嫁姑間の会話に想定問答集があったら即買いします。

 

今は昔、と言いたくなりますが、

我が家の夫は結婚当時、食べ物の好き嫌いが多くてとっても苦労いたしました。

 

煮物、煮魚、酢の物、梅干し、お漬け物、こんにゃく、春雨、イカにタコ、しいたけそれから茄子に里芋、刺身にお寿司、野菜炒め、辛いもの、苦いもの・・・おまけに猫舌

 

あまりに多くて何を作っていいのやら・・・嫌いなものは細かく刻んでカレー(←甘口ね)に入れたり、ベーコンで巻いて濃いめの味付けにしたり、あれこれ工夫したものでした。

 

そんなある日のこと、夫の親族の法事に出席しましたら、

夫の伯父や伯母が言うのです。

 

「この子(←夫のことね)、好き嫌いが多くて大変やろう。この子に合わせとったら食べるもんないからなあ。」

 

って。

 

私が「はあ・・・いえいえ」と適当に相づちをうっておりましたら、

夫の偏食がいかにひどいか、の話題でその場が盛り上がっていきました。

 

その時、私はまだ結婚したばかりで、伯父や伯母の顔や名前もうろ覚えでしたから(今も、という説もあり)、まだまだ半分他人のようなもの、なので、そんな話題も、「親族による謙遜」という印象で、黙って聞いていました。(っていうか、口は一切はさめないんですよ、だって大阪のおじさん、おばさん達のマシンガントークですからね・・・)

 

なので、その後、義母とふたりになったとき、

その話題に義母がカンカンに怒っていたのを知って、びっくり仰天しました。

 

「ちょっと好き嫌いが多いからって、あんなこと言わなくてもいいのに!

あの子のいいところは私にしかわからないんだから!」

 

って。

 

確かに夫が「からかわれていた」ような気もするのですが、

新婚ほやほやの男性なんて、からかわれるのがお約束だと思っていたし、親族のおじさんやおばさんなんて、基本「口さがない」ものではないですか?

 

ですから、義母がこんなにも怒っているのを、ちょっと意外に思いつつ、

すぐに私は「次になんて言うべきなのか」を考え始めました。

トロい私にしては必死で、最速で頭の中をフル動員して、この場で最適な「嫁としての」言葉を探したのです。

 

で、一番穏当なのは、

 

「私はわかってますよ、ちょっとくらい好き嫌いがあったとしても、そんなことくらいで夫さんのいいところは減らないですよね」

 

って感じかな、と思ったのですが、結局なーんにも、言えませんでした。

 

だって、お義母さん怒ってたし、

「(母親である)私にしかわからない!」って言ってるのに

私が「いや、わかってます」なんて返したら、

 

「あんたなんかに何がわかるのよっ!」

 

って余計に怒らせるんじゃないかと思って。

 

「息子のことは私が一番わかってる!」の自負を、私が打ち壊すべきではないのかなー、と気を使ったつもりなのですが、今でも正直、このとき私がなんて言うべきだったのか、最適で最高の返事はなんだったんだろうと、答えが出せずにいます。

 

(ちなみに、親戚のおじさん、おばさんたちが、夫のことをからかったり、笑ったりしていても、それに私が抵抗できるわけもないと思うんですよね・・・。

だって、私は夫と「血縁」があるわけじゃなし。

”ちょっと来たて”の嫁の立場で、親族の中の目上の人たちに反論できる気がしません。

たとえ義母が怒っているのを知っていたとしてもです。

何回考え直してみても、夫のおじさん、おばさん達に対してなにかを言い返すなんて、逆立ちしてもできそうにありません。)

 

思うに、「妻」の立場って、本当に不思議なものですよね。

 

だって、そもそも他人なのに、いきなり夫にとって一番「近しい」身内になるのですから。

 

夫にとって最も「近い身内」として、私はこれからも他人に向っては、夫について謙遜し続けていくのでしょう。

それは身内を自慢の種にはしない、という日本人らしい思考の発露であって、私がこの思考方法から簡単に抜け出せるとは思えません。

 

ただ、夫の母に対しては、私は夫の「もっとも近しい身内」の立場を、いつでも譲らなくてはならないのでしょう。

なので、義母が一緒の時には夫のことを褒めちぎっておきます。

いい夫でいい父親ですって。なんの不足も不満もありませんって。(←ちょっと嘘まじり。)

 

ほんの少しの悪口でさえ、義母の前では決して言わないようにしているのですが、

そんな私の「トップシークレット」は、もちろんこのブログです。

 

お正月が近づいてまいりました。

親族が集まる機会も一気に増えます。

 

「うっかり」がやたらと多い夫に、

なにがあっても!絶対に!口が裂けても!

このブログのことは言ってはいけない!と念を押しておかなくてはなりません。

 

 

義母と会う前には、いつも、必ず、義母の

「あの子のいいところは私にしかわからない」

の言葉を思い出します。

20年近くも前のことなのに、未だにあの時、「なんにも言えなかったこと」が悔やまれます。

 

たとえ、「あんたなんかにわからない」と言われたとしても、

たとえ義母をもっと怒らせることになったとしても、

やっぱり、私は「彼のいいところ、ちゃんとわかってますよ。」って言うべきでした。

 

そうすれば、最愛の息子をけなされて、ちょっと傷ついたように見える義母の横顔が、少しは和らいだのではないかと思うと、今でもそれが私の痛恨事なのです。

 

義母は絶対あの日のことを忘れていることでしょう。

 

それでも私は忘れていません。

20年近く、同じことをいじいじと思い煩って、それが私の一番いけないところなんだろうなあ、とわかっていても忘れられません。

 

 

ああ、年末年始って憂鬱!

 

また義母との会話で「今私はなんて言うべき?」の場面が出てきたらどうしましょう。

 

こんなとき、「嫁の立場なら、ここはこう言うべきです」なんてことが書いてある「想定問答集」があったらとっても便利なのに!

誰か出版してください!即座に注文しますから!

 

なーんてことを考えているのも現実逃避です。あーあ。

 

 

おまけ。

載せる写真がないので、今日のマミー姫。

 

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ちょっとずつ、大きくなってます♡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Aさんへ。

昨日のことなのですが。

 

お仕事中に同僚と世間話をしていたら、話題が「エイズ」のことになりまして。

 

当たり障りのないことを話した後、その同僚に書類の作成を頼まれたので、部屋に戻って書類を作り、さあ、届けようとして思ったのです。

 

「あら?この書類を頼んできたあの人って誰だっけ?」って。

 

困りました。

頭の中を必死で探ってみても、名前の片鱗さえ浮かびません。

 

さきほど世間話をしていた部屋に戻ってみてもその人の姿はなく、困り果てた私は、その場にいた人全員に聞こえるような大声で聞きました。

 

 

「さっき、私にエイズの話しをしてきたのは誰ですか-?」

 

って。

 

その場の空気が一瞬「ぎょっ!」としたのは言うまでもありません。

相変わらず人の名前に弱いマミーです。こんばんは。

 

だから、ですね。

やっぱり職場でも名札って必要なんじゃないかと思うのですよ。

みんな、私でさえ、自分の名前は覚えてるし、書けるじゃないですか。

私がうんと偉い人だったら、名札着用義務令とか出すのに!

と思うのですが、そもそもこんなにもの覚えが悪くては偉くなりようもないんだった・・・。

世の中ってうまく行かないことばかり・・・。

 

で。

「名前」で思い出した素晴らしい絵本があるので、今日はその絵本のお話しを。

 

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「ぼくが一番望むこと」

マリー・ブラッドビー:著 斉藤規:訳

ぼくは、朝暗いうちから仕事に出かける。朝食ぬきでお腹がなっている。でも、ぼくの望みは朝食ではない。

黒人教育家ブッカー・T・ワシントンの少年期をえがいた絵本。(「BOOK」データベースより)

 

奴隷制度が廃止されたばかりのアメリカ。

黒人差別はまだまだ過酷で、ブッカー少年は空腹をかかえて朝から晩まで働く日々。

でも彼の望みはお腹いっぱいにごはんを食べることではなく、「字を読むこと」でした。

 

教育を受けたいと望む彼の願いは、でもなかなか叶いません。

母親がわずかな賃金の中から買ってくれた教本を見ても、学校に通えず、両親も字が読めない彼にはその本を読む術がないのです。

けれども、彼には希望がありました。

彼と同じ黒人なのに、新聞が読める人がいるのです。

彼はその「読める人」を探し出し、本を読んでもらうようにせがみます。

 

 

ところでこの絵本のすばらしさは「絵」にあります。

初めて少年が字を読んでもらったときの感動と、爆発するような喜びの表情。

うれしさのあまり踊り出した少年を見つめる「読める人」のあたたかなまなざし。

 

この1ページだけでも、この絵本は成立するのではないかと思うほどのすばらしい絵です。

 

もっと字を教えて、とせがんだ少年は自分の名前「ブッカー(BOOKER)」を地面に書いてもらうのですが、それを見つめる彼の表情もとてもいい。

希望が生まれた瞬間に、自分が立ち会っているような。

幸せで、幸せで・・・でも、その幸せのささやかさにちょっと胸が詰まるような。

切ないような。

なんとも言いようのない気持ちになります。

 

つくづく、人にとって学ぶということ、知るということは喜びであり、人生に欠くことのできないものなのだと確信する絵本でもあります。

 

またこの本を読んでいると、人をどこかで「線引き」して、学ぶ機会を与えないことは、どれほど残酷なことであるかということに気づかされます。

たとえば、一部のイスラム教徒が女子教育を制限していることには、怒りを禁じ得ません。

同時に、ネットなどで散見される、現代日本の「少子化」の原因は女子教育が高等化しているからだ。だから女性に大学教育は不要。なんて意見には、心底びっくりしてしまいます。

本気で言ってるの?と聞いてみたいと思うのですが、匿名が原則のネットでは無理なのでしょう。また、匿名だからこそ、本音が出ているのかもしれないと思うと、うっすらと恐怖も感じます。

 

さきごろ、第二次世界大戦中のドキュメンタリーを見ていて、こんな述懐がありました。

 

ナチス共産主義者を迫害し始めたとき、ぼくは反対しなかった。だって、ぼくは共産主義者じゃなかったから。

次にナチス障がい者を迫害し始めたとき、ぼくは反対しなかった。だって、ぼくは障がい者じゃなかったから。

そしてナチスがユダヤ人を迫害し始めたとき、ぼくのために反対してくれる人は、もうどこにも残っていなかった。」

 

誰かの権利を「狭めてもいい」と放言することは、自分の権利もまた、狭められる可能性を引き寄せてしまうことを、できる限り多くの人に感じてほしいと思います。

 

アメリカが表向き、どれほど多文化主義を標榜しても、現実問題として黒人差別がまだ存在していることは、日々のニュースを見ていても明らかです。

けれども、この絵本を読んでいると、黒人が「奴隷に戻る」ことはけっしてないことがわかります。

それは法律や政治の問題ではなく、彼らが文字を知っているからです。彼らが今では「読める」からです。字を知ったことで、ブッカー少年が言うように「新しい世界に入った」からです。

 

若い頃、もっと勉強しておけばよかったなー、という感想と共に、でも教育の機会を与えられた人生を得られたことを感謝したくなる1冊です。

そして、これからの世代にも、なにがあっても教育の機会だけは確保しなくては、と強く思う絵本です。

オススメですので、どこかでお見かけになったらぜひ、立ち読みでもなさってくださいね。

 

 

最後に。

まったくの私信です。

 

はてな」のユーザーでもないのに、いつもここを読んでくれて、私が絵本を紹介する度に、本屋さんに立ち寄ってくれてるAさん。

 

不安定も混乱も、至極当然に思います。

Aさんが今、自分が最も不幸だと思っていても不思議じゃない。それが当たり前だと思う。

 

たとえば、隣に住んでいる人が、何十億もの宝くじに当たったからと言って不幸になる人はいない。

でも、誰もが持っているもの、当たり前に手に入れているものを、自分が得られないとなると、人は突如、自分が不幸だと思ってしまうのね、きっと。

 

ここであきらめるか、それともまたチャレンジするのか、

選ぶこと自体が、苦しみなんだよね。

チャレンジしてもうまくいかなかったとしたら悲嘆はもっと深まるし、

でも、今あきらめてしまったら、ずっと先になって「どうしてあの時諦めたのか」って後悔することがわかってる。

 

私も、あの頃、法事に行ったり親戚の集まりに行くのが苦痛で苦痛でしょうがなかった。

飛んでる飛行機が頭の上に落っこちてきたらいいのに、ってよく思ったよ。

 

でもAさん。

Aさんはまだ、なんにも失ってないって、私は思う。

 

どうかこの絵本を読んでみて。

Aさんは、わずかな賃金を工面してブッカー少年に本を与えた母親になれなかったとしても、でも、少年に字を教える人にはなれる。

少年を、希望に満ちた、新しい世界に送り込ませることができる。

 

それって、Aさんが思っているよりも、ずっと、ずっと、ずーっとすごいことなのよ。

 

Aさんはまだ、なんにも失ってはいない。

そして、Aさんの手は、これからAさんが望むだけの、「すばらしいこと」をつかみ取ることができる。きっとできる。

 

どんな選択でも応援するけれど、たとえばそれがギブアップであっても、ちっとも悪くない。それでいいの。Aさんはなんにも悪くない。

 

それでも、選択の重みに耐えられなくなって、不安になって、つらくなったら、いつでも呼んでね。

たとえ地球の裏側にいたとしても、すぐに駆けつけるから。

実際には新幹線で着いちゃうけど。ふふ。

 

ねえ、だって、友だちでしょ。

そうでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無理かもしれないけれど。

 

先日、「りくぼー日記」のりくぼーさんがお聞きになってましたね。

 


「みなさん、ネタがないとき、どうやって仕込んでますか?」

 

って。

わかります、わかります。その気持ち、すごーくよくわかる!

私も毎回、たいした話しもしていないくせに、

 

「もう書くことない~。ネタなんか無い~。」

 

って騒いでいますので、りくぼーさんのように、みなさまに聞いてみたいって思う気持ち、心から共感します!

 

最近では私の「ネタが無い!」を聞き飽きたのか、

 

「俺のことでも書いとけば?(←てきとー)」

 

と夫が新聞を読みながら言うまでがテンプレ、他のセリフは返ってこなくなりました。

 

正直言いまして、毎回毎回、あれだけ「けちょんけちょん」に書かれてるのに、

それでもめげずに「俺のこと書いとけば?」って言えるなんて、彼ってほんとにスゴイ心臓の持ち主だなあと思うのですが、彼はたぶん、

 

なんにも考えていない。

のだと思われます。

 

ふりかえれば学生時代、講義室から窓の外を眺める夫を見て、

「かっこいい人だなあ。なに考えてるんだろう。」

なんてよく思ったものでしたが、今ならわかるのです。

 

 

 

なーにんも考えてなかったんだなって。

 

 

今になって私が、

「あのときは、あなたがなにか「深遠なこと」を考えてるように見えたんだよね。」

って言うと、夫は手を叩いて喜びます。

で、笑いながら、私を指さして言うのです。

 

 

 

「はっはー!だまされてやんの!」

 

って。

 

むっか。

だまされたのは本当だからなんにも言えない・・・。

でもどうして、だまされた上に笑われなければならないのでしょうかっ!?

 

人生、理不尽・・・。

 

ま、夫も同じく「だまされた・・・」と考えている可能性大ですから、そこはあまり深く追求しないでおこうと思っているマミーです。こんばんはー!(←やけっぱち)

 

その時はいいと思っていても、後から考えたらちょっと違ってた、時間の経過と共に少しずつなにかが変わっていく、なんてことはよくあることで、それは夫婦間の雑感以外にもあることなのかもしれません。

 

畳となんとかは新しい方がいいなんて、失礼な格言もあるようですけれど、

でも、私にしても「新しい方がいいな」って思うこともたくさんあります。

 

例えば。

 

本の装丁。

 

特に児童書のね。

 

村上春樹だったかな、「永遠の名作」は存在しても、「永遠の名翻訳」はありえない、ってどこかに書いていたような気がするのですが、児童書の装丁も、同じような感想を持つことがあります。

 

いくつか例をあげてみますと。

 

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「太陽の子」灰谷健次郎 角川文庫

 

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先生のつうしんぼ宮川ひろ 偕成社

 

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「ネコのミヌース」アニー・M・G・シュミット 徳間書店

 

どの本も名作です。

子ども向けと侮れない本ばかり。

なので、小学校の図書館にはたいてい常置されているはずです。

 

だけど・・・どれも子どもたちからは

 

人気ゼロ!

 

借り出されるどころか、子どもたちが手に取ってるところをみたこともありません。

それどころか、読者アンケートカードが挟まったままで残っているくらい、

一度も、だれからも、1ページすら、

めくってもらったこともない状態です。

 

児童書は大人になってから読んでも、深い感慨をもたらすような場合がありますが、もしも子ども時代に出会っていれば、その後の人生にとってどれほど支えになったことか、と思えるような本もたくさんあります。

学校図書館にはそんな本がふんだんに常備されているのですから、ぜひ読んでもらいたいと思うのですが、子どもたちは表紙を見ただけで、

 

「つまんなさそう!」

 

と一蹴します。

 

特に3冊目。

 

「ネコのミヌース」

「オランダのこどもの本の女王」、「オランダの真の女王」と称され、オランダの家庭の本棚には必ずこの人の本があると言われるアニー・M・G・シュミット(アンゼルセン受賞作家)の作品で、人間の姿から元に戻れなくなったネコと同居する新聞記者のお話し。

ネコ好きの女の子にはたまらない1冊だと思うのですが、現実には書架の中でホコリを被っているばかり。

子どもたちからすると、表紙が「イケてない」んだと思うんですよ。絶対。

 

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これだもの・・・。

悪くないと思いますよ?ちっとも悪くない。

でも、「かわいい」の基準って、国によって違うんじゃないかと思うのです。

 

仮にこの本の表紙が、

 

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こんな感じだったら、即、大人気になったことと思います。(イラストはネットからお借りしました)

 

本の表紙って、もちろん、とてもよく考えられていて、どの出版社もすごく力を入れてるんだと思います。

だから軽々に変更できないのもわかります。

でも、本って「読まれてなんぼ」だというのは、極論でしょうか?

いくらいい児童書であっても、肝心の子どもたちからそっぽを向かれたまま、何年も何十年も、ただそこにあるだけなんて、悲しすぎると思うのです。

 

漱石や太宰の本も、人気漫画家が表紙を描いたら売り上げが急増したなんてニュースもありました。

児童書も、ある一定の期間が過ぎたら、その時々の子どもたちの心に訴えるような表紙に差し替えてくれたらいいのになあ、と最近つくづく感じます。

 

ま、無理なんだろうけど。

 

ちなみに、最近ボランティア先の小学校に納入された本の中で、

「これはものすごく人気が出るだろうな」

って思った本があります。

案の定、人気が殺到、なかなか順番が回ってこないくらいの人気なのですが、それもやはり「表紙の力」だと思います。

 

こんなの。

 

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真田十勇士 1 参上、猿飛佐助」 小前亮 小峰書店

 

 ね?全然違うでしょう?

 

 

本を売るのも、お客さんあってのことなんじゃないかと思うんですよね・・・。

表紙って、その本の「顔」みたいなものじゃないですか?

 

名作はいつまでたっても名作。

著作権とか版権とか色々大人の事情があって・・・。

 

もちろんそれもわかりますけど、でもそれって読者関係ないし、自分たちの都合なんじゃないかなあ・・・。

 

どれだけ本が売れない時代でも、子どもを思う親の気持ちって、昔とそう変わりません。なので、子ども向けの本に関しては、親の財布の紐だって緩いのです。他のモノに比べたら。

 

子どもに本を読め読めという割には、出版社って工夫しないんだなあ、って、最近すごーく不満です。

 

 

 

 

 

 

 

 

京極夏彦「えほん遠野物語 かっぱ」

週末になると我が家では、私か夫のどちらかが図書館に行かなくてはなりません。

借りた本を返しに行ったり、予約しておいた本を取りに行ったり。

 

先の週末は、夫が出かけることになりました。

家中に散らばっている本を集めてリュックに詰めながら、彼が言いました。

 

「帰りに買ってきてほしいもの、ある?」

って。

 

水などの重いもの、トイレットペーパーなどのかさばるもの、そういったものは私の負担にならないように、いつも自分が買ってきてくれようとする夫。

こんな時は、やさしい人だなと認めるのにやぶさかではありません(←しぶしぶ)。

 

で、リュックに詰めた本を背負って、自転車で図書館へと出かけた夫が帰宅した気配がしたので、階下に降りていきますと、なぜか夫の姿がない・・・あれ?と思った私は「パパは?」と聞きました。

 

そしたら、子どもが言うのです。

 

「お水は買ったけど、図書館に行くの忘れたからって、お水だけ置いて、もう一回お出かけした。」

 

思いました。

 

認知症かな・・・?」

40代からの介護生活かあ・・・思ってたより長くなりそうな。

 

もちろん、帰宅した夫に問いただしました。「どういうこと?」って。

夫は慌てて否定しました。

 

「ちがうねん!違うねんって!

図書館行って、水買っただけじゃなくて!コンビニとドラッグストアにも寄ってん!

で、ドラッグストア出たところで、「水買わな!」って思って。

でも、水って重いから、家の近くで買おう!思うて、近くのスーパーまで戻ってん。

で、途中でさー、水はリュックの中に入れて持って帰ろう、って考えたら、

「あれ?背中がなんか重いなあ・・・」って思って、あっ!本持ったままや!図書館行くの忘れてた!って思い出してん。

でも家の近くまで戻ってたから、先に水だけ買って持って帰ることにしてん!

・・・用事って3件までしか覚えられへんね。」

 

途中、「背中が重い」のくだりあたりで、大爆笑の私が

認知症の始まりかと思った!」

と言いましたら、

「・・・確かにこの先認知症になったとしても、どっからが認知症の始まりやったんか、その判定が難しそうやな・・・」

と夫がつぶやくので、さらに「うひゃひゃー!」と笑っていましたら、

 

夫「笑ってるけど、ほんとに俺が認知症になったら、お医者さんに怒られるのはあなたなんやで!

なんでこんなになるまでほっといた!

って怒られるんやで!」

 

・・・もしもそんなことになったら、

 

もとからこんなんなんですー!

 

って言うしかないと思うのですが、怒られるのはイヤなので、いっそ先にぼけてしまおうかなって秘かに考えているマミーです。こんばんは。

 

ところで、このところ急に寒くなりましたね。

大阪ではさすがに雪は降りませんが、でもここ数日の朝の冷え込みは、冬がやってきた!と実感させるに十分なものです。

朝はベッドから出るのに勇気がいりますが、今日は「読み聞かせ」のボランティアの日。

いつもより早く出かけなくてはならないので、今朝は久々にドタバタしました。

 

で、遅刻ギリギリに飛び込んだ教室で今日、読んだ絵本はこちら。

 

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 「えほん遠野物語 かっぱ」京極夏彦 著 北原明日香 画 汐文社

岩手県遠野の人・佐々木喜善が故郷で見聞きした怪異の物語を、柳田国男が書きのこした名著『遠野物語』(1910年)。京極夏彦による新たな語りで、初の本格絵本シリーズとしてよみがえる! 他の土地と違って、遠野の河童の顔は赤い... 村の娘が産んだ子は河童だと噂された... 遠野物語の代表的ストーリー「河童」を、人気イラストレーター北原明日香が、美しくゾクゾクする絵物語に仕上げました。(内容紹介より)

 

4年生のクラスで読んだのですが、読んでいる子どもたちの反応は、

 

「しーん。」

 

ただそれだけ・・・。

 

おもしろい絵本ですと、途中で笑い声が上がったり、大阪ですから鋭くつっこまれたり、と教室が盛り上がってにぎやかになるのですが、今日は水の底のように静かになってしまいました。

子どもたちがどう考えているのか、わかっているのかいないのか、確認のしようがないので、こういう絵本は、実は読み手からは人気がありません。

どうせなら、子どもたちの強い反応があったほうが、手ごたえも感じられるというものですから、それも無理のない話しです。

 

でも、私は個人的に、たまにはこんな本も悪くないなあ、と思うのです。

 

少し難解、ちょっと不可思議。

お話しが終わった後で、ノブのないドアの前で少し途方にくれてしまうような、不安なような。

 

そんな物語はきっと一生忘れられない思い出になると思います。

 

今日、「しーん」となって聞いていた子どもたちも、「おもしろくないから」静かだったとは思えません。

真剣に聞きすぎて、ぽかん、と口を開けていた子どもたちが、

「おしまい」

という言葉を聞いたとたん、夢から醒めたように「はっ!」としてこちらの顔を見た瞬間に、

「ああ、とても集中して聞いてくれてたんだな」

と実感しました。

読み聞かせに成功したと感じる瞬間です。

 

よい絵本とは、

読んでいる間、別の世界に連れて行ってくれる本です。

 

物音が遠ざかり、子どもたちはガサゴソしなくなり、ちょっとした出来事、たとえば教室に入ってきた虫、校内放送、風にあおられて飛んでしまう掲示物、そんなことに気づかなくなる・・・よい絵本にはそんな力が秘められています。

(読むのが下手でも、勝手にそうなります。

子どもたちが集中しないとしたら、それは絵本の方が悪いのです。)

 

たぶん、私は今日、ちいさな子どもたちと一緒に遠野への旅に出ていたのでしょう。

そこで赤い顔の河童を見たのでしょう。

 

 「赤」の使い方がとても鮮烈で印象的な絵本です。

 

読み聞かせにぜひ。

小学生くらいのお子さまをお持ちの方にも、ぜひ。

オススメです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

NOだけの夫、めんどくさい妻。

「NOと言えない日本人」

 そんな本が一世を風靡したこともありましたね。(←遠い目)

いや別に、その本の中身についてなにかを語りたいわけではないのです。そもそも読んだこともありません。

 

あえてはっきりと「NO」とは言わないことで、人間関係が潤滑に回っている節もあるのではないかと思ったり、いやいや、やっぱり言うべき時にはちゃんと「NO」って言わなきゃ!って思ったり、日々感想が揺れる問題で、なつかしいどころか、これはなかなか新しい問題ではないだろうかと考えたりもするのですが、今日お話ししたいのは、そんな壮大な問題ではなくて、

 

夫婦間の「NO」について。

 

というより、我が家の夫の話し。

私の話には「NO」としか言わない夫のお話しです。

 

例えば、大昔のある日のこと。

 

私が、

 

「柔軟剤を使うと、タオルの吸水性が落ちる気がする。気持ち悪いから使うのやめてもいい?」

 

って聞いたのです。

 

そしたら夫、

 

「はあ?なんもわかってないなー!柔軟剤を使うから、吸水性がもっと上がるんだろー。」

 

との答え。

 

そうなんだろうか・・・?

確かに柔軟剤を使うとタオルがやわらかくなる気はするけれど、使用後の感覚が「さらっと」しなくて、私はそれが気に入らなかったのですが、夫がここまで柔軟剤推しなんだとしたら、仕方ないかなあ、とその後もお洗濯に柔軟剤を使い続けました。

 

そしたら、また別のある日。

帰宅した夫がものすごーくハイテンションで言うのです。

 

「知ってた?!柔軟剤使ったら、吸水性が落ちるんだって!!」

 

 

・・・だから、それ、私が前に言ったよね?

 

 

私がそう返した時の夫の顔、今でもよーく覚えてます。

できればみなさまにもご覧いただきたかったくらい。

 

「はっ!そういえば!やばっ!」

 

っていう感情を具現化したらこうなります。の見本のような顔でした。

 

きっと夫はどこかの雑誌か新聞なんかで柔軟剤についての記事を読んだのでしょう。

私の(妻の)感想は頭ごなしに否定するクセに、新聞・雑誌の記事はそのまま鵜呑みにするのね、そうなのね、と思った私は、洗面所に直行、速攻で柔軟剤を廃棄して、以降、二度と柔軟剤という物を購入したことがありません。ほんとにそれ以降、一回も買ってません。

私の目が「真っ黒」なうちは、柔軟剤には絶対にこの家の敷居を跨がせないのです!

 

あ、真っ黒、といえば、まっくろくろすけ、できましたよ♡

 

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で、まあ、問題は柔軟剤だけではありません。

私が口を開くと夫はまず「NO」、必ず「NO」、とにかく「NO」・・・

 

「そりゃ違うよ」

「そんなことない」

「そんなわけないだろ」

「違う見方もあるんじゃない」

「そうとも言えない」

 

会話の糸口が必ずこんな風に「NO」から始まるので、正直面倒でたまりません。

 

もちろん、物事を緻密に考えられない私ですから、

一度「NO」を目前に提供されると、違う側面からの考察もできて助かるなって思うこともあります。

ですから、夫の「NO」もあながち無駄とばかりは言えません。

ただ、夫の「NO」に関して言えば、なんらかの思案があっての「NO」ではなく、

ただひたすら、私の言うことに「NO」と言いたいだけ!ってのがひっかかるのです。

 

だってね?

逆は必ずしも真ではないでしょう?

なので、夫の「NO」は時に、回り回っておかしなことに、つまり話しの前後で整合性がとれず、辻褄が合わず、 矛盾の塊になることがあるのです。

なにがキライって、「NO」を言い過ぎて、そんな風に論理が破綻する瞬間ほど大っ嫌いなものはありません。

 

で、あまりにも腹が立って、もう離婚しようかなって思ったこともあります。

 

それはテレビで「臓器移植」のニュースを見ていたときのこと。

 

私が、

脳死による臓器移植は「移行期の医療」という気がする。

いくら脳死からの回復が見込めないからと言って、目の前の家族の身体がまだ温かいうちに、移植提供の話しをされても、すぐには気持ちを切り替えられない。いずれ、もっといい医療が出てくるまでは仕方ないと思うけど。」

 

って言ったら、夫が、

 

「は?脳が死んだら人間はもう死んでるねん。使えるものがあったらなんでも使ったらええねん!」(←夫は超がつく合理主義者)

 

夫の意見を、「そうかもしれないけど、私にはそんな風に簡単には割り切れないなあ」と思いつつ聞いていたのですが、その数年後に突如出現したのが山中教授のips細胞。

 

このニュースを聞いた私は本当にうれしくって、これでもう、後味の悪い小説やマンガ、例えば、

 

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通りすがりのレイディ新井素子著 集英社

 

不老不死の研究のために、試験管ベビーとして産まれた人間の幼児から脳下垂体を取り出すお話しを含む。

 

とか、

 

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輝夜姫」 清水玲子著 白泉社

 

権力者の子どもたちの「臓器提供者」となるためのクローンとして産まれた子どもたちが集められるお話し。大作です。

 

あと、「ドナー」としての人生を語った作品としては言わずと知れた、

 

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「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ著 早川書房

 

とかね。

 

こういった、恐ろしくもやりきれない、切ない作品群が、

「まったく無用の心配だったね!」

と言える未来がいずれ確実にやって来るんだ!と明るい気持ちで夫に言ったのです。

 

「これでいつか、脳死患者からの移植なんて必要なくなる、よかったね!」

 

って。

 

そしたら夫、なんて言ったと思います?

 

 

夫「まあでも、臓器にだって魂があるって説もあるからね。」

 

瞬間、私の頭は沸騰しました。怒りで。

 

「だって、脳死した患者の臓器は使っていいんでしょ?あなた、そう言ったよね?

脳死した人間の臓器には魂がなくて、ips細胞からできた臓器には魂があるってこと?矛盾してないっ?!」(←この時点で私の頭の中から臓器移植の件は吹っ飛んでおります)

 

このときはあまりにも腹が立ったので、数日間、夫とは口もききませんでした。

話しかけられても、

「ぷいぃぃぃっ!」

って、リアルにやってました。ほほ。

 

前に言ったことと、今言ってることが違う、話しの筋道が通らない、その理由が、ただ私に「NO」と言いたいだけなんて、本当に「むかっ!」とする!別に「NO」と言ってもいいけれど、彼の「NO」は条件反射か脊髄反射って感じ、いくら妻との会話でも、せめて「脳」を通った後の「NO」を提示してよっ!とすんごく怒りました。

言わなかったけど。

この場合、沈黙の方がコワかったと思うけど。

 

で、こんな話しを長々と聞かされた男性陣は、きっと思うのでしょうね。

 

「めんどくさい奥さんだなー、もうこっちから離婚しちゃえば?」

 

って。

わかります、わかります。私もめんどくさい女だなあって自覚があります。

でも、安心してください。

 

 

耐えるべきはあなたではない!

 

我が家の夫です!

 

ということで、このエントリーを読んでいるすべての男性が「めんどくさー」と思っている中、ただひとり、

 

「やべー、やばー」

 

と慌てている我が家の夫へ。

 

あらかじめ言っておきますが、今日は奥さんのご機嫌取りにお花を買ってきたりしなくていいから。

だってほら、あなたの奥さん、今「マミー姫」に夢中だからさー。

 

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ね?

だからお花はいりません。

 

で、今。

 

お花がダメなら、ケーキかな!

 

って考えたでしょ。

でも、ケーキもいらないや。

だってさー、あなたの奥さん、最近いくらなんでも太りすぎだから。

あなたがどれだけぽっちゃりさんが好きだとしても、世の中には限度というものがあるのよ、うん。

 

で、今。

お花もケーキもダメ・・・どうしよう!って、パニックになってるでしょ?

 

私もさすがに鬼ではないので、助け船を出してあげるね!

 

あなたの奥さんなんだけどね・・・

どうも明日の朝食用のパンを買い忘れたみたいなのよ・・・だから買ってきてくれたらきっと喜ぶと思うよ!

 

え?

 

素直にメールしろって?

 

 

・・・次からは、そうします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十三と書いて

先日のこと、「はてな」で知って、気になっていた映画を見に行って参りました。

 

cenecio.hatenablog.com



「さとにきたらええねん」釜ヶ崎 こどもの里

 

映画の内容については、どうぞ上記セネシオさまの記事をご覧ください。

 

私から、なにかをつけたしたり、引いたりすることは一切ありません。

深い洞察に裏打ちされた感動的なレビューです。

 

いささか生活に問題を抱えたたくさんの親子。

特に子どもたち。

そのはじける笑顔とたくさんの涙。

飛び交う生の大阪弁

関西地方以外に生活の基盤があるみなさまには、ちょっぴり乱暴に聞こえるであろう言葉の数々、

 

「あかんやろ」

「やめとけや」

「もうええねん」

「あほちゃうか」

 

でもそんな、いささかお行儀の悪い言葉の裏に、どれほどの痛みが、どれほどの寂しさが折り重ねられているのだろうと思うと、映画館の椅子に座って彼らの人生を垣間見ることに、いたたまれないような、申し訳ないような気がしました。

 

で、映画を見てからこっち、

 

「どよーん」と、

 

「どよよよーん」としております。

 

ドキュメンタリー映画ですから、登場人物は映画の中の世界を実体験として生きているのでしょう。

見ていて「こんなひどい親が」と感じるのは、とても自然な感想だと思うのですが、私にはどうしても、この映画に登場する人々を、心から非難する気持ちにはなれませんでした。

 

私自身、自分がいい親であるなんて小指の先ほども思えませんし、

なにより、この映画の中に出てくる問題を抱えた親たちも、

「わざわざ出かけて行って」

「知らない人にまで」

「故意に」

害をなすような人たちには見えませんでした。

 

なので、どうしても思ってしまうのです。

「万一彼らが、子どもを持たない人生を歩んでいたとしたら、誰かにこんなにも非難がましい目で見られることがあっただろうか」と。

 

一方で、きっといい親になるに違いないと思われるのに、なかなか子宝に恵まれない人もいます。

 

もしも、数多いる神さまの中に、誰にどの子どもを授けるかを決めている神さまがいらっしゃるのなら、

 

 

「下手くそ!」

 

 

と叫びたい気持ちをぐっとこらえてその足下にひざまずき、

 

たとえ、神さまの目には虫けらのように小さい存在にうつったとしても、

子どもに関する事柄については、人の痛みや苦しみは言葉に尽くせないほど大きいのです、どうかもう少し、丁寧で思いやりのあるお仕事ぶりを。

 

と願わずにはいられない気持ちになりました。

 

で、どよーんの気持ちから浮上できないままでは暗すぎるので、今日はこの映画を上映していた街をご紹介。

 

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阪急「十三」駅。

漢数字で「十三」と書いて「じゅうそう」と読みます。

 

松田優作のハリウッド出演作「ブラック・レイン」のロケ地として、一時ちょっぴり話題になりました。ずいぶん昔の話しになります。

今は「松田優作」を知ってる人なんていないのかも…。

 

2014年には十三駅西口すぐ、通称「しょんべん横丁」で出火、大騒ぎになりました。

 

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長い間、焼け跡にはフェンスが建てられているだけで駅が丸見えになっていましたが、最近ではまた小さい店舗がびっしりと立ち並んできています。

「昭和」へのノスタルジーと見るか、ただの汚らしい飲み屋街と見るか、それは評価のわかれるところ。

 

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 こちら、当該映画がかかっていた「第七藝術劇場」。

 

とても小さいミニシアターですが、収益にのらないような映画でも果敢に上映している映画館です。

 

実はこの「十三」という街、私が通っていた高校のご近所で、つまり私の高校時代の思い出が詰まった場所でもあります。

 

店舗の入れ替わりが激しい商店街や、飲み屋さんがひしめき合う細い通り、それから巨大なラブホテル街。

無秩序と混沌が同居した街ですが、ほんの少し北側には淀川の堤防も。

 

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高校時代、同級生とこの堤防の上を駅まで歩いたものでした。

ここから見える淀川の風景は、当時とあまり変わりません。

 

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でも十三大橋の向こうにそびえたつグランフロント大阪は最近の光景。

 

 

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そして阪急電車

沿線には高校や大学が乱立しているので、この電車のカラーは多くの関西出身者に学生時代の思い出を彷彿とさせます。

 

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日暮れの迫る淀川通り。

 

高校時代、この道を何度往復したことでしょう。

同じ道に立っていながら、ずいぶん遠くまで来た気がします。

 

映画に出てくる子どもたちは、傍から見れば過酷な運命にあるようで、

でもたくましく、人を思いやる心をちゃんと持っていました。

そんな彼らを全力で助ける人がいることも知りました。

 

多くの言葉でなにかを語るよりも、

この道の先に、それほど「悪くない」未来が続くことを、ただ祈りたくなる一日の終わりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カレンダー

先日のことですが、

仕事先で、重い荷物を運ぼうとした時のこと。

あまりにも重かったので、さすがに手で運ぶのは無理だなあと思って若い同僚に聞いたのです。

「台車はどこですか?」

って。

 

しばらく考えていたその同僚、

「確か・・・あ!あそこですよ!」

と言って、ぱあ!っと走り出しました。

 

慌てて追いかけながら思いました。

 

「は、走るの?別に走らなくてもいいやん!廊下は歩きましょう、って小学校でならったやん!」

 

って。

台車の収納場所は遠かった・・・。

 

最近はなにをやっても衰えを感じる毎日、

しかも今、「廊下」と入力したら「老化」が先に変換されて、すっかりブルーなマミーです。

こんばんは。

 

ところで、アメリカではトランプ候補が勝ちましたね!

まさかと思っていたので仰天しました。

 

最初に思ったのが、

 

プーチン大統領、うれしいだろうなあ」

 

ってこと。

 

選挙結果の翌朝、NHKで放送されるロシアのニュースを見ていたら(←同時通訳でね!)議場でも拍手喝采でしたので、

 

「敵はアホな方がええんやで!」

 

も、ここまであからさまだと、いっそ清々しいレベルだな、と思いました。

 

で、思ったんですけど、

トランプ候補ってよく、自己顕示欲の塊ですごく目立ちたがり屋、って言われますが、プーチン大統領だって、きっとそうだと思うのです。

 

陽気か陰気かのイメージの差はありますが、

プーチン大統領だって、ぜーったい!自分のこと大好きな目立ちたがり屋だと思います!(←確信)

 

でないと毎年毎年、自分のカレンダーが発売されたりするの、とても許容できないと思うんです。

こんなの。

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人気らしいですよ・・・。びっくり。

 

・・・いいとも悪いとも言ってませんよ?言ってませんから!

 

でも、個人的には、毎日プーチン大統領に見張られているような一年はちょっと抵抗あるなあ、って感じるんです。

この笑顔が一層コワいというか。

 

やっぱりカレンダーはかわいい♡とか、キレイ!とかがいいと思うのです。

 

で、ですね・・・。

 

来年のカレンダーと言えば!

私、すっごいのをゲットしたんです!

ほんとすごいんだから!

 

じゃじゃーん。

 

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ほら!ほらほら!

 

ハリネズミのハーリーちゃんのカレンダー!

すごくないですか?

抽選に当たったんだもんねー!(←自慢)

去年いただいたハーリーちゃんの写真集と並べたらかわいさも2倍に!

 


モフモフとつんつん。

我が家に「かわいい」と「癒し」に満ちた2017年が到来しそうです。

 

チコ次郎さん、本当にありがとうございました。

 

お礼と言ってはなんですが、近々、ハーリーちゃんに、ちょっぴり大きめのお座布団が届きます。

 

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またこのお座布団でハーリーちゃんのかわいい写真をたくさん撮っていただけたら、私も本当に幸せです。

つ、使ってね!お願いっ!

 

 

 

で、またまた話しは変わるのですが。

 

先日、Googleから、

「あなたのパスワードを使ってGoogleアカウントにログインしようとした人がいます。」

のメッセージが届きました。

 

びっくりしてパスワードを変えたり二重認証にしたりしたのですが、

その後、「はてな」からのメールが以前のようには届きません・・・。

 

機密を保持しつつも、使いやすくなるような方法はきっとたくさんあると思うのですが、相変わらず機械に弱くて何事もスムースにはいきません。

 

しばらく、コメントのやりとりについても見落としや不義理があるかもしれません。(元からって?・・・す、すみません・・・。)

 

「ああ、相も変わらず機械に振り回されてるんだなあ」とどうかご寛恕いただきたく、伏してお願い申し上げます。