メメント・モリ 死を思う絵本。
今週のお題「読書の秋」
みなさま、こんばんは。
ネタが無くて困りまくって、「今週のお題」に乗っかります。
実は以前、ブロ友さんから「未就学児の子どもが「死」をコワがるので、いい絵本はないだろうか」と聞かれたことがあります。
難しいですよね。「死」を考える絵本。子どもに向けて説明するとなれば、ますます難しい。
だって、「死んだことがある」人間なんて、この世に存在しませんもの。
それから絵本を読むたびに、紹介したものよりも、もっと最適な絵本はないだろうかと考え続けています。
今さら「こんな本はどうだろう」なんて連絡するのも気が引けるので(←子どもさんの関心も、他に移ってるかもしれないし)、こちらで紹介させてください。
最近更新がないようですが、ブロ友さんの目にも留まりますように。
1.「ぼくはねこのバーニーがだいすきだった」ジュディス・ボースト著 偕成社
かわいがっていた猫を亡くした男の子。
彼はどうしても飼い猫の死を受け入れることができません。
そんな男の子にお父さんは・・・
「死」をテーマにした絵本には犬や猫が多く登場します。
小さな子どもたちにとって、飼い犬や飼い猫の死は、身近な、そして人生最初の「死」として、共感を得やすいものだからでしょう。
ハンス・ウィルヘルムの「ずーっとずっとだいすきだよ」とか
マーガレット・ワイルドの「さよならをいえるまで」
など、このタイプの絵本には名作が多く存在します。
でもその中で1冊だけ、と言われたら、私はこの「ぼくはねこのバーニーがだいすきだった」を推したい。
にわかには「天国」を信じられなくて、飼い猫の喪失に耐えがたい苦痛を感じる男の子。
お父さんは猫の行先については「わからない」と言いつつも、猫を埋めた土に花の種を蒔くのです。
わからないことを、適当な言葉で濁したり、宗教的な常套句でごまかしたりせずに、男の子の悲しみにまっすぐ向き合うお父さんの姿がとても印象的です。
死んでしまった猫が新しい命を育む手伝いをすることに気づいた男の子は、物語の終わりに言います。
「小さな猫のわりに、たいしたことなんだよ。」
深い痛みをもたらす喪失が、新しい生命を育むこと。
ただ喪われるだけではない、目をこらし、耳をすませば新しい命を見い出せるかもしれないこと。
それが何よりのなぐさめになること。
小さい人の悲しみにきちんと寄り添う絵本です。
ある日、かないくんが学校を休んだ。
かないくんは親友じゃない。普通のともだち。
日常に訪れた、初めての「死」。
幼い子どもたちには少し難解かもしれません。
大人にとっても。
昨日から続く、「今日」という日。
でも、その連続性はひとつの「死」を通すことによって、あっけなく崩れ去ってしまいます。
同級生がいなくなっても続く日常の生活。
でもそれが昨日までと全く同じ日であるはずはないではありませんか。
作者、谷川俊太郎は詩人の心でその途切れた連続性を感じとったに違いありません。
誰かの死で終わる世界、そして悼む世界の始まり。
途切れたかに見えた連続性は、でもきっとつながっていて、だから私たちに記憶という力がある限り、「死」は終わりではないのでしょう。
余白の白さが雄弁な、「とてつもない」絵本です。
3.「およぐひと」長谷川集平著 解放出版社
特段の説明があるわけではありませんが、明らかに東日本大震災を題材にした絵本です。
スーツ姿のまま泳ぎ続ける人。
自宅に帰らなければ、と泳ぎ続けて消えました。
赤ちゃんを抱いて電車に乗る若いお母さん。
どこか遠くへ、ここではないどこかへ逃げなければと言いながら、消えました。
「あそこでなにがあったのか」
と聞かれて、主人公は答えることができません。
「まだ、ことばにできそうにない」
そう応える主人公の言葉にこそ、真実があるように思えました。
私たち人間の心は、あのような惨禍を、あれほどの死を、饒舌に語るようにはできていないのでしょう。
ページを行きつ戻りつするうちに、苦しくなってしまう本です。
震災関連の絵本の中では、一番心を動かされました。
感動して、というよりも、動揺したのです。
手元に置いておくのはひどくつらい。
でも、一度は読んでおきたい1冊です。
この絵本は、まず始まりのフレーズがインパクト大。
「ぼく、チャーちゃん。はっきり言って、いま死んでます。」
で、思わず前のめり。
「動」からもっともかけはなれているはずの「死」が、猫のチャーちゃんの世界では大逆転、こんなにも軽やかで躍動感のある「死」は見たことがありません。
飛んで跳ねて駆けて踊って、でも空腹も「生死」の違いもわからない世界。
「死んでも生きてもぼくはぼく」
そう語るチャーちゃんのあっけらかんとした様子に、「猫だなー」としみじみします。
昔一緒に暮らしたニャンコも、今はチャーちゃんと一緒に軽やかに踊っているでしょうか。そうだったらいいのに、と願わずにはいられない絵本です。
「はっきり言って、いま死んでます。てか踊ってます。」
「死」を描く場合、残された者の悲しみにスポットが当たりがちな絵本の世界において、めずらしく「あちら側」の世界を描き出した1冊。
それがこんなにも明るくあっけらかんとした世界であることが、旅立った猫からの、何よりのなぐさめとやさしい贈り物だという気がします。
5.「死」谷川俊太郎著 大月書店
おじいちゃんが死んだ。でも、いなくなった気がしない。「死」ってなんだろう、死ぬと、どうなっちゃうの?
谷川俊太郎再び。
おじいちゃんを亡くした女の子の目を通して「死」を考えます。
両親との会話で垣間見える少女の、死に関する疑問点の鋭さには、はっとさせられる一面があります。
「「天国に行ったのよ」とお母さんは言う、なんかうそくさい。」
「ロケットで空をどこまでも上っていっても、星がいっぱいあるだけだと思う。」
そうだよねえ・・・共感。
でも。
目に見えない、手で触れないものであっても、「ない」とは限らない。
重力だって電波だって、目に見えないけれど、それが「ある」って私たちは知っている。
「カラダは物質だけど、タマシイはエネルギーなんだ」
答のない問題に、それでもなんらかの解を求めてしまう、生きている人間の健やかな疑問。
この絵本のラストには希望があります。
涙でにじむ目で見上げても、そこに星の瞬きを感じるように、私たちは悲しみの中にあっても、また踏み出せる、そう感じさせる力強さがあります。
わからないことを、「わからない」というひとことで終わらせることなく、考え続けていくことが、人間の人間である所以なのだろうと思わせる絵本です。
ところで。
どれほどたくさんの「死」についての本を読んだとしても、それでなにがしかの「覚悟」のようなものができるとは、私には到底思えません。
想像力を持って生まれて来ながら、普段は自らの「死」について、棚上げしつつ生きることができる私たち。
「死」を遠く離れたところに置いて日常を生きることができるのは、ある意味幸せなことなのでしょう。
私にしても、いざ眼前に自らの死が迫れば、きっとジタバタすることでしょう。
後悔と未練、後ろ髪を引かれる思いに翻弄されて、とても穏やかにかつ毅然と運命を受け入れられるとは思えません。
具体的で、鮮明な「死」が、もしも身近に迫ったとしたら、「死」についての絵本なんて、とても読めそうにはありません。きっと「死」を連想させるすべての言葉を避け続けるだろうと思います。
けれども、「死」について書かれたいろんな物語は、きっと私の中に、なにがしかのなぐさめや勇気、心のよりどころを提供してくれるのではないか、という気はします。
だから「死を思う」のは、元気なうちがいいのでしょう。
おまけ。
もちろん、他にもたくさんの絵本があります。
「わすれられないおくりもの」(スーザン・バーレイ著 評論社)
亡くなった人は誰かの心の中にちゃんと生きている。受け継がれる記憶と思い出が宝物であることを感じます。
「いつでも会える」(菊田まり子著 学研プラス)
大好きな飼い主・みきちゃんを亡くした犬のシロのお話。泣きます。
「あの夏」(ガブリエル・バンサン著 BL出版)
大切な人が逝ってしまうことを予感させる夏。そのことに向き合うことの難しさと切なさを描く。
残される側の悲しさ、寂寥感と焦り。自分の身に引き寄せて考えると、胸がキリキリと痛みます。
「悲しい本」(マイケル・ローゼン著 あかね書房)
失ってはいけないものを失った男の悲しみ。人にとってこれ以上の悲しみはないと断言できます。つらすぎて、私は二度と読みません。
2017年に亡くなった日野原重明先生が102歳で書き下ろした絵本。
おばあちゃんを看取る孫娘の心情が綴られます。
大切に愛された記憶こそが最上の遺産であることをしみじみと感じます。
「ぶたばあちゃん」(マーガレット・ワイルド著 あすなろ書房)
死を予感して支度を始めるおばあちゃんとそれに寄り添う孫娘のかなしみ。
何回読んでも号泣必至。
どの本もオススメです。
本屋さんで見かけられましたら、ぜひ一度読んでみてください。