統一地方選に思ったこと。

みなさま、こんばんは。

統一地方選、終わりましたね。

 

今回の選挙は私にとって、すごく特別な選挙になりました。

なぜなら、今度の選挙、

 

娘にとって初めての選挙だったから。

 

自分の子どもに選挙権!すでに選挙に行ける年齢に!

 

ビビります・・・ああ、私も年をとった・・・。

 

娘が18歳になった昨夏、

「キミ、投票できるようになったよ~、選挙には行ってよね~!」

という手紙がどこかから届いていたのですが(←よく覚えてないけど、おそらくは総務省あたりから。もちろんもうちょっとオフィシャルな文言で)、世間の高校生よりもさらに幼い印象の我が家の娘に、投票なんて大丈夫なのかしらん、と思ったことを覚えています。

 

選挙が近づくにつれ、

 

「どこに(票を)入れたらいいんかなー。むずかしいわー。」

 

なんてセリフが娘から飛び出すようになり、そのたびに、

 

「それは親子であっても意見が違って当たり前。自分の頭で考えなさい。」

 

と返しつつ、こんな会話を交わすようになったことに感慨を覚えずにはいられませんでした。

 

当日は入学したての大学の新歓イベントやらで早朝から出かけた娘。

帰宅後、ひとりで投票に行ったようです。

どの政党、どの候補者に投票したのか、私は知りません。聞いてみてもいません。

 

でも、きちんと投票に行ったことだけは確認しました。

思えば、自分の最初の選挙についてはなにひとつ覚えていませんが、娘が最初に投票した今回の統一地方選だけは、きっといつまでも忘れられない選挙になるのだろうという予感がします。

 

 

で。

大阪の選挙なんですが。

大阪維新の会が圧勝しましたね。意外でもなんでもないけど・・・。

 

 メディアによる報道なんかでは、「大阪ではどうしてこんなに維新が強いのか」という論調をよく見かけますけれど、大阪に住んでいると、やっぱり今度の結果は「当たり前」って感じがします。(←私が維新を支持しているかと言えば、そうとも言えない点もあるけど。)

 

良くも悪くも、やっぱり大阪って、ちょっと特殊なんですよ。

大昔、作家の田辺聖子氏がエッセーで言及していたように、大阪では「官」に対する印象が、他の都道府県とは決定的に違うのです。

 

たとえば、「役人」と言えば、お勉強がよくできて、優秀な人間がなるってイメージがあるじゃないですか。

そういうイメージ、大阪だとちょっと弱くなってしまいます。

むしろ、

 

「ほんまに優秀な人間やったら、なんらかの商いで名を成しているはず。役人なんかやってへんやろ。」

 

ってことになってしまいます。

 

「前例主義」「慣例第一」「悪しき平等主義」・・・「官」や「役人・役所」とは、そういった負のイメージと一体で、だから大阪では行政を見る目が、ついつい、

 

「どうせ大したことはなにひとつできひんやろうけど、せめて商いの邪魔さえせえへんかったらそれでいいねん。(←標準語訳:どのみち大した仕事はできないだろうけど、ビジネスの邪魔さえしないでくれたらそれで御の字)」

 

って感じになるのです。

 

で、結果として、大阪がどんな街になったかというと、逆説的ではありますが、

 

「全国的にもまれなほどの役人天国」。

 

それもむべなるかな、だって誰も役人や公務員の仕事や行動に注意を払ってこなかったんですもの、「見てないところでコソコソ」と、いつの間にやら、公務員の給料にはいろんな名目で手当てがつき、公務員の給与と福利厚生だけはものすごく手厚い状態になっていきました。

 

メディアも、一部の市民団体も時には問題提起していました。

それでも大阪の一般市民の目が、役所や行政に向けられることはありませんでした。

それは大阪に住む人間の心の底にある「役人・公務員を軽んじる」意識がそうさせてきたのでしょう。

そしてそれをいいことに、増長し続けた役人や公務員たち。

 

「景気がいいとか悪いとかってどういうことなん?

ニュース見てたら、”景気悪い、景気悪い”ってよう言うてるけど、全然実感ないし、わからへん。」

 

と市民に言い放つ末端の公務員が実在していたのです。(←本当にいた)

要するに、大阪では市民と官がお互いを小馬鹿にし続けてきた経緯があるのです。

 

そこに登場したのが橋下徹という政治家でした。

 

彼は一体、何をしたのか。

 

私は彼の最大の功績は、徹底して「官」を馬鹿にし、「見るに値しない」と無視し続けてきた大阪の市民に向かって、

 

「こっちを見ろ!」

 

と言い続けたことだと思います。

 

大阪の市民はほとんど初めて、「官」に注目しました。

そして痛感したのです。

「行政」にも「官」にも「監視の目」が必要なんだなって。(←今さらだけど。遅きに失した感、大だけど。)

 

それって、他のどんな功績も吹っ飛ぶくらい、大阪では大きな転換点ではあったわけです。

 

橋下元市長は大阪を去りましたが、大阪維新の会は彼のやり方をよく踏襲しているのだろうと思います。

自民党のように古い地盤や、公明党のように鉄壁の組織票もない維新の会が選挙を勝ち抜くには、一般市民の目と支持だけが頼りなわけで、その視線を外すようなことになれば、彼らはあっという間に失速していくことでしょうから。

 

大阪維新の会が登場してから、大阪はずいぶんと変わりました。

いいことばかりではなかったけれど、ありとあらゆるものが東京に吸い上げられ、その上、海外との激しい競争に、日本自体が勝てない状況ですから、「以前のままの大阪」ならもっと悲惨な状態に陥っていても不思議ではなかった、という感じがします。

それくらい、大阪の行政はひどかったし、議会は無能でした。自分たちの待遇と体面のことしか考えていなかった。

でも今。

とにもかくにも大阪のお役所に行ってみればわかります。

そこで働く人たち。

以前は本当にひどかったものですが、横柄な態度の公務員は激減しましたし、彼らが市民の視線を気にしていることを感じられるようになりました。

 

大阪維新の会が、市民の目を味方につけている限りは、これからも大阪での強さを発揮し続けることでしょう。

 

なので私は大阪維新の会について一定の評価をすることにやぶさかではありません。

しかしながら、それでもひとつだけ、どうしても危惧してしまうことがあるのです。

 

それは彼らの「教育行政」について、です。

 

大阪の教育といえば、全国でも常に低位、問題が多いことは周知の事実です。

でも一方で、大阪の教育界の強みや長所については、ほとんど誰にも知られていません。

 

たとえば「夜間中学」。

様々な事情で中学校教育を受けられなかった人のための夜間中学は、すべての都道府県に設置されているわけではありません。

大阪には存在しますが、近隣府県にはないことも。

大阪の夜間中学は大阪以外に在住している人に対しても、希望があればその門戸を開きつつあります。

教育を受けたいと願う人がいる限り、その気持ちに応えようとする行政の在り様は、大阪がもっと誇っていいことのように思います。点のつけようのない分野ではありますが、そこを強くアピールして、関係者のモチベーションをアップさせることは政治家の大事な仕事ではないでしょうか。

 

それから、「インクルーシブ教育」。

最近、やたらとよく聞くようになった「インクルーシブ教育(障害のある者と障害のない者とが共に学ぶ仕組み)」という言葉ですが、大阪ではそんな言葉が流行る前から、緩やかにインクルーシブ教育が行われてきた経緯があります。

たとえば、障害のあるお子さんが就学年齢に達したら、行政はそのお子さんとご家族に対し、「どこの学校に通いたいですか?」と聞いてきます。そして、その希望に極力沿うように動きだします。

障害の度合いを見て、行政の方から「ここの学校に通うように」というアプローチが取られることは、ほとんどありません。

なので、大阪の小・中学校では、多くの場合、障害のあるお子さんがレアではありません。

むずかしいのは、それがベストの選択かどうか、誰にもわからないということです。

そりゃそうですよね、障害の度合いや程度によって、学校現場には相当な負担になることがありますし、正直、クラスが混乱したり、授業が遅れたりすることも覚悟しなくてはなりません。

けれども、障害のある子も、そうでない子も、「団子になって」「一緒に」育ち、学ぶことは意義あることでもあります。

ひとりひとり違う障害を抱えた同級生。

それは「個性」というものが、本来どういうことなのか、「個性を重んじる」とは、時にひどく厳しいことだということを、幼いうちから学ぶことができるのですから。

 

四肢に障害のあるお子さんがいた場合、そのお子さんの在籍する教室は、ずっと1階にあったことがありました。

補聴器をつけている児童も珍しくありません。

特定の教科のみ、支援学級で授業を受ける児童も、今では当たり前に存在します。

子どもたちは、普通学級と支援学級とを行ったり来たりする同級生をしなやかに受け止めて、それが「普通」だと思っています。

多動や他罰傾向が強い児童がいて、あまりにも授業に差し障りが出た場合、校長先生自ら「抜き取り指導」を行う場合もあります。空き教室などで少人数相手に授業をしたり、「保健室登校」ならぬ「校長室登校」があったり。それも当該児童の自尊心を傷つけないような配慮がなされていて、感心することもよくあります。

 

そのような学校現場が、いわゆる「テストでいい点数を取る」ことに向いているとは思えません。大阪の小・中学校が万年最低クラスに位置するのは、ある意味当然の結果という気がします。

けれども、不思議なことに、大学入試のためのセンター試験の結果を見てみると、大阪の子どもたちが取り立てて成績が悪いという事実はありません。

むしろ、大阪の公立高校は昔からレベルが高いことで定評があり、公立高校から国公立大、あるいは難関私立大学への進学もごくごく普通のことです。

 

けれども、大阪維新の会は、「小・中学校のテストの点数」だけにやたらと注目します。

 

府立高校から難関大学への進学率の高さ、その授業内容のレベルの高さ、そういったものには関心を示さないのに、ひたすら小・中学校のテストの点のみをあげつらうのです。

 

維新の会は本当に大阪の子どもたちの「学力」を心配しているのかな。

私も典型的な大阪人のひとりとして、どうも「政治家」「役人」「官」「公務員」を疑う癖があるようで、彼らが「大阪の子どもたちの学力が~」と言い出すたびに、

 

「これも「こっち見ろ~!」作戦のひとつなのかな。」

 

とか思っちゃうわけです。

 

有権者のほぼ100%が、かつては児童であり生徒であった。学校教育に不満を抱えたまま大人になった人も多いに違いない、だから、こと「教育」に関して言及すれば、関心は高まるであろうし、「教育」について危機感を煽れば、注目も集まるだろう・・・仕事してるアピールができるやん!!という作戦のひとつなのでは・・・と私がつい考えてしまうのは、穿ちすぎなのでしょうか?

 

仮にもしも、私が政治家だったとしましょう。

私なら、大阪の子どもたちの小・中学校での成績が悪いことよりも、もっと違うところに注目するだろうと思います。

 

すなわち、「小・中学校での成績は上位なのに、大学入試センター試験では下位に甘んじてしまう県はどこなのか、それはなぜなのか。」ということです。

もちろん、私は政治家ではありませんから、そういったことに興味があるわけではありません。

正直言って、自分の住む街の子どもたちのテストの点数が高かろうが低かろうが、どうでもいいというのが本音です。

だってそれは私の点数ではないし、私の子どもの点数でもないし。

自分の街の子どもたちの成績の順位に、いちいち一喜一憂する人の、その心の動きがよくわからない、というのが本音です。

 

でも、子どもたちの成績を、子どもたちの未来のためではなく、「政治」のために利用しようとする人がいるのだとしたら、そのことには注意したいし、抵抗もしたいと思います。

 

障害のある子も、ない子も、共に学び、共に成長する。

そんな学校環境を作ろうとして、大阪の先生たちは毎日手探りで、必死にがんばっています。

それはテストの点数には反映されないけれど、そのせいで「評価されない」なんてことがあっていいのでしょうか。

テストの点数を上げるように努めることは、もちろん好ましいことです。大事なことです。

でも、それならば、テストの点数に現れない面も、評価の対象に加えてあげられないものでしょうか。

 

ただ点数を上げればいいという風潮が広がれば、平均点向上に貢献できない児童の「排除」が始まるのかもしれないと思うと、不安になるのです。

 

大阪維新の会がそんな風潮を生み出さないか、これからも注意深く見ていきたいと思います。