出会う前から、夫との共通の記憶。それから地震のこと。

みなさま、こんばんは。

 

ずいぶん前に亡くなりましたが、私の母方の祖母は7人の子どもを産み育てた、典型的な明治の女性でした。

7人!

想像するだけでも「ふらっ」とします。

子どもってひとり育てるだけでも大変なのに。

 

で、夫の母方の祖母もまた、偶然ですが7人の子持ち。

 

なので親戚の集まりなんかに出向きますと、これが結構大変なんです。

だって、「おじおば」、その配偶者がいーっぱい。

似たような顔をしたおじさん、おばさんがうじゃうじゃいて、誰が誰やら。

結婚当初は、その中にいる義母を見分けられなくなって、目が白黒したこともあります。

夫も、私の親族と混ざると、なにがなにやらわからなくなるようで、ただひたすら曖昧な微笑を浮かべて時間が過ぎるのを待つ銅像のようになります。

 

夫の親族と一緒にいると、私はまったく話についていけなくなりますが、逆もまた然り。私も夫も親戚づきあいの際はただただ頷いて、話に混ざっている「ふり」をしています。

 

けれども、ひとつだけ、同じ同じ!と一緒に盛り上がれる話題がありまして。

それが祖父のこと。

 

戦時中、戦傷のために内地に帰還、その後応召されることがなかった夫の祖父は内地で終戦を迎えます。家族と共に戦時中を生きられた夫の祖父は幸運だったと思うのですが、ある日のこと、空襲警報が。

夫の祖母は子どもたちを起こし、乳飲み子を抱え(なにしろ7人!大変!)、慌てて防空壕へ行こうとすると、自分の夫の姿がないことに気づきます。

てっきりご近所、いわゆる隣組というやつですね、その消火活動に参加しに行ったんだろうと思っていたら、

 

先に入ってたんですって。防空壕に。

 

夫の祖母は、現代では考えられないことですが、妾宅へ出かける祖父を、風呂敷に包んだ着替えを持たせて黙って送り出すような人で、女中さんのお腹がどんどん大きくなっても怒りも動じもしなかった人ですが(←後になって女中さんのお腹の子の父親は別人であると発覚して、夫の祖父は「ほら!俺じゃないって言っただろう!」って大騒ぎしたみたいですが、家族みんなに「ああ、はいはい」ってスルーされたらしい。「日頃の行いって大事!」と夫の伯父はうれしそうに笑って言います。)、この時のことは、ずーっと怒り心頭だったようです。

 

で、よく似たことが私の祖父にも。

 

末っ子だった私の母がまだ産まれたばかりのころ。

大阪ではめずらしいことに地震が発生、祖母は大慌てで、まず7人の子どもを逃がそうと必死になっているというのに、

 

祖父はひとりで逃げたんですって。枕だけ持って。

 

この時のことを、祖母はやっぱりずーっと、ずーっと怒っていたようで、

親戚が集まると、必ず誰かがこの話を持ち出して、

「おばあちゃん、怒ってたなあ。」

って笑います。

 

きっと祖母たちは、祖父たちが自分を置いて逃げたとしても、さほど怒らなかったんじゃないかと思います。失望はしたかもしれませんが。

でも、幼い子どもたちを残して自分だけ、すたこらさっさと逃げ出したことだけは、どうしても許すことができなかったのでしょう。

 

晩年、夫の祖母も私の祖母も、祖父の介護と看病に明け暮れる日々でした。

祖母たちの心中は今となっては推し量ることができませんが、

 

「平素役に立たない人間が、いざという時に役に立つわけがなかった!」

 

と言い続けた祖母たちの怒りがそう易々と鎮まっているとも思えません。

 

地震や災害が発生すると、たまに「子どもを救おうとして亡くなった」お父さまのお話が出てきますが、そんな報に接するたびに、私と夫は「なんて痛ましいこと、悲しいこと」と悄然とするとともに、なんとなく目を合わせて、

 

「今ごろ、おばあちゃん、また怒ってるなあ。おじいちゃんのこと。

世の中にはこんなに立派なお父さんもいるのに!って。」

 

って言い合います。

 

同じ年で、出会ってからすでに4半世紀以上、共通の話題が多い私たち夫婦ですが、出会う前からこんな共通項があったんだなあと思うと、しみじみ縁を感じます。

 

「そんなことはおそろいでなくっていいねん!」

 

っていう祖母たちの声が聞こえてくるようでもありますが。ほほ。

 

で、地震といえば。

 

6月18日の地震では、幸い、我が家にはたいした被害はありませんでした。

最初の縦揺れは激烈でしたが、阪神大震災の時よりは揺れている時間も短かったように思います。

あれこれ壊れたり、棚の上から物が落ちたりはしても、阪神大震災の時のようなショックもありませんでした。

「ああ、そりゃ壊れるよねえ。」

という感想は、2度目だからなのか、それとも「娘さえ無事なら、モノなんて別にどうでも。」という気持ちなのか、自分でも判然としません。

 

当日はさすがに、街中、いつもとは違った雰囲気で、

高架の上で止まったままの電車、

そこから下車して線路を歩いて駅に向かう人々、

閉まったままの踏切、

水のペットボトルがなくなったスーパーの棚、

本来なら、それらの写真を撮ってみなさまにご覧いただくのが、ブログをやっている者として当然の行動なのかもしれませんが、私はどうしてもそういう光景に向けてシャッターを押す気持ちにはなれませんでした。

 

今は、高槻や茨木など、影響の大きかった地域が一刻も早く普段の生活に戻れるようにと祈らずにはいられません。

 

また当日、みなさまから、安否を尋ねるあたたかいメッセージをたくさんいただきました。

続く余震に怯えながらも、みなさまからのお言葉に気づくたびに、心の中に恐怖に打ち勝つための支えの杭を打ってもらったような気持ちになりました。

感謝してもしきれません。

終日、バタバタしておりましたので、お返事が遅くなったり、入れ違ってしまった方がいらっしゃるかもしれません。非常時のことと、どうぞご寛恕くださいませ。

 

世の中にはたくさんの人がいて、それぞれに違うことを望み、幸せの種類も不幸の形もたくさんあるのでしょう。

ネットの中ではその違いのあらわれ方も顕著な気がしますが、それなのに、私がこれほどまでやさしく、素敵な方々とばかり出会えているというのは一体どういうことなのでしょう。

じゃんけんは弱いし、宝くじには当たらないし、おみくじでもなかなか大吉をひけないくらい、くじ運のない私ですのに。

 

今回の地震で、我が身の幸せをつくづく感じました。

みなさまに、最大限の感謝を捧げたいと思います。

本当にありがとうございました。