経理的思考にげんなりした日。

みなさま、こんばんは。

 

今日は前回に引き続き、もうひとつだけ、「時効」かな、ってお話を。

 

ある企業の経理課で働いていた頃。

朝、出社してみたら、社内が騒然としているのです。

みんなバタバタしているし。

走り回ってる人もいるし。

 

フロアの最も奥まったところにある経理課にたどりついた私は、先に出勤していた同僚に何があったのか聞いてみました。

 

そうしたら。

 

「殺人事件があったらしいねん。関東の、○○営業所で。」

 

人間、こういう時って、本当に腑抜けた、マヌケなことしか言えないものですね。

 

私、

 

「え?!うそ?ほんまに?!」

 

って言いましたもん。

我ながらバカみたいなこと言ってるなあ、と思ったのを覚えています。

 

で、私はその場に荷物を放り出し、総務部に向かって駆け出しました。

 

「新聞見せて!」

 

総務で新聞各紙に群がっている一群から一部をひったくって確認すると、三面記事に本当に、事件のことが掲載されていました。

いわゆるベタ記事というやつで、事件については、

 

「借金の返済をめぐってトラブル、返済を促されて殺害、容疑者は自供を始めている模様。」

 

という程度のことしかわかりませんでしたが、社内のウワサが集まってくる総務の女の子たちは嬉々として事件について教えてくれました。

 

「なんか、お金返せなくって殺しちゃったみたいですよ。」

「加害者の方がうちの社員みたいで。」

「500万くらい借金があったって。」

「朝、出勤したら営業所の構内に死体があったんですってー。こわー!」

 

口さがない総務の女の子たちが雀のようにさえずる言葉を耳にしながら、でも私の頭に浮かんでいたのは、

 

「うちの社員が「加害者」で決定か・・・では退職金払い出しの伝票を止めなくては。」

 

という一事だけでした。

 

経理に戻った私は最初に人事部に電話をかけて聞きました。

 

「事件のこと知ってる?あの捕まった人、そっちの担当じゃないよね?」

 

人事はちょっとのんびりした口調で、

 

「ううん、違うで。うちじゃない。現場の作業員やろ。」

 

と返してきました。

逮捕された従業員が経営管理部門の人間でないことを確認した私は次に、現場作業員を統括する労務管理部門に電話をしました。

 

「事件のこと聞いてるよね?そっちの担当でしょ?懲戒解雇、決定?」

 

労務管理担当部門にはちょうど私の同期がいて、彼は人事とは打って変わって深刻そうな声で答えました。

 

「決定やろうなあ。詳しいことはわからんけど、自供してるみたいやし、犯人に間違いないみたいや。」

 

「じゃあ、退職金払い出しの伝票、切らんとあかんねんけど、実際にお金を払うわけにはいかへんのよ。そっちじゃわかんないだろうから、こっちで切っていく。後で伝票を持って行くから、ハンコだけついて経理に回して。伝票切るのに必要やから、逮捕された人の退職給付引当金の額だけ教えて。今すぐ。」

 

「退職給与引当金」とは、従業員の将来の退職に備えて企業が積み立てておくお金のことで、固定負債に区分されます。

従業員が退職する時には、退職金として払い出すのが一般的で、伝票には固定負債の退職給与引当金を借り方に、貸し方に当座預金などを計上します。

 

しかしながら、上記のような事情がある時には、そもそも退職金の払い出しができません。

なぜなら、逮捕された人間は重大な犯罪を犯しており、当然、被害者が存在することが推察されるわけで、容疑者である従業員の退職金も、後々、被害者から借金の返済、あるいは賠償金などの名目で請求されることが想定されるからです。

 

つまり、逮捕された従業員の退職金を受け取る権利は、従業員本人ではなく、すでに被害者、ないし、その遺族の側に移っている可能性があるということです。

 

もしも、事件の発覚がもっと遅く、会社が従業員の犯罪について何も知らない状態であれば、従業員に退職金を支払っても問題にはならないかもしれません。

けれども、従業員は事件発覚後すぐに逮捕され、新聞報道もされ、社内でもこれだけウワサになっているのですから、「知りませんでした」が通用するはずもありません。

「知っていたのに当該容疑者に退職金を支払った」となれば、そこは会社の過失ですから、最悪、遺族側から会社に対し、退職金相当額を支払うことを要求されることも覚悟しなくてはならないのです。

 

誰が退職金を受け取る権利があるのか。

それがいずれはっきりと判明するまでは、会社としては一円たりともその従業員の退職金を、誰に対しても支払うことはできない。

 

それが、経理として、会社に損害を出さないための方策であり、その時私の頭の中にあったのは、その一点だけだったと言って過言ではありません。

 

いつもなら小切手で退職金を支払うのですが、もちろんこの場合、小切手を切るわけにはいきません。

当該従業員は懲戒解雇決定、退職金支払いの伝票はその日付で切らなくてはならないけれども、現預金は一切動かせない。

となると、問題は相手勘定です。

どう考えても期中に片がつくとは考えられなかったので、上司とも相談の上、相手勘定には営業外収益の「前期損益修正益」を計上したように記憶しています。

 

やれやれ、これで大丈夫、うっかり退職金を支払うミスはもう起こらない、と思った私は、労務管理担当部門に向かおうとして、もう一度伝票を見下ろしました。

そして、次の瞬間、思いっきり後頭部を殴られたような気がして、自席にすとん、と座り直してしまいました。

 

なぜなら、その伝票の金額に、あらためて気がついたからです。

 

約「500万円」の伝票に。

 

500万円。

 

総務の女の子たちの声がよみがえってきました。

確か、事件の契機となった借金の額が500万円ではなかったか・・・。

 

私が勤務していた会社の従業員数は、本社が把握・管理しているだけで数千人にのぼりました。

支店や営業所で雇っている期間作業員、パート従業員、アルバイトを含めれば、その数は万に届いたかもしれません。

それだけの従業員がいれば、正直、自分に近い人間以外は限りなく他人です。

生涯一度も会うこともなく、顔も名前も知らず過ごすことになる人の方が圧倒的に多い。

関東僻地の一営業所の、現場作業員となれば、一生接点もないままです。

 

けれども。

伝票をつかんだまま、私はようやく、その逮捕された従業員のことを考えました。

 

この退職金があれば、と。

この500万円の退職金があれば、彼は殺人なんて犯さずに済んだのに。

もちろん、500万円の退職金を積み立てるには、それなりの年月を要します。

高校を卒業後(勤務していた会社の場合、現場作業員はほぼ全員、高卒資格者でした)、彼は一生懸命に働き続けてきたのでしょう。

会社を辞めることは考えられなかったのかもしれない。

けれども、結果として懲戒解雇になってしまったのでは、元も子もないではないか。

どうしてせめて営業所長にでも相談しなかったのか、一度退職したとしても、平素の勤務態度が真面目であれば、再雇用という温情をかけてもらえたかもしれないのに(←無理だったかもしれないけども)。

 

そして被害者のこともようやくにして考えました。

 

500万円。

 

誰かに貸し付けるにはあまりに大きい金額であるような気がしました。

どうしてそんな金額を誰かに貸す気持ちになったのか。どんな事情があったのか。

お金を貸してあげながら、感謝されるどころか、殺されてしまうなんて。

どれほど無念だったことだろうか、と。

 

伝票を持ったまま、私はしばらく自席でぐずぐずしていました。

すぐに立ち上がる気持ちにはなれませんでした。

この時ほど、私は自分という人間に嫌気がさしたことはありません。

 

殺人事件という、人の命に関わる大事件が起きたときに、私の頭にあったのは、

「イレギュラーな事態を会計上適性に処理すること、会社に損失を与えないこと」

それだけでした。

 

もともとあんまりウワサ話が好きではないこともあって、他の部署の同僚たちが、降ってわいた「非日常」にどこか他人事で無責任に騒いでいるのに、混じる気持ちには到底なれませんでした。

けれども、人の命が失われた事実を前に、伝票一枚の切り方について頓着しているよりは、

 

「コワいなあ。」

「500万も貸し借りするって、どういう関係やったんやろ。」

「会社に出てきて死体があったら、トラウマになるわー。」

「人間、10万円あったら揉めるっていうもんねー。」

 

などという話で盛り上がる方が、よほど「人間らしい」というものではありませんか。

あちこちで無責任なウワサ話が飛び交う中、私はひどくきまりが悪いような、自分が人間とは異質な生きものになってしまったような、あるいはとんでもなく冷たい人間だと何かに糾弾されているかのような気持ちになったものでした。

 

経理にいるということは、ひたすら伝票や台帳に向き合うということですが、その数字の羅列の向こう側に、生きた人間の取引を感じ続けることは意外に難しいことです。

数字だけを見ていてはわからないこと、気づけないこと。

ひとつの数字に、その羅列に、人生のすべてを賭けてしまう人間がいるかもしれないこと。

それらを全て忘れてしまった経理は、会社の中で最も「情」のないモンスターになってしまうのでしょう。

 

今でも、あの日のあの伝票を思い出すと、やっぱり身の置き所がないような心持ちになります。

 

そうして、どうも私という人間は、どこか冷たい、欠陥のある人間なのだと、しみじみと痛感するのです。