京極夏彦「えほん遠野物語 かっぱ」

週末になると我が家では、私か夫のどちらかが図書館に行かなくてはなりません。

借りた本を返しに行ったり、予約しておいた本を取りに行ったり。

 

先の週末は、夫が出かけることになりました。

家中に散らばっている本を集めてリュックに詰めながら、彼が言いました。

 

「帰りに買ってきてほしいもの、ある?」

って。

 

水などの重いもの、トイレットペーパーなどのかさばるもの、そういったものは私の負担にならないように、いつも自分が買ってきてくれようとする夫。

こんな時は、やさしい人だなと認めるのにやぶさかではありません(←しぶしぶ)。

 

で、リュックに詰めた本を背負って、自転車で図書館へと出かけた夫が帰宅した気配がしたので、階下に降りていきますと、なぜか夫の姿がない・・・あれ?と思った私は「パパは?」と聞きました。

 

そしたら、子どもが言うのです。

 

「お水は買ったけど、図書館に行くの忘れたからって、お水だけ置いて、もう一回お出かけした。」

 

思いました。

 

認知症かな・・・?」

40代からの介護生活かあ・・・思ってたより長くなりそうな。

 

もちろん、帰宅した夫に問いただしました。「どういうこと?」って。

夫は慌てて否定しました。

 

「ちがうねん!違うねんって!

図書館行って、水買っただけじゃなくて!コンビニとドラッグストアにも寄ってん!

で、ドラッグストア出たところで、「水買わな!」って思って。

でも、水って重いから、家の近くで買おう!思うて、近くのスーパーまで戻ってん。

で、途中でさー、水はリュックの中に入れて持って帰ろう、って考えたら、

「あれ?背中がなんか重いなあ・・・」って思って、あっ!本持ったままや!図書館行くの忘れてた!って思い出してん。

でも家の近くまで戻ってたから、先に水だけ買って持って帰ることにしてん!

・・・用事って3件までしか覚えられへんね。」

 

途中、「背中が重い」のくだりあたりで、大爆笑の私が

認知症の始まりかと思った!」

と言いましたら、

「・・・確かにこの先認知症になったとしても、どっからが認知症の始まりやったんか、その判定が難しそうやな・・・」

と夫がつぶやくので、さらに「うひゃひゃー!」と笑っていましたら、

 

夫「笑ってるけど、ほんとに俺が認知症になったら、お医者さんに怒られるのはあなたなんやで!

なんでこんなになるまでほっといた!

って怒られるんやで!」

 

・・・もしもそんなことになったら、

 

もとからこんなんなんですー!

 

って言うしかないと思うのですが、怒られるのはイヤなので、いっそ先にぼけてしまおうかなって秘かに考えているマミーです。こんばんは。

 

ところで、このところ急に寒くなりましたね。

大阪ではさすがに雪は降りませんが、でもここ数日の朝の冷え込みは、冬がやってきた!と実感させるに十分なものです。

朝はベッドから出るのに勇気がいりますが、今日は「読み聞かせ」のボランティアの日。

いつもより早く出かけなくてはならないので、今朝は久々にドタバタしました。

 

で、遅刻ギリギリに飛び込んだ教室で今日、読んだ絵本はこちら。

 

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 「えほん遠野物語 かっぱ」京極夏彦 著 北原明日香 画 汐文社

岩手県遠野の人・佐々木喜善が故郷で見聞きした怪異の物語を、柳田国男が書きのこした名著『遠野物語』(1910年)。京極夏彦による新たな語りで、初の本格絵本シリーズとしてよみがえる! 他の土地と違って、遠野の河童の顔は赤い... 村の娘が産んだ子は河童だと噂された... 遠野物語の代表的ストーリー「河童」を、人気イラストレーター北原明日香が、美しくゾクゾクする絵物語に仕上げました。(内容紹介より)

 

4年生のクラスで読んだのですが、読んでいる子どもたちの反応は、

 

「しーん。」

 

ただそれだけ・・・。

 

おもしろい絵本ですと、途中で笑い声が上がったり、大阪ですから鋭くつっこまれたり、と教室が盛り上がってにぎやかになるのですが、今日は水の底のように静かになってしまいました。

子どもたちがどう考えているのか、わかっているのかいないのか、確認のしようがないので、こういう絵本は、実は読み手からは人気がありません。

どうせなら、子どもたちの強い反応があったほうが、手ごたえも感じられるというものですから、それも無理のない話しです。

 

でも、私は個人的に、たまにはこんな本も悪くないなあ、と思うのです。

 

少し難解、ちょっと不可思議。

お話しが終わった後で、ノブのないドアの前で少し途方にくれてしまうような、不安なような。

 

そんな物語はきっと一生忘れられない思い出になると思います。

 

今日、「しーん」となって聞いていた子どもたちも、「おもしろくないから」静かだったとは思えません。

真剣に聞きすぎて、ぽかん、と口を開けていた子どもたちが、

「おしまい」

という言葉を聞いたとたん、夢から醒めたように「はっ!」としてこちらの顔を見た瞬間に、

「ああ、とても集中して聞いてくれてたんだな」

と実感しました。

読み聞かせに成功したと感じる瞬間です。

 

よい絵本とは、

読んでいる間、別の世界に連れて行ってくれる本です。

 

物音が遠ざかり、子どもたちはガサゴソしなくなり、ちょっとした出来事、たとえば教室に入ってきた虫、校内放送、風にあおられて飛んでしまう掲示物、そんなことに気づかなくなる・・・よい絵本にはそんな力が秘められています。

(読むのが下手でも、勝手にそうなります。

子どもたちが集中しないとしたら、それは絵本の方が悪いのです。)

 

たぶん、私は今日、ちいさな子どもたちと一緒に遠野への旅に出ていたのでしょう。

そこで赤い顔の河童を見たのでしょう。

 

 「赤」の使い方がとても鮮烈で印象的な絵本です。

 

読み聞かせにぜひ。

小学生くらいのお子さまをお持ちの方にも、ぜひ。

オススメです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NOだけの夫、めんどくさい妻。

「NOと言えない日本人」

 そんな本が一世を風靡したこともありましたね。(←遠い目)

いや別に、その本の中身についてなにかを語りたいわけではないのです。そもそも読んだこともありません。

 

あえてはっきりと「NO」とは言わないことで、人間関係が潤滑に回っている節もあるのではないかと思ったり、いやいや、やっぱり言うべき時にはちゃんと「NO」って言わなきゃ!って思ったり、日々感想が揺れる問題で、なつかしいどころか、これはなかなか新しい問題ではないだろうかと考えたりもするのですが、今日お話ししたいのは、そんな壮大な問題ではなくて、

 

夫婦間の「NO」について。

 

というより、我が家の夫の話し。

私の話には「NO」としか言わない夫のお話しです。

 

例えば、大昔のある日のこと。

 

私が、

 

「柔軟剤を使うと、タオルの吸水性が落ちる気がする。気持ち悪いから使うのやめてもいい?」

 

って聞いたのです。

 

そしたら夫、

 

「はあ?なんもわかってないなー!柔軟剤を使うから、吸水性がもっと上がるんだろー。」

 

との答え。

 

そうなんだろうか・・・?

確かに柔軟剤を使うとタオルがやわらかくなる気はするけれど、使用後の感覚が「さらっと」しなくて、私はそれが気に入らなかったのですが、夫がここまで柔軟剤推しなんだとしたら、仕方ないかなあ、とその後もお洗濯に柔軟剤を使い続けました。

 

そしたら、また別のある日。

帰宅した夫がものすごーくハイテンションで言うのです。

 

「知ってた?!柔軟剤使ったら、吸水性が落ちるんだって!!」

 

 

・・・だから、それ、私が前に言ったよね?

 

 

私がそう返した時の夫の顔、今でもよーく覚えてます。

できればみなさまにもご覧いただきたかったくらい。

 

「はっ!そういえば!やばっ!」

 

っていう感情を具現化したらこうなります。の見本のような顔でした。

 

きっと夫はどこかの雑誌か新聞なんかで柔軟剤についての記事を読んだのでしょう。

私の(妻の)感想は頭ごなしに否定するクセに、新聞・雑誌の記事はそのまま鵜呑みにするのね、そうなのね、と思った私は、洗面所に直行、速攻で柔軟剤を廃棄して、以降、二度と柔軟剤という物を購入したことがありません。ほんとにそれ以降、一回も買ってません。

私の目が「真っ黒」なうちは、柔軟剤には絶対にこの家の敷居を跨がせないのです!

 

あ、真っ黒、といえば、まっくろくろすけ、できましたよ♡

 

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で、まあ、問題は柔軟剤だけではありません。

私が口を開くと夫はまず「NO」、必ず「NO」、とにかく「NO」・・・

 

「そりゃ違うよ」

「そんなことない」

「そんなわけないだろ」

「違う見方もあるんじゃない」

「そうとも言えない」

 

会話の糸口が必ずこんな風に「NO」から始まるので、正直面倒でたまりません。

 

もちろん、物事を緻密に考えられない私ですから、

一度「NO」を目前に提供されると、違う側面からの考察もできて助かるなって思うこともあります。

ですから、夫の「NO」もあながち無駄とばかりは言えません。

ただ、夫の「NO」に関して言えば、なんらかの思案があっての「NO」ではなく、

ただひたすら、私の言うことに「NO」と言いたいだけ!ってのがひっかかるのです。

 

だってね?

逆は必ずしも真ではないでしょう?

なので、夫の「NO」は時に、回り回っておかしなことに、つまり話しの前後で整合性がとれず、辻褄が合わず、 矛盾の塊になることがあるのです。

なにがキライって、「NO」を言い過ぎて、そんな風に論理が破綻する瞬間ほど大っ嫌いなものはありません。

 

で、あまりにも腹が立って、もう離婚しようかなって思ったこともあります。

 

それはテレビで「臓器移植」のニュースを見ていたときのこと。

 

私が、

脳死による臓器移植は「移行期の医療」という気がする。

いくら脳死からの回復が見込めないからと言って、目の前の家族の身体がまだ温かいうちに、移植提供の話しをされても、すぐには気持ちを切り替えられない。いずれ、もっといい医療が出てくるまでは仕方ないと思うけど。」

 

って言ったら、夫が、

 

「は?脳が死んだら人間はもう死んでるねん。使えるものがあったらなんでも使ったらええねん!」(←夫は超がつく合理主義者)

 

夫の意見を、「そうかもしれないけど、私にはそんな風に簡単には割り切れないなあ」と思いつつ聞いていたのですが、その数年後に突如出現したのが山中教授のips細胞。

 

このニュースを聞いた私は本当にうれしくって、これでもう、後味の悪い小説やマンガ、例えば、

 

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通りすがりのレイディ新井素子著 集英社

 

不老不死の研究のために、試験管ベビーとして産まれた人間の幼児から脳下垂体を取り出すお話しを含む。

 

とか、

 

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輝夜姫」 清水玲子著 白泉社

 

権力者の子どもたちの「臓器提供者」となるためのクローンとして産まれた子どもたちが集められるお話し。大作です。

 

あと、「ドナー」としての人生を語った作品としては言わずと知れた、

 

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「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ著 早川書房

 

とかね。

 

こういった、恐ろしくもやりきれない、切ない作品群が、

「まったく無用の心配だったね!」

と言える未来がいずれ確実にやって来るんだ!と明るい気持ちで夫に言ったのです。

 

「これでいつか、脳死患者からの移植なんて必要なくなる、よかったね!」

 

って。

 

そしたら夫、なんて言ったと思います?

 

 

夫「まあでも、臓器にだって魂があるって説もあるからね。」

 

瞬間、私の頭は沸騰しました。怒りで。

 

「だって、脳死した患者の臓器は使っていいんでしょ?あなた、そう言ったよね?

脳死した人間の臓器には魂がなくて、ips細胞からできた臓器には魂があるってこと?矛盾してないっ?!」(←この時点で私の頭の中から臓器移植の件は吹っ飛んでおります)

 

このときはあまりにも腹が立ったので、数日間、夫とは口もききませんでした。

話しかけられても、

「ぷいぃぃぃっ!」

って、リアルにやってました。ほほ。

 

前に言ったことと、今言ってることが違う、話しの筋道が通らない、その理由が、ただ私に「NO」と言いたいだけなんて、本当に「むかっ!」とする!別に「NO」と言ってもいいけれど、彼の「NO」は条件反射か脊髄反射って感じ、いくら妻との会話でも、せめて「脳」を通った後の「NO」を提示してよっ!とすんごく怒りました。

言わなかったけど。

この場合、沈黙の方がコワかったと思うけど。

 

で、こんな話しを長々と聞かされた男性陣は、きっと思うのでしょうね。

 

「めんどくさい奥さんだなー、もうこっちから離婚しちゃえば?」

 

って。

わかります、わかります。私もめんどくさい女だなあって自覚があります。

でも、安心してください。

 

 

耐えるべきはあなたではない!

 

我が家の夫です!

 

ということで、このエントリーを読んでいるすべての男性が「めんどくさー」と思っている中、ただひとり、

 

「やべー、やばー」

 

と慌てている我が家の夫へ。

 

あらかじめ言っておきますが、今日は奥さんのご機嫌取りにお花を買ってきたりしなくていいから。

だってほら、あなたの奥さん、今「マミー姫」に夢中だからさー。

 

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ね?

だからお花はいりません。

 

で、今。

 

お花がダメなら、ケーキかな!

 

って考えたでしょ。

でも、ケーキもいらないや。

だってさー、あなたの奥さん、最近いくらなんでも太りすぎだから。

あなたがどれだけぽっちゃりさんが好きだとしても、世の中には限度というものがあるのよ、うん。

 

で、今。

お花もケーキもダメ・・・どうしよう!って、パニックになってるでしょ?

 

私もさすがに鬼ではないので、助け船を出してあげるね!

 

あなたの奥さんなんだけどね・・・

どうも明日の朝食用のパンを買い忘れたみたいなのよ・・・だから買ってきてくれたらきっと喜ぶと思うよ!

 

え?

 

素直にメールしろって?

 

 

・・・次からは、そうします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十三と書いて

先日のこと、「はてな」で知って、気になっていた映画を見に行って参りました。

 

cenecio.hatenablog.com



「さとにきたらええねん」釜ヶ崎 こどもの里

 

映画の内容については、どうぞ上記セネシオさまの記事をご覧ください。

 

私から、なにかをつけたしたり、引いたりすることは一切ありません。

深い洞察に裏打ちされた感動的なレビューです。

 

いささか生活に問題を抱えたたくさんの親子。

特に子どもたち。

そのはじける笑顔とたくさんの涙。

飛び交う生の大阪弁

関西地方以外に生活の基盤があるみなさまには、ちょっぴり乱暴に聞こえるであろう言葉の数々、

 

「あかんやろ」

「やめとけや」

「もうええねん」

「あほちゃうか」

 

でもそんな、いささかお行儀の悪い言葉の裏に、どれほどの痛みが、どれほどの寂しさが折り重ねられているのだろうと思うと、映画館の椅子に座って彼らの人生を垣間見ることに、いたたまれないような、申し訳ないような気がしました。

 

で、映画を見てからこっち、

 

「どよーん」と、

 

「どよよよーん」としております。

 

ドキュメンタリー映画ですから、登場人物は映画の中の世界を実体験として生きているのでしょう。

見ていて「こんなひどい親が」と感じるのは、とても自然な感想だと思うのですが、私にはどうしても、この映画に登場する人々を、心から非難する気持ちにはなれませんでした。

 

私自身、自分がいい親であるなんて小指の先ほども思えませんし、

なにより、この映画の中に出てくる問題を抱えた親たちも、

「わざわざ出かけて行って」

「知らない人にまで」

「故意に」

害をなすような人たちには見えませんでした。

 

なので、どうしても思ってしまうのです。

「万一彼らが、子どもを持たない人生を歩んでいたとしたら、誰かにこんなにも非難がましい目で見られることがあっただろうか」と。

 

一方で、きっといい親になるに違いないと思われるのに、なかなか子宝に恵まれない人もいます。

 

もしも、数多いる神さまの中に、誰にどの子どもを授けるかを決めている神さまがいらっしゃるのなら、

 

 

「下手くそ!」

 

 

と叫びたい気持ちをぐっとこらえてその足下にひざまずき、

 

たとえ、神さまの目には虫けらのように小さい存在にうつったとしても、

子どもに関する事柄については、人の痛みや苦しみは言葉に尽くせないほど大きいのです、どうかもう少し、丁寧で思いやりのあるお仕事ぶりを。

 

と願わずにはいられない気持ちになりました。

 

で、どよーんの気持ちから浮上できないままでは暗すぎるので、今日はこの映画を上映していた街をご紹介。

 

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阪急「十三」駅。

漢数字で「十三」と書いて「じゅうそう」と読みます。

 

松田優作のハリウッド出演作「ブラック・レイン」のロケ地として、一時ちょっぴり話題になりました。ずいぶん昔の話しになります。

今は「松田優作」を知ってる人なんていないのかも…。

 

2014年には十三駅西口すぐ、通称「しょんべん横丁」で出火、大騒ぎになりました。

 

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長い間、焼け跡にはフェンスが建てられているだけで駅が丸見えになっていましたが、最近ではまた小さい店舗がびっしりと立ち並んできています。

「昭和」へのノスタルジーと見るか、ただの汚らしい飲み屋街と見るか、それは評価のわかれるところ。

 

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 こちら、当該映画がかかっていた「第七藝術劇場」。

 

とても小さいミニシアターですが、収益にのらないような映画でも果敢に上映している映画館です。

 

実はこの「十三」という街、私が通っていた高校のご近所で、つまり私の高校時代の思い出が詰まった場所でもあります。

 

店舗の入れ替わりが激しい商店街や、飲み屋さんがひしめき合う細い通り、それから巨大なラブホテル街。

無秩序と混沌が同居した街ですが、ほんの少し北側には淀川の堤防も。

 

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高校時代、同級生とこの堤防の上を駅まで歩いたものでした。

ここから見える淀川の風景は、当時とあまり変わりません。

 

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でも十三大橋の向こうにそびえたつグランフロント大阪は最近の光景。

 

 

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そして阪急電車

沿線には高校や大学が乱立しているので、この電車のカラーは多くの関西出身者に学生時代の思い出を彷彿とさせます。

 

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日暮れの迫る淀川通り。

 

高校時代、この道を何度往復したことでしょう。

同じ道に立っていながら、ずいぶん遠くまで来た気がします。

 

映画に出てくる子どもたちは、傍から見れば過酷な運命にあるようで、

でもたくましく、人を思いやる心をちゃんと持っていました。

そんな彼らを全力で助ける人がいることも知りました。

 

多くの言葉でなにかを語るよりも、

この道の先に、それほど「悪くない」未来が続くことを、ただ祈りたくなる一日の終わりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カレンダー

先日のことですが、

仕事先で、重い荷物を運ぼうとした時のこと。

あまりにも重かったので、さすがに手で運ぶのは無理だなあと思って若い同僚に聞いたのです。

「台車はどこですか?」

って。

 

しばらく考えていたその同僚、

「確か・・・あ!あそこですよ!」

と言って、ぱあ!っと走り出しました。

 

慌てて追いかけながら思いました。

 

「は、走るの?別に走らなくてもいいやん!廊下は歩きましょう、って小学校でならったやん!」

 

って。

台車の収納場所は遠かった・・・。

 

最近はなにをやっても衰えを感じる毎日、

しかも今、「廊下」と入力したら「老化」が先に変換されて、すっかりブルーなマミーです。

こんばんは。

 

ところで、アメリカではトランプ候補が勝ちましたね!

まさかと思っていたので仰天しました。

 

最初に思ったのが、

 

プーチン大統領、うれしいだろうなあ」

 

ってこと。

 

選挙結果の翌朝、NHKで放送されるロシアのニュースを見ていたら(←同時通訳でね!)議場でも拍手喝采でしたので、

 

「敵はアホな方がええんやで!」

 

も、ここまであからさまだと、いっそ清々しいレベルだな、と思いました。

 

で、思ったんですけど、

トランプ候補ってよく、自己顕示欲の塊ですごく目立ちたがり屋、って言われますが、プーチン大統領だって、きっとそうだと思うのです。

 

陽気か陰気かのイメージの差はありますが、

プーチン大統領だって、ぜーったい!自分のこと大好きな目立ちたがり屋だと思います!(←確信)

 

でないと毎年毎年、自分のカレンダーが発売されたりするの、とても許容できないと思うんです。

こんなの。

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人気らしいですよ・・・。びっくり。

 

・・・いいとも悪いとも言ってませんよ?言ってませんから!

 

でも、個人的には、毎日プーチン大統領に見張られているような一年はちょっと抵抗あるなあ、って感じるんです。

この笑顔が一層コワいというか。

 

やっぱりカレンダーはかわいい♡とか、キレイ!とかがいいと思うのです。

 

で、ですね・・・。

 

来年のカレンダーと言えば!

私、すっごいのをゲットしたんです!

ほんとすごいんだから!

 

じゃじゃーん。

 

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ほら!ほらほら!

 

ハリネズミのハーリーちゃんのカレンダー!

すごくないですか?

抽選に当たったんだもんねー!(←自慢)

去年いただいたハーリーちゃんの写真集と並べたらかわいさも2倍に!

 


モフモフとつんつん。

我が家に「かわいい」と「癒し」に満ちた2017年が到来しそうです。

 

チコ次郎さん、本当にありがとうございました。

 

お礼と言ってはなんですが、近々、ハーリーちゃんに、ちょっぴり大きめのお座布団が届きます。

 

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またこのお座布団でハーリーちゃんのかわいい写真をたくさん撮っていただけたら、私も本当に幸せです。

つ、使ってね!お願いっ!

 

 

 

で、またまた話しは変わるのですが。

 

先日、Googleから、

「あなたのパスワードを使ってGoogleアカウントにログインしようとした人がいます。」

のメッセージが届きました。

 

びっくりしてパスワードを変えたり二重認証にしたりしたのですが、

その後、「はてな」からのメールが以前のようには届きません・・・。

 

機密を保持しつつも、使いやすくなるような方法はきっとたくさんあると思うのですが、相変わらず機械に弱くて何事もスムースにはいきません。

 

しばらく、コメントのやりとりについても見落としや不義理があるかもしれません。(元からって?・・・す、すみません・・・。)

 

「ああ、相も変わらず機械に振り回されてるんだなあ」とどうかご寛恕いただきたく、伏してお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大きいとか小さいとか、誰が決めてるんでしょう?

先日、朝のニュースを見ていて、すっごく気になったことがあるのです。

 

ニュースとは

「モロッコで販売を禁止されている魚(禁漁だったかも)を売っていた老人が、警官に魚をごみ収集車に廃棄され、それを取り返そうとした老人が、収集車の機械に粉砕されて亡くなったという事件を受けて、大規模な抗議デモが広がっている。アラブの春の再来か。」

というもの。

 

で、私が気になったのは、NHKがこのニュースを、

 

「小さなできごとが大規模なデモにつながっている。アラブの春を連想させる。」

 

と伝えたことです。

 

「小さなできごと」ってどういうことなんでしょうね?

 

ニュースでは、「魚を取り返そうとした魚売りの老人がごみ収集車に突っ込んでいったのを知ったうえで、警察官が収集車のスイッチを押すように促したのを見た目撃者がいる」というようなことも報じられていて、それは残酷だなあと思いながらニュースを聞いていたので、アナウンサーが「小さな事件」と言ったのが、どうにも聞き逃せない気持ちがしました。

 

例えばこれが日本国内で発生したとしたらどうでしょう。

 

警察官が、証拠物件を勝手にごみ収集車に遺棄、取り返そうとした容疑者を「殺害」した案件として大々的なニュースになりませんか?

万一、これがモロッコというイスラム教圏の国家で起こったことだから「ありがち」なこととして、「小さい」と表現したのなら、それはいささか差別的だと言わざるを得ませんし、人権とは国境、民族、性別の如何にかかわらず普遍的、という平素の主張とは隔たりがありすぎます。

 

また、仮に、イスラム教圏の国家であるなしとは関係ないというのなら、それはそれで問題です。

警察がもしも「行き過ぎた」警察権を行使したなら、それに誰よりも否定的で批判的であるべきなのは、報道する者として当然なはずです。

 

「どこかの路地で、警察によって不必要に殺害された一般人」

という疑惑を報道する場合、たとえ国が違ったとしても、そこは報道機関、口が裂けても「小さい事件」と表現してはいけないと思うのです。

 

私はとにかく「警察」と聞けば目の敵にするような主張とも一線を画したいと思います。

 

警察に就職した友人もいますし(正確には入庁?っていうんですかね?)、それに日本の警察はとても優秀で、人権意識も高いと考えています。

毎日、暑い日も寒い日も、雨が降っても雪が吹いても、街中で警戒中の警察官を見かけます。すれ違うたびに頭が下がります。

私たちが毎日安心して暮らせるのも、この国の治安がいいのも、日々、お金のためだけでなく働いていらっしゃる警察官の方々の尽力が大きいと思います。

 

けれども、警察という組織も人が作っているものです。

人が神でもない、「人が作ったもの」を無批判に信奉することは危険きわまりないことです。

 

まして警察は必要とあれば武装し、他者の人権を一時停止できる権力を有しています。

人も社会も、そんな警察が行き過ぎないか、まちがいがないかどうかを「正しく」疑い、「節度を持って」監視していくべきなのです。

そして、その最も先頭に立っているべきと人々が普段から期待しているのが、報道を託されるメディアなのではないでしょうか。

報道を使命とするメディアが、警察と同じ目線で物事を見たり、感じたりしているなど、本来あってはなりません。

 

最近、世の中の動きがきな臭いとか、変な方向に向かっているみたいで怖いとかいう人たちがいます。

その意見については私は、日本で普通選挙がある限り、世間一般の常識や見識というものを信じているとしか申し上げようもありません。

ただ、今回のモロッコでの事件を「小さい事件」と何回も(少なくとも2回は絶対)言い放ったNHKの姿勢に関しては、心の底から、空恐ろしいと感じずにはいられませんでした。

国家権力も、警察権力も市井の人々の人生をひねりつぶすには十分強大な力を持っています。

同じく第4の権力、メディアもそうです。

日本のメディアの考え方や、あり方が、どこかおかしな方向に走り出しているのではないかと、時々とってもコワくなります。

 

 

と、普段では考えられないような記事を書いてしまいました。

それくらいNHKのアナウンサーがこの事件を何度も「小さい事件」と言ったことが衝撃的でした。

私個人のちょっとした雑感です。どうかご放念ください。

 

ところでみなさま、今日、「真田丸」 をご覧になりました?(←毎回唐突ですみません。)

かっこよかったですよねえ…。

 

今年こそ!「大坂の陣」、勝てるんじゃないっ?

 

ってちょっと思ってしまいました。

その昔、田辺聖子氏が「大阪人には徳川家康は人気がない」って何かに書いていましたけれども、その遺伝子、確実に私にも受け継がれています。

基本的に、というか、内心ではこっそりと、

 

「あの狸おやじ、くたばっちまえ!」

 

と思っています。えへ。

 

ちなみに今年の大河、「真田丸」ではオープニングテーマが、超!かっこよくってお気に入りなんです。

こんなに大河のオープニングテーマで盛り上がったのは中井喜一主演、「武田信玄」(←なつかしい!毎週必死で見てました!どなたか見てた人、いらっしゃいます?)以来かも!

 

こんなの。


大河ドラマ 武田信玄 オープニング

 

これ、おもしろかったですよねえ…。

 

そういえば、大阪の陣での真田の赤備えは武田由来。

感動もひとしおです。

今年の大阪の陣こそは!(←しつこい)

 

 

ということで、やたらと忙しかった週末も意味不明に更けていきます。

みなさまの新しい1週間がすばらしいものになりますように。

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

育児には「時代の不安」ってものがあると思う。

先日、夫が「忘れ物大魔神なんです。」って記事を投稿しましたら、

予想をはるかに超える、たくさんの方に読んでいただきました。

驚きました。

訪問してくださった方々、本当にありがとうございました。

 

で、風邪のためにコメント欄を閉じて、ブクマ欄の方を開けていたら、そこに

ADHDなのでは?」のお言葉があふれていたので、

夫に、「あなたにADHD疑惑が浮上してるよー。」って言ったのです。

 

そのときの夫の返答。

 

 

「俺?

 

俺はただ、うすらぼんやりしてるだけやで!

 

 

 

念のため申し上げますが、 

私、話し、盛ってませんからね?

本当のほんとーに、本人が言いましたから。

 

「うすらぼんやりしている」って。

 

なので、私も、心の底から、

 

 

「そやね。」

 

って、返しておきました。

 

確かに夫の動向を見ているとADHDの傾向があるようにも思えますが、

今のところ、私も当人も専門家の受診などは考えていません。

理由はと言えば。

 

幼少期から彼には、

 

1.多動性、衝動性および他罰傾向や暴力的傾向がない。

2.不注意ではあるけれども集中力が持続しないわけではない。またLD(学習障害)でない。

3.特定のモノに対する強すぎる執着やこだわりがない。

4.対人関係が良好である。

5.本人がさして困っていない。(←ちょっとは困ってほしい。)

 

驚くほど社交的とは言えないまでも、適度に他者と友誼を結ぶことができて、家族、兄妹間の関係も非常に良好な夫。

なので、忘れっぽいのは彼の「個性」かな、と今後も結局、私がフォローしていくのだと思います。(←これを読んだら夫が全力で喜ぶと思うので、厳しく!対処していくことをあらかじめ宣言しておきます!)

 

で、今回、夫のADHD疑惑についてつらつらと考えていたら、唐突なんですが、

育児と「時代の不安」についていろんなことが頭に浮かびました。

 

ひとつの「時代」にはその時代特有の「不安」ってものがあると思うのです。

 

たとえば、亡くなった私の祖母は、父を産んだときに、

 

「早く食べる癖をつけさせなくては。」

 

と考えたのだとか。

 

いずれ兵隊さんにとられた時に、軍隊でとろとろごはんを食べていたのでは、殴られたり、お腹いっぱいになるまで食べられない、と不安だったというのです。

幸い父が産まれてほどなくして終戦になりましたが、祖母のその時の不安な思いは、今の時代とは隔世の感があります。

 

ポリオが流行った時の、世の母親の動揺も、ニュースで見て圧倒されました。

当時、乳幼児を抱えていた母親はどれほど不安だったでしょう。

 

校内暴力が吹き荒れていた時代に育児をなさったお母さんたちはきっと学校選びに慎重にならざるを得なかっただろうと思います。

 

そんな風に、いつの時代もきっとその時代特有の「不安」というものが、育児にはつきものなのだと思います。

 

で、現代では。

 

きっと、この「ADHD」やアスペルガー症候群などの「発達障害」についての問題が、かなり大きい不安感をお母さんたちにもたらしている気がします。

 

我が子がこの問題を抱えていたらどうしよう、という不安。

 

実は私も子どもが生まれた頃、この問題を報道で知って、やたらと不安になったことを覚えています。

アスペルガー症候群の子どもかどうかの判断をするテストみたいなの、あるじゃないですか、あれをまだ子どもがちっこいのにやってみたりして。

 

数年前には、友人のお子さんが「アスペルガー症候群」と診断されて、その友人から、

「理解してほしい」

と関連書籍をドサドサドサーっと目の前に積まれたり、PTAやボランティア関連で「自閉症スペクトラム」についての講習会に参加を促されたり、と今の母親世代に関しては、この問題に対して全く無関心・無関係でいることは、逆に難しいのではないかと思います。

 

学校現場でも、ゆっくりとではありますが、対策が進んでいると思われます。

少なくとも、私が子どもの頃には考えられなかった配慮もなされているようです。

もちろん、まだまだ、道半ば、ではありますが・・・。

 

小学校の図書室に出入りしていても、最近、この「発達障害」「ADHD」「LD」「アスペルガー症候群」「ディスレクシア」などという言葉をやたら目にするようになってきました。

児童向けの書籍からも、この問題に関する理解を深めようとする意識が感じられます。

 

肝心の子どもたちはちっとも読んでいませんが、中でもちょっと目を引いたものをご紹介したいと思います。

 

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「いっしょがいいな障がいの絵本6 ぼくって、ふしぎくん?」

監: 北村 小夜 文: 嶋田 泰子 絵: 岡本 順
出版社: ポプラ社

 

ADHDの特性について、非常によく書かれていると思います。

お母さんとの関係、お友だちとのやりとり・・・とてもリアルで「説得力のある」1冊。

学校図書館向けの絵本セットのうちの1冊ですので、一般的にあまり目に触れることがないのがちょっと残念ではあります。

でも物語のラストの1ページ、主人公の男の子の笑顔には心揺さぶられるものがあります。

 

 

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 「ボクはじっとできない」自分で解決法をみつけたADHDの男の子のはなし

バーバラ エシャム (著), マイク&カール・ゴードン (イラスト), 品川 裕香 (翻訳) 岩崎書店

 

ADHDの特性に気づき、自ら解決方法を考え出していく男の子のお話。

物怖じせずに前向きに、ひたむきに周囲と関わっていく主人公の姿に、読んでいるこちらも励まされるような1冊。

同じ著者の作品には「算数の天才なのに計算ができない男の子のはなし」もあります。こちらもオススメ。

 

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「ありがとう、フォルカーせんせい」

パトリシア ポラッコ (著, イラスト), 香咲 弥須子 (翻訳) 岩崎書店

 

LD(学習障害)で本を読むことができなかった少女が、ある先生に出会って本が読めるようになり、長じて作家になる物語。作者の自伝的絵本でもあります。

これは現在、どこの小学校にもあります。(あると思う・・・。どこででも見かけます。)

似たような本に、ダグラス・ウッド著「よめたよ、リトル先生」という絵本もあります。LDやディスレクシアの子どもたちに対する理解の一助になる絵本だと思います。

 

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こんなこいるかな」シリーズ 

有賀忍 (著) 日本図書センター

 

NHK「おかあさんといっしょ」で1986年から登場していた12人。

それが絵本になったらしいのですが、私はこのキャラクターたちが「おかあさんといっしょ」出身だとはまったく知りませんでした。

この絵本セットは正直、ADHD関連書籍とは、言えないかもしれません。

けれども、この12冊の「こんなこいるかな」を”続けて”読んでいると、この絵本にはとても大切なメッセージが内包されていることに気づきます。

イデアマンの「ぴかっと」やいつも親切な「はっぴ」など、「学校現場で歓迎されそうな」子どもたちと、

ちらかしてばかりの「ぽいっと」や忘れん坊の「ぽっけ」など、どちらかと言えば問題行動の多い子どもたちとを、

あくまでも「並列」に扱うことで、どんな子どもたちも等しく大切にされ、愛されるべき権利を持っているのだと、あらためて感じさせられるのです。

どの子どもたちの特性も、それが集団生活や学校生活になじめるかどうかに関係なく、同じく尊ばれるべき「個性」なのだということを、私たち大人はつい忘れて心配ばかり・・・。

とても微笑ましくかわいい絵本ですが、この絵本シリーズはそんな大切なことを思い起こさせてくれる、なかなか奥深い作品なのではないかと思います。

 

他にも最近は「発達障害」に関する絵本や物語が増えてきました。小学校の図書館には続々と導入されてきています。(ほとんど読まれてないけど。子どもたちには人気ないけど・・・。)

でも、子どもたちにこの問題が徐々に周知されていって、いつの日か、きっと次の時代には、「発達障害」のあるなしに関わらず、誰もがもっと「生きやすい」社会が到来することを、ひそかに期待する毎日です。

 

 

 

でも夫には厳しくいきますよ・・・。

 

 

 

 

 

 

夫は忘れ物大魔神

私の夫は「忘れん坊」です。

「坊」なんてかわいいものではなく、その世界ではもはや「大魔神」と言ってもいいくらい。

結婚生活も20年近くになりましたが、いまだに夫の忘れ物癖には慣れることができません。

慣れるところか、日々あらたに燃料を投下し続ける夫のおかげで、呆れるのを通り越して、今や、

「なるだけこちらに火の粉がかかりませんように」と願う状態です。

 

どれだけ彼が忘れ物大魔神かと言いますと。

例えば、ある日。 

 

お仕事で打ち合わせが終わった後、

システム手帳を車のボンネットの上に置いて、

「うーん!」

と背伸びをしたら、瞬時に手帳のことを忘れてしまい、

ボンネットの上に手帳を置いたまま車を発進、そのまま行方不明に。

 

出張に出れば、高速道路の上に乗ってから、

「新幹線のチケット持ったっけ?」

と思い出し、案の定チケットは自宅に置きっぱなし、

 

コンビニでトイレを借りようものなら、

トイレの棚に財布を置きっぱにして、そのまま紛失、

 

会社に行くのにネクタイをし忘れることなんて日常茶飯事、だから彼のオフィスには無難な柄のネクタイを常備させています。

 

鍵、定期、財布、携帯は、出社に必ず必要ではないですか?

なので、いつも「同じ」場所に収納して、そこを空っぽにすれば忘れ物なし!にしているのに、鍵だけ持ってあとは忘れたり、携帯だけ取り忘れて出かけたりします。

 

そんな夫が会社に持っていくカバンはとんでもなく「重い」のですが、

ある日、彼がそのカバンを丸ごと忘れて出かけていきました。

 

びっしり詰まっている書類やら文具やら、見てもわからないものがたくさん…。

こんなにたくさんのお仕事のための「モノ」がなかったら、どれほど困るだろうと思い、届けようかとも思ったのですが、あいにくその日は「外回り」と聞いていたので、捕まるわけもないかあ、と思ってあきらめ、心配しつつ夫の帰宅を待ちました。

 

ですから夫が帰宅した時には息せき切って、尋ねたのです。

 

「カバン忘れてって、困ったでしょ?」

って。

 

そしたら夫、

 

 

「ぜんぜん?」

 

 

 

 

・・・・・・・・・。

 

 

 

 

「じゃあ、この重ったいカバンには、一体なにが入ってんのよっ!」

 

 

今も相変わらず重いカバンを持って会社に行く夫ですが、中に大したものは入ってないはずです。絶対!!

(そんなものに気を取られているから、大事なものを忘れるんじゃないの、と傍で意地悪く見ているのはちょっと内緒。)

 

で、今朝もやらかしてくれました。

 

夫が出社してからキッチンのカウンターの上に、私が発見したもの。

 

それは夫のために作った「お弁当」

 

この忘れ物も非常に多いです・・・。

だいたい、夫の会社では、仕出し弁当を昼食用に供与してくれるのです(有料ですが、安い)。それを食べておいてくれれば、私も手間いらずだし、なによりこんな風に「持っていくのを忘れる」なんてことはないはずなのに、夫は

 

「会社のお弁当、まずい」

 

とか言って、頑として食べません。

 

だったら絶対に忘れないように持っていけばいいのに、時々こうして忘れていくのはなぜでしょう?

地下鉄に乗ったあたりで、

 

「お弁当忘れた~。えーん。」

 

ってメールが来ることもありますが、いつも「知らん」と一蹴しています。返事もしません。怒ってるんだもの。

 

とくに今日みたいに、まだカゼが治りきってなくて、でもお弁当がいいだろうな、と思って必死に起きてきてわざわざ作ったのに、持って行ってもくれなかったりしたら、

 

「もう。」を通り越して「もー!」になります。

 

え?

「もう。」と「もー!」の違いがわかりにくい?

じゃあその辺の妻帯者に聞いてみてください。

結婚、やめよっかな…っていうくらい、微に入り細を穿って教えてくださると思います。

 

で、今日のお弁当ですが。

 

子どもが登校前、

「あー、パパ、お弁当忘れてる!」

と騒ぐので、子どものお弁当箱をもう一度開けて、夫の分のおかずを、

 

ぎゅうっと、

ぎゅぎゅぎゅーっと!

 

詰めておきました。

 

「豪華になった!」と子どもは喜んでいましたので、無駄にはならずに済むでしょう。

 

帰宅したら、

「パパにごちそうさま♡って言いなさい。」

と言おうと思います。(←イヤミ)

 

きっと悔しがって、少しは反省してくれることでしょう。

 

でも反省が生きたためしがない…また忘れるんだろうなあ。はぁ…。

 

 

ところでみなさま、昨日はカゼ対策の秘儀をたくさん、ありがとうございました。

ひとつひとつ目を通して、もうカゼをひかないように参考にいたします。

まだ完全とはいきませんが、もう少ししたら元気になると思います。

みなさまもどうか体調にはお気をつけてくださいね。

ほんとにありがとうございました。