すべてはあの日から始まった。阪神淡路大震災が関西地方に残したもの。

みなさま、こんばんは。

地震のお話が続くことをお許しください。

 

6月18日の大阪北部地震から約半月、やっと地震のことをブログでお話できるくらいまで、気持ちの整理がついてきました。

 

地震ってほんとに怖いですよね。

なにが怖いって、揺れもそうですが、あの音。

地の底から響いてくるような、それでいて頭上から覆いかぶさるような、あの凄まじい音は一体どこからやってくるのでしょう。

阪神淡路大震災の時も、今回の地震でも、同じように響いてきたあの大きな音は、あまりにも大きな恐怖だったのでトラウマになりそうです。

 

そもそも、大阪という土地は、地震が本当に少ない街だったのです。

なにしろ、生まれてから阪神淡路大震災発生までに、私が地震を体感したのは、高校生の頃(←ってことはすんごい昔)にたったの1度、それも震度1の小さなものでした。

阪神淡路大震災までは、例えば家を建てるにしても、地震保険になんて誰も見向きもしないような土地柄だったのです。

思えばどうしてあんなにも無邪気に「大阪は地震とは無縁」と思いこんでいられたのか、甚だ疑問ではありますが、それゆえにこそ、阪神淡路大震災というものが我々関西人に植えつけたショックというのは、計り知れないほど大きなものでした。

 

以来、ずいぶんと関西人の意識も変わりました。

 

まず、個人の住宅から「婚礼たんす」というものが次々と消えていきました。

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こういうやつね。

我が家にもこんなタンスがありましたが、阪神淡路大震災の折には、そのすべてが倒れてしまい、セーターどころか靴下の1枚すら取り出せませんでした。

 

あの日、大阪府下でも約30人の死者が出ましたが、その原因の多くは倒れた家財の下敷きになったことによる圧死が多かったように記憶しています。

我が家も結局、すべてのタンスを処分しました。

今では、こんなタイプのタンスを所持している家庭はめっきり減って、残っているお宅でも、なんらかの転倒防止の策がとられていることが普通になりました。

今回の地震でも本棚の下敷きになって亡くなられた方がいらっしゃいましたが、阪神淡路大震災の後にタンスの処分が進まなければ、自宅内での被害はもっと拡大していただろうと思われます。

食器棚もね、危ないんですよ・・・。

勝手に扉が開いて中の食器が雪崩を打って外に飛び出し、あたりに破片が散乱、怪我のもとになりました。

我が家でも食器棚は処分して、作り付けの食器棚を使っています。

扉も斜め手前に引き出す仕様で、これがなかなか優秀です。

こんな感じ。

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今回の揺れでも、扉は全く開かずに、食器もほどんど無事でした。

 

また、阪神淡路大震災後、住宅の耐震補強には税金から補助が出るようになりましたし、学校の耐震補強も進みました。

 

18日の地震の日、すでに登校していた娘は、自宅よりもずっと震源地に近い学校で地震に遭いましたが、「何が起こっているのか、まったく意味がわからなかった」ほどの衝撃だったのに、一時グラウンドに避難した後に戻った教室は、

「普段とまったく変わらなかった」

そうです。

これは直下型の地震に対しても、日本の耐震補強工事が非常に有用であることの証左だと思います。

 

阪神淡路大震災の教訓は他にもたくさん見受けられました。

 

まず、自衛隊の派遣が早かった!

阪神淡路大震災の時には自衛隊に派遣要請を出すのが遅れて、被害が一層甚大になりましたので、それを思うと隔世の感があります。

自衛隊のみなさんのご尽力には、被災地からも感動と感謝の声が多く上がりました。

 

また、阪神淡路大震災の時には、お役所で働く人のマンパワーが不足してしまい、家屋の危険診断さえなかなかできない状況でしたが、今回の地震では発生から1週間も経たないうちに、すでに1軒ずつの診断が始まっていました。

奈良や兵庫など、近隣府県の役所から支援が入ったからです。

それもまた、阪神淡路大震災の経験から、「次に同じことがあったら」の想定をお役所がしていたからこそでしょう。

 

また、ボランティアセンターが立ち上がるのも迅速でした。

阪神淡路大震災、また東日本大震災を経て、そのあまりに悲惨な被害の記憶が新しすぎて、「これくらいでボランティアさんに来てもらうのは申し訳ない」と遠慮が出てしまったのでしょうか、あまり申し込む人がいなくて、「遠慮せずにボランティアさんにお願いしてください」のチラシが配られていました。それもボランティアに来てくださる方がたくさんいらしたからでしょう。

 

今回、様々なところで、あの阪神淡路大震災の教訓が生かされているのを見ることができたのは、ありとあらゆる組織で、「神戸」をモデルに、被害の想定を何度も繰り返してきたからこそと思います。

 

反対に、まだ改善しなくてはならない課題もありました。

 

まずはもちろん、高槻市の小学校で起こったブロック塀による事故。

 

ひとたび大規模な災害が起これば、人間ひとりの力というのは非力なもので、だから、犠牲者を必ずゼロにすることは、とても難しいことはわかります。

 

でも、今回の事故は防げたはずではないですか?

地震が起こるたび、「ブロック塀は危険です」のアナウンスはしょっちゅうあったし、私も地震の度にそんなニュースを聞きました。

高槻市の職員だけがそれを知らないなんてことがあるでしょうか。

 

もちろん、行政の人間が、個人所有の敷地内にあるブロック塀を高圧的、あるいは強制的に撤去させることは難しいことでしょう。

でも「学校の」ブロック塀ですよ?

他の土地のブロック塀よりも、ずっとずっと撤去しやすかったでしょうに。

 

で、思うのですけど。

 

今ね、公立の学校って、すんごい「貧乏」なんですよ。

どこのお姑さんに管理されているんだろうと思うくらいの節約っぷり。(←ただの比喩です。世の中のお姑さんたちを悪く言うつもりはありません。ほんとにほんと。)

ボランティアで出入りしていても、あまりの「お金のなさ」にちょっとげんなりします。

 

「カラーコピーは高いから、よほどのことじゃないと使えないように、コピー機に鍵かけとこ。」

 

とか。

コピー機に鍵」って。今どきカラーコピーが一体いくらするっていうのでしょう。そこまで管理しないといけないものでしょうか?

 

あと、

「ゴミ箱にはってあるビニールのゴミ袋は何度も再利用するように。」

 

とか。

考えられます?ゴミ袋ですよ。あの45リットルとかの。あれを再利用!

 

そこまで節約しなくてはならないくらい、学校ってお金ないんだ・・・という現実を見てしまうと、費用の安価なブロック塀が喜ばれてきたのもわかりますし、撤去のための費用もなかなか捻出できなかったんだろうなと想像できます。

 

だからこそ、「安全」に関する問題については、1市町村だけでなく、府や国の介入があってもいいのでは、という気がします。

「学校の敷地からはブロック塀の完全撤去を!」くらいのことを文科省に言ってほしい。心からそう思います。予算もつけてあげてください。

 

同時に私を含む、大阪のごく普通の有権者も、そろそろ、「小・中学校の統廃合」を受け入れなければならない時期に来ていると思います。

「離島に存在する唯一の小学校」じゃあるまいし、特に大阪市内では、今ほどの小学校の校数が必要だとはどうしても思えません。

私の自宅からも、徒歩通学が可能な小学校は5~6校。そのうち1学年1クラスしかない小学校は3校もあります。

少子高齢化の波が治まる気配が微塵もしない昨今、今後、児童数が激増することはありません。断言しますがそんな未来はやって来ない。

だとすれば、近隣小学校を統廃合して、学校数を減らす方向に持って行くべきです。

校長先生や教頭先生の人件費が1校分でも浮いたとしたら、その浮いた人件費でどれくらいのブロック塀が撤去できることでしょうか。

近所の小学校が廃校になるかも、の情報が流れてくると、そのたびに反対運動が巻き起こって署名なんかが回ってきます。

その運動をすること自体に反対はしませんが、私は署名しません。

年々先細っていく予算で、どうやって子どもたちの安全を守っていくのか、それを考えると、「なんでもかんでも反対ばかり」では、うまく行くものも行かなくなるんじゃないかなーと愚考しています。

 

改善しなくてはならない問題、その2。

 

今回の地震の発生は月曜日、朝の7時58分。

ほとんどの児童・生徒が登校途中、あるいは登校済みでした。

で、すったもんだの末に、すべての小・中学校で休校が決定しました。

娘の高校も休校になりました。

決定されたのが10時くらい。

 

中学生・高校生に関しては、帰宅を促す、で済んだかもしれませんが、問題は小学生。

余震が続いていましたので保護者のお迎えが必須でした。

で、すでに何とか勤務先に到着していた保護者の多くがまた引き返す羽目になりました。公共交通機関のほとんどが止まっているというのに。

仕方なく、自家用車やタクシーを使う人が多かったと思います。電車が止まっていることもあって、市内の道路は大渋滞、緊急車両の走行に支障が出るほどなのに、休校の決定がさらに渋滞を悪化させることになりました。

前述した通り、学校の耐震補強は優秀です。

下手に動き回って、道路上で余震に巻き込まれたり、渋滞を引き起こしたりするよりは、学校にとどまっていた方がずっとよかったのではないかと思います。

 

私たちは阪神淡路大震災から多くのことを学びました。

「あの時に、これだけの備えができていたなら、あれほどの犠牲者を出さずに済んだのに」という痛切な思いから、永遠に逃れられないほどに、多くのことを学んだのです。

その学びは確かに、今回の地震から、幾人もの人間を救ってくれたに違いありません。

 

けれども、18日の地震は非常に局地的なものでした。

仮に上町断層が動いたら、あるいは南海トラフ地震が発生したら。

どれほどの備えも追いつかないほどの被害が出ることでしょう。

 

私たちはもっともっと賢くならなくてはならないのかもしれません。

気の遠くなるような話ですが、想定されるあらゆる事態への解決策をひとつひとつ、見つけていく。

あきらめずに、対策を続けていくことだけが、不本意にも災害で命を失ってしまった人々への、唯一の供養なのではないかと思うのです。

 

長くなってしまいました。

言いたいことはまだまだたくさん。

 

特に高槻のブロック塀の事故に関しては、歯ぎしりするほどの悔しさで、しばらく冷静にはなれませんでした。(今日のエントリーもちっとも冷静ではありませんが)けれどもやはり地震のことは一度は書いておかなければ、と思いました。

最後まで読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。