「ちょっと”しんどい”」

と言われていたりするのを見聞きします。

 

「ああ、あのちょっとしんどい子ね」

とか

「あの子はちょっとしんどいからね」

 

なんて感じ。(注:”しんどい”という言葉を使うのは大阪だけかも)

指導をする教師にとって「しんどい」一面と、学校生活についていくのが生徒にとって「しんどい」一面と、その両方を包括する・表現する言葉として「しんどい」というのは、いいか悪いかを抜きにして、非常に的を射た、わかりやすい言葉だろうという感じはします。

 

仮に、誰が見ても明確な知的障害などがある場合なら、校内の特別支援学級などで勉強をすることになるのですが、知的な遅れが見当たらない場合、普通学級で一日を過ごすことになるので、担任の先生の負担は重いものとなります。

また、「特別な配慮」というものが何を指しているのかが曖昧であるために、

 

「きつく叱れない」

「そもそも忙しくてかまいきれない」

 

ことが常態化し、

 

「あの子はしょうがない」

「最悪、他に迷惑をかけるのでなければ、みんなと同じようにできなくても仕方がない」

 

という状態が続いた結果、連日遅刻の上、教室にも入らず授業も受けず、校内をただウロウロと歩き回っているのを見とがめられても、

 

「俺はええねん。」

 

と堂々と言ってのける児童が出現したりします。

読み聞かせのボランティアのあと、校内をうろつきまわっている児童に、

 

「授業始まってるよ?教室に行かなあかんやん」

 

と声をかけると、返ってくる返事は決まって、この

 

「俺はええねん」

 

です。

 

なにがいいんだろう?と不思議でしようがないのですが、この問題で学校側を責めたとしても、返ってくるのは「特別な配慮をしています」という言葉だけだろうと察しはつきます。

「特別な配慮」と聞けば、問題の多いお子さんに対して、格別な指導を行っているように感じるのですが、現状では、「特別な配慮」というのは、悪い意味での「特別扱い」に他ならず、それは指導するのが厄介な子どもたちを「ごまめ扱い」し「放置」しているに過ぎないといっても過言ではありません。(注:「ごまめ」とは、関西弁で「大目に見てもらえる子」の意。年下だったりハンディキャップがあったりして同じ遊びに交じるのが困難であっても特別に参加させてもらっている子のこと。

ちなみにもちろん例外もあります。熱心な指導をしている学校もあります。滅多にないけど。

 

少子化で子どもの数も少なくなっているのだから、一クラスの児童数を大幅に少なくするとか、全学級に副担任を置くなどの工夫があればいいのになーとずっと思っていたら、先日、近隣の小学校から、こんな話が舞い込みました。

 

「学習支援のサポーターとして学校で勤務してもらえませんか?」って。

 

仕事があるので、お引き受けするのは難しいと思って詳しい話しは聞きませんでしたが、仕事の中身は要するに、前述のような「しんどい」お子さんのそばで一日を過ごし、勉強のお手伝いをしたり、事故などを未然に防ぐように見守る、ということのようでした。

 

そのお話しを聞いて、私の胸には、いろんなことが去来しました。

 

まずひとつ目。

「これは前進であり、進歩であることにまちがいはない。」

 

これまで、教室で発生するありとあらゆることは担任の先生ひとりで処理しなくてはならず、結果として学級崩壊などの問題が発生してきたことを思えば、大人の手や目が増えることは、大いに歓迎すべきこと。

学習障害発達障害など、個人の努力ではどうしようもない問題があるとわかってきたのだから、そこに予算と人を配するようになったのは本当に喜ばしいことで、これでもっと落ち着いて学校生活を送れるようになる子どもたちも増えるだろうし、保護者の安心材料も増える、一方で先生方の負担は減る、まずは進歩だと思って歓迎したい。

 

でもふたつ目。

「あまりにも付け焼き刃すぎる。」

 

このサポーターになろうとする人の選考基準が甘すぎるのが気になる。

教員免許などの資格や免許は不要、採用面接も簡易なものって、それは要するに「誰でもいい」ってことなのでは。

そもそも時給が最低賃金とほぼ同額で、これでは優秀な人材を集めるなんてまず不可能。

要するに、「特別な配慮」を必要とする児童を、まじめに指導してもらおうというよりは、せめて「学校から出ていかないように」とか「怪我がないように」見張っててくれたらそれで十分、それ以上はなんにも期待していないと思われる。

 

 

「今のお仕事との両立はむずかしそうなので・・・」

とお断りをしながら、これだけ学校での問題が顕在化しているにもかかわらず、まだまだこの国では子どもの問題に税金と手間をかけることをしないんだなという思いと、それでも少しずつ動きだしているじゃないか、明日は、来年は、10年後は、きっともっと、ずっと、事態は好転しているはずだという思いとが交錯しました。

 

そもそも日本には「飛び級」制度がありません。

それは、10年にひとりの逸材が社会にもたらす恩恵を期待するより、ひとりひとりが最低限の貢献を社会に為すことを期待し、そのための教育システムを構築してきたということでもあります。

これまで、できのいい子、成績のいい子を放っておいても、極力「落ちこぼれ」を少なくすることに腐心する先生の方が多かったことからも、日本の教育の方向性がわかります。

であるならば、ここで、「特別な配慮を要する」とされる子どもたちを、指導が難しいからと言って実質放置しておくなんて、あっていいはずがありません。

直ちに効果が見込めるわけではありませんが、学校と教育にもっと予算を。そして人の手を。

次世代を担う子どもたちの教育の問題に「自己責任」という言葉ほど似合わないものはありません。