30周年・なにわ淀川花火大会
先日、8月4日のことになりますが、大阪では30回目の淀川花火大会が催されました。
もう30回目なのかあ、という感慨があります。
初回大会は平成元年。
私はまだ大学生で、母とふたりで自宅近くの河川敷から花火を見たのでした。
初回ですからね、「淀川花火大会」なんてまだだ~れも知らなくて、河川敷はひっそりガラガラ、一軒の夜店もなく、打ち上げられる花火もほんのちょっぴりで、PLの花火大会や天神祭に比べると、
「しょぼっ!」
っていう感想しか出ませんでした。
おまけに、いつの時代も若い人というのはついつい羽目をはずしてしまいがちなもののようで、「花火大会に合わせて花火をしよう!」と思い立った若者グループが(←今なら「リア充」なんて言われるんでしょうね)河川敷で手持ちタイプの花火をしまくってボヤを出し、消防車が出動する騒ぎになりました。
河川敷にサイレンを鳴らしながら突入してくる消防車を見て、母とふたり、
「どっから入ったんかなー」
「川の水で消火するんかなー」
などと話したのを覚えています。
今では想像もつきません。
淀川花火大会に近年、来場したことがある方なら、きっと不思議でたまらないことでしょう。
一体全体、どこで手持ち花火をするスペースが?って。
花火大会の日の河川敷に消防車が入る余地があるのか?って。
確かに今の淀川花火大会ではそんな余裕はありません。
ほら。
人でびっしり・・・
なにしろ50万人を超える人出なんだとか。
あまりにもすごい混雑なので、最近はごくごく近所なのに、あまり出かける気になれませんでした。
でも今年は河川敷近くに住んでいる友人が「うちのベランダから見よう」と誘ってくれたので、大喜びで出かけてきました。
午後6時。対岸に梅田の街とスカイビルが見えます。
花火の開始にはまだ1時間半以上。外で場所取りをしている人たちが熱中症にならないか気になるところ。
完全に陽が落ちました。
東京に行ったときも思いましたが、都会は夜にこそ美しくなるなあと感じます。
こうして見ると大阪の夜もそれほど悪くはありません。私の写真はボケボケですが。
7時40分。始まりました。
初回からずっと、市民のボランティアによる「手作り」で運営されてきたこの「なにわ淀川花火大会」。
これまで度々、ゴミや騒音、警備や渋滞などの問題をめぐって、「中止」や「廃止」の議論が巻き起こってきました。
正直、よくぞ30年も続いたなあ、という感慨があります。
写真が下手。
たくさん撮ったのに爆発写真ばっかり。
そういえば、横チンさん、お元気かな・・・(←なぜそこで思い出す・・・?)
対岸のビル群のガラスが鏡の役目を果たし、打ち上がる花火が開くたびに、目の高さにもきらめきを感じました。
真上に打ち上げられた花火は空中で次々と消えていくのに、低い位置で開いた花火は盛んに燃えたまま、水の中に消えていきます。
思えば花火大会って春の桜に似ています。
毎年、同じ時期にあって、去年の今ごろは、と考えるところ。
いつも同じように見えて、少しずつ違っているところ。
来年は、と考えて、一年の無事を祈るところ。
一度だけ、対岸で見上げた花火。
あれは済生会病院の駐車場で、父の背中の後ろで見たのでした。
父の人生で、最後の花火になると、誰もがわかっていました。
父自身も。
あの年の桜も、自分にとっては最後だと、父はわかっていたことでしょう。
10時まで友人の家に待機させてもらったのに、帰路、十三駅までの道は人であふれかえり、まっすぐ歩けない状態でした。
私の前には若いお父さんに連れられた小さな女の子が歩いていました。
たくさんおはしょりをした浴衣に、金魚の尾びれのような赤い兵児帯。
彼女が歩くたびにその兵児帯が揺れました。
私は父に連れられてこんな風に歩いた記憶はありませんし、そういえば、父と花火を見たのも、あれが最初で最後だったのだと気づいて、その縁の薄さにあらためて驚きつつ、父に向かって心の中で、
「おおむね自業自得だけど、それでも損したねえ。」
とつぶやきました。
強がりで、素直でない人だったので、私がそんなことを言ったら、反射的に「そんなことないっ!」と強弁しただろうと思いますが。
毎年めぐってくる季節ごとの行事には、生きている人も死んでいる人も参加している気がします。
「平成の」淀川花火大会も今年でおしまい。
来年の花火大会に、私は誰を思い、何を感じ、どんなことを考えるのでしょう。
今はまだ想像もできませんが、忘れるとうるさそうなので、父のこともちゃんと思い出してあげようと思います。
どうせあちらの世界でも酔っぱらって騒いでいるんだろうと思うのですが。
死んだ人にはかないませんね。