子どもの泣き声がうるさいと聞いて思うこと。(子育ての思い出・5)

みなさま、こんばんは。

 

我が家の娘も高校生になって、毎日電車通学をしています。

「ひとりで電車に乗って学校へ行く。」

それは至極当たり前のことなんですが、朝、子どもを見送るたびに「大きくなったなあ」としみじみします。

逆に、私がひとりで電車に乗る時には、戸惑いというか、何か忘れ物をしているような気持ちになります。

そして、「ああ、もう娘の手を引く必要はないんだ。」と自分に言い聞かせます。

 

と言っても、娘が小さかった頃の私は、電車に乗るということがほとんどありませんでした。

「もしもぐずってしまったら。」

「走行中に泣きだしてしまったら。」

そう思うと、お出かけ自体が恐ろしくて、万やむを得ず電車に乗らなくてはならない時には、

通勤ラッシュ時を避け、

すぐに降車できるよう、急行電車を避けて各駅停車の普通電車を使い、

車内に他の乗客がいなくて、ガラガラの状態であってもバギーをたたみ、

娘を膝の上に抱っこして、一番端っこの席で小さくなっていたものでした。

 

今思うと、私は一体何と闘っていたんだろうと不思議でたまりません・・・というのも、娘はかなり大人しいタイプの子どもで、電車内で騒いだり泣いたり、なんてことは全くしなかったからです。

それでも、「小さい子どもの泣き声は迷惑」「バギーが邪魔」「子どもをあやさない親も迷惑」という世間の声に敏感になっていた私は、どれだけ気を使っても度が過ぎるということはないと思っていたのでしょう。

 

なので娘が幼稚園に通い出し、「言い聞かせたことが十分にわかる年齢」になった頃には、電車に乗る際の気持ちが一気に楽になりました。

 

「静かにね。」

「座席がない時に「座りたい」と言ってはいけません。」

「じっとしていなさい。うろちょろしてはいけません。」

 

そう「言うだけでいい」のです、娘はその言いつけをきちんと守ることができる、おまけにバギーももう必要ない。

なんて楽になったんだろう!

感動さえしました。

 

で、ある週末の午後、私は娘と二人、電車に乗っていたのです。

立っている人はいないけれども、座席はほぼ埋まっているくらいの混み具合。

私たち親子の隣には、赤ちゃんを連れた若いお母さんが座っていて、しばらくすると赤ちゃんが泣き始めました。

 

お母さんは赤ちゃんをあやしていましたがなかなか泣き止まなくて、大変だなあと思っていたら、娘が私にぴたっとひっつき、小さい声で言ったのです。

 

「赤ちゃん、泣いてるね。」

 

って。

 

瞬間。

私は恐怖で震え上がりました。

大げさでもなんでもなく、本当に、心の中で「ひぃぃぃぃぃっ!」って悲鳴を上げました。

 

だってだって、私、娘にひとことも言ってなかったんですよ、

 

「泣いている赤ちゃんがいても、うるさいって言ってはいけません。」

 

って。

私が娘に与えた「電車内での注意事項」は、「静かに」「おとなしく」そして「周囲に迷惑をかけてはいけない」ということばかり。

逆に、「周囲から迷惑をかけられた時はどうするべきか」ということは、すっぽりと抜け落ちていたのです。想定の範囲外だったのです。

だって、赤ちゃんや小さな子どもというのは、「迷惑をかける側」だと言われていたから。そんな世間の声に、1年365日、ずーっとびくびくし通しだったから。

 

私の頭の中は真っ白な状態になってしまい、

「う、うん?そうやね。」

と返すので精一杯、娘の声は隣の席のお母さんの耳にも届いていたのでしょう、ぴくりと、こちらに耳をそばだてているのが感じられました。

 

そうしたら、次の瞬間、娘が言いました。

 

「赤ちゃん、かわいいね!」

 

って。

 

私も隣のお母さんも心の中で「ふうぅ・・・」と安堵のため息をついたことは言うまでもありません。

 

よ、よかった、「かわいい」で・・・「うるさい」とか言い出さなくて、ほんとによかったー!

 

と、ただただほっとしている私に、娘が続けて言った言葉がすごかった。

 

「私が小さい時も泣いてた?」

 

私はびっくりして娘の顔を見下ろしました。

我が子ながら、なんて時宜を得たことを言える子なんだろう!って。

まだあまりにも小さい娘。

もちろん「空気を読んで」言ったことではないでしょうけれど、今この瞬間、この場所に、これほど必要かつふさわしい質問が他にあるでしょうか?

 

なので、私も大人として、正しく空気を読まねば!と思って、少し大きめの声で応えました。

 

「泣いてたよ!赤ちゃんはね、みーんな泣くもんなんよ。」

 

って。

もちろん、これにはちょっとだけウソが含まれています。

だって娘は電車の中では一度たりとも泣いたことがないのですから。

でも、隣に座っている若いお母さんの気持ちを軽くするための、こんなささやかなウソなら、この世に存在してもいいではありませんか。

 

 

「泣いてたよ。」

と私に言われた娘は、ちょっと照れて恥ずかしそうに「えへへ~」と笑っていましたが、

「ほぎゃあ、ほぎゃあ、って泣いてる、かわいいなあ。」

と言いながら、するするっと隣の親子に身を寄せたかと思うと、

「こんにちはー。」

と赤ちゃんに声をかけました。

 

私ねえ。

 

「声かけたでっ?!」

 

って仰天しました。

だって、電車の中で知らない人に声をかけるなんて、大阪のおばちゃんにとってすら結構ハードル高めの行為なんですよ・・・。

まさかいきなり自分の子どもが知らない赤ちゃんに声をかけるなんて思いもしなかったので、呆然としました。

 

突然の闖入者に驚いたのは赤ちゃんも同じだったようで、わんわん泣いていた赤ちゃんが、一瞬「ひくっ」っと泣き止みました。

 

「どうしたん?悲しいのん?」

 

と話しかける娘・・・いや、どうだろう、それ、通じるかなあ?と私が思っていると、赤ちゃんの方もちょっと悩んじゃったのでしょうね、「うぅ」って泣くのを再開しようとして、でもやっぱり娘のことが気になるし・・・と、泣こうか笑おうかを迷ってしばらく百面相の様相でしたが、結局好奇心の方が勝ったのでしょう、娘の顔をじっと見て、笑ってくれました。

 

娘と赤ちゃんの様子を見て、私と隣のお母さんも世間話を始めるくらいの余裕ができました。

「かわいいですね」

「何か月ですか?」

「女の子?まあ、男の子ですか!」

そんな他愛のない、でも「意味の通じる」会話が、子育て中のお母さんにとってはストレス解消になることを私も十分に経験していたので、この会話もそのお母さんにとって、いつかの幸せな記憶になることを願いつつ、話し続けました。

 

途中、赤ちゃんが娘のおさげ髪をむんず、と掴んでぎゅーっと引っ張った時には、ふたりで「あわわわわ」と大慌てしましたが、娘が「だいじょうぶです」「痛くないです」と言って、代わりに自分の指を赤ちゃんに差し出し、それを赤ちゃんが握った時なんかも、しみじみとあたたかな気持ちになりました。

 

私たちよりも先に電車から降りたその赤ちゃんとお母さんを見送った後、私がどれほど幸福だったか、どんなに娘を誇らしく思ったか、みなさまにわかっていただけるでしょうか。

 

「見た?見た見た見た?うちの子、めっちゃやさしい!こんないい子っている?見たことある?」

 

って世界中に言って歩きたい気持ち。

いや、もちろん、子どもの自慢話ほどつまらないものはありませんから、誰にも言ってませんよ?今、初めて言うんですからね?

 

でも、「ちっともやさしくない」私に、こんなにもやさしい子どもが授かったことがうれしくて、本当に本当にうれしくて、私は娘の肩を抱き寄せて、一生、今日のことは忘れないだろうと思いました。

 

最近も、子どもの泣き声がうるさいとか迷惑だとかいう話題をよく見かけます。

少子化でどんどん子どもの数が減っていますから、どうしても子どもの所業には注目が集まってしまうのかもしれません。私と同じくらいの年齢の人ならば、「昔はどこへ行っても子どもだらけで、今よりもっともっとうるさかったよ・・・」と言うと思うのですが、そういう記憶も薄れて来つつあるのでしょう。

 

私にしても、娘がもう大きいですから、SNSなどで「うるさい」「迷惑」なんて言葉が並んでいるのを見ても、正直、

「いろんな人がいるな」

という感想しか持ちません。

だって、そういう主張をしている人は私の子じゃないですからね・・・他人なんだもの、誰が何を言っていたとしても、「ふーん」としか思いません。

 

でも。

仮に、もしも、もしもですよ?

そんな主張をしているのが、私の娘だったとしたら。

 

それはイヤです。

ショックです。

到底受け入れられません。

 

きっと私は膝から崩れ落ちるほどの悲しみの中で思うでしょう。

 

「小さい頃はあんなにやさしくていい子だったのに、一体いつからこんなに冷たく、思いやりのない子になってしまったんだろう。私の育児の何がいけなかったのか。今から躾のやり直しが可能だろうか、間に合うだろうか。」

 

そして、それでも、我が子のこととなれば、愚かにも、なんらかの言い訳を考えてしまうのでしょう。

 

「すれ違っただけの親子連れに、そんなに冷たい目を向けてしまうほど、ストレスの多い生活をしているのだろうか、何かつらい悩みを抱えているのではないだろうか、今現在、娘はとても不幸なのではないだろうか、だから気持ちに余裕がないのではないだろうか。」

 

そこまで考えて、私はまた、「娘がここまで大きくなってしまっては、親としては娘にしてやれることがほとんど残っていない」ことに気づいて、一層悲しみを深くするのでしょう。

 

「小さい頃なら、全力で守ってあげられたのに、もう、娘の人生に親が介入できる隙なんてほとんどない。娘の好物を食卓に並べる以外に、一体なにができるというんだろう。」

 

そう考えて、お布団の中で、しくしくめそめそさめざめと泣くのでしょう。

きっとそれくらいショックを受けるだろうと思います。

 

それでも、やっぱり黙ってはいられなくて、

「何かつらいことがあって、誰かに当たり散らしたくなったとしたら、ママに当たりなさい。どれほど不平不満があったとしても、世間様に当たり散らすんじゃありません。」

くらいのことは言うかもしれません。

 

親というものは、いつの時代も切ないものです。

できることはどんどん少なくなっていくのに、子どもを思って心配する心だけは、決して小さくなっていかないのですから。

 

今ふりかえってみても、育児をしている間の私は、あまりにも戦々恐々として、びくびくと気を使ってばかりいました。

だからと言って、私は今の若いお母さんたちに対して、同じように気を使い、縮こまって、小さくなっていなさい、なんて露ほども思いません。小指の爪の先ほども思いません。

むしろ、できることならば、もっとリラックスして、育児生活を楽しんでほしいと思っています。

 

けれども、もしも聞いてくださる気があれば、ひとつだけお願いしたいことがあるのです。

 

それは、「どうぞ、お子さんを、自分よりも弱い立場の人にやさしくできる人に育ててください」ってこと。

 

それは「泣かせるな」ということよりも、きっとずっと難しいことです。

でも、人に対して寛容な社会が到来すれば、子どもたちももっと生きやすく、幸せになれる確率が高くなりそうな気がするではありませんか。

 

私も再度、娘に言い聞かせたいと思います。

 

小さい人にはやさしく。困っている人がいれば、できれば手を差し伸べて。

もしも気持ちに余裕がなくてどうしようもなく迷惑に感じてしまう時も、決して顔に出してはいけません。って。

 

きっと娘は「わかってる」と言うことでしょう。

ちょっと生意気に。ぶっきらぼうに。

 

でも、私は娘がそれをきちんと守ることを知っています。

自分よりも弱い立場の人にやさしくできる、娘がそんな得難い美質を持っていてくれることが私の自慢で、だから娘はとても親孝行な子だと思っています。

(ちょっとはお勉強もしてほしいけど。あ、それと女子力も磨いてほしい。お部屋のお掃除ももっとマメにやってほしいし、彼氏のひとりでも連れてきてほしい・・・とほほ。)

(おまけ。今、この記事の下書きを読んだ娘が叫んでいます。「彼氏おらんくて何が悪いんよー!(大音量)」・・・うるさい。)