小学校での読み聞かせで気をつけたい3つのこと。

みなさま、こんばんは。

 

先日、今年最後の読み聞かせに行って参りました。

今回読んだ絵本はこちら。(ちなみに1年生が対象です。)

 

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「おおかみペコペコ」 宮西達也:著

お腹が空いたおおかみペコペコが見つけたのは・・・「ダイコン」。

1本2本・・・バクバクバク。10本20本、もぐもぐもぐ・・・ダイコンだって悪くないけど、ほんとはネズミやウサギ、ニワトリやブタなんかが食べたいなあ・・・。

 

くりかえしのフレーズが楽しくて、子ども達の反応も上々、読み手も楽しくなる1冊。

読み聞かせにぴったりの絵本です。

 

もう1冊。

 

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「おばけだじょ」 tupera tupera:著

こわいじょ、こわいじょ、おばけだじょ・・・カラフルで明快な絵、ちょっと意外な展開、おもしろくって楽しい、印象的なお話し。

 

短めで勢いのある絵本で、低学年の子どもたちに特にオススメ。

読み終わって教室から出るときにはもう、室内で「おばけだじょ!」の声が飛び交っていて、子どもたちが楽しんでくれたのがよくわかってうれしかったです。

 

 

 

今年も子どもたちにたくさんの絵本を読みました。

読み聞かせは授業とは違いますし、あくまでボランティア活動ですから、あまり難しいことや、レベルの高いことは求められていません。

けれども、いくらボランティアで子どもたちが相手とは言え、最低限これだけは気をつけた方がいいということもあります。

今日はそれを3つほど紹介したいと思います。

 

1.親切すぎない。

世間には、小さい子どもを相手にすると、やたらと手取り足取りしてしまいたくなるという人がいます。女性は特にその傾向が強い気がします。

絵本を読んでいて少し難しい言葉が出てきたとき、そういう「親切な人」は往々にして、読むのを中断し、いちいち言葉の意味を説明し始めたりします。

 

たとえば「かまど」「鋤・鍬」「厨(くりや)」など。でも・・・。

 

不要です。

 

確かに昔ばなしなどには、現在使われていない言葉も出てきますが、その意味を補完するために、挿絵がとても上手に活用・工夫されています。

子どもたちは、読み手の話を聞きながら、一生懸命挿絵を見ていますから、いちいち説明しなくても大丈夫ですし、なにより、物語の世界に入り込もうとしている子どもたちを、何度も現実の世界に引き戻す必要はありません。

知らない単語があったとしても、子どもたちは前後の脈絡で意味を汲み取ろうと努力しています。どうしても気になるときは、読み終わってから説明してあげた方がいいと思います。

 

2.感想を押しつけない。

読み終わった後で、「おもしろかったねー!」って自分で言う人がいます。

別にかまわないと思います・・・悪気があるわけじゃなし・・・。

でも、できたらおもしろかったかどうかは、子どもたち自身の心にゆだねてほしいと思います。

常に生活をともにして、言葉にせずとも何かが通じ合っている親子間の読み聞かせとは違い、小学校での読み聞かせというのは、不特定多数の「他人」に向ってするものです。

なにをおもしろいと感じ、なにをつまらないと思うかは、読み手の想像の範囲を超えています。

よかれと思って読んだ絵本が、まったく響かないこともあります。

共通の認識なんてありえないのです。それが当たり前なのです。

中には、

「ここでこう言われたから、この子は悲しかったんだねー。」

なんて解説をつける人や、

「こうなったらダメだから、こんな風に言われたら〇〇するようにしようね!」

なんてお説教を始める人もいますが、私はそんな光景に出くわすたびに、後ろにのけぞりそうになります。

読み聞かせは道徳の時間ではありませんし、自分の考えを開陳する場でもありません。

子どもたちがどんな感想を持ったとしても、それについてはそっとしておいてあげてほしいと思いますし、読み手の考えや倫理観を押しつける時間にはしてほしくないと思います。

 

3.改ざんしない。

自分で読んでみた絵本を、結末が気に入らないからと言って、勝手に変更してしまう人がいます。

びっくりしますが実在します。

でも、それは「余計なこと」の典型的見本のような行為です。

絵本や物語は、何十年、数百年もの時間を生き抜き、語り継がれてきたものや

新作であっても、何人もの目の肥えた「プロ」の手を経て、

今、私たちの目の前に、本の形になって存在しているのです。

 

素人が適当に手を加えて、もとのかたち以上のものになるような、そんな簡単なものではありません。

変更して、より素晴らしいものになるならともかく、たいていは「ぐだぐだになる」のが必定ですから、仮に絵本に気に入らない点があるのであれば、別の絵本を用意すればいいだけのこと、自分の意見は脇に置いて、とにかく素直に読むのが一番なのです。

 

 

・・・なーんてことを、目の前ですぐに、直接言えたらいいんですよ、本当は。

 

でも・・・読み聞かせのグループって、基本的にご近所の人たちで構成されているので、こんなこと、天地がひっくり返っても言えそうにありません。

「マミーさんって偉そうよねー、何様のつもりなんだろー。」

なんて言われたくないじゃないですか、ねえ?

 

こんなところで書き散らしていないで、直接言えたらいいんでしょうけれども、きっと何年経っても無理だと思います。とほほ。

 

お調子者に見えて、意外と気をつかって生きてるんですよ?

 

・・・ほんとですってば!

 

ということで、「角が立たない話し方講座」とかがあったら受けてみたいなあ、とつくづく思う今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はてなさんにお願い・・・。

 

先日、とてもうれしいことがありました。

 

コメント欄でお話ししていたことをきっかけに、

セネシオさまが記事を書いてくださったのです。

 

cenecio.hatenablog.com

 

はてな」を始めてから、コメント欄でいろんな方といろんなお話しをするようになりました。

自分の生活や興味にとても近いことから、まったく門外漢のことまで、「はてな」には幅広い話題や経験があふれているので、毎日が「へえ!」と驚いたり、「なるほど」と納得したりの連続になりました。

 

読んでいるだけでもとても楽しく、好奇心を刺激される毎日ですが、

コメントのやりとりを通じて、まったく未知の方々と、お話ししたり情報や感想のやりとりができるのって、すごいことだなあ、幸せなことだなあとつくづく思います。

 

今回、セネシオさまが記事に取り上げてくださったマーガレット・ワイルドの「キツネ」は、私が最近、強い衝撃を受けた絵本なのですが、その衝撃というのがあまりにも大きすぎて、冷静にレビューすることなんて、私にはとてもできそうもありませんでした。

 

キツネの最後のセリフを初めて読んだ時なんて、「ひぃぃぃ・・・」という感想しか出てきませんでしたから、セネシオさまの記事を読んで、やっぱりすごい!さすがだなあ!と感嘆してしまいました。

 

この「キツネ」という絵本については、セネシオさまのブログを読んでいただくのが一番だと思うのですが、一応絵本の情報と感想だけ。

 

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「キツネ」 マーガレット・ワイルド:著 ロン・ブルックス:絵 寺岡襄:訳

BL出版

 

現在、この絵本はどこの小学校にもありますが、できれば大人の方にこそ読んでほしい1冊です。

孤独、嫉妬、暗い情念、そして絶望。

1冊の中にこれほどまでに「負の感情」が詰め込まれている絵本はめったにあるものではありません。

書店ならともかく、私がこの絵本を見つけたのは小学校図書館ですから、出会った時の戸惑いはさらに強く、甘いキャンディーだと思って食べたらキャンディーの形をしたワサビだった!くらいの衝撃を感じました。

 

また、正直に言って、この絵本は学校での読み聞かせに向いているとは言えません。

とにかく「読みにくい」からです。

こんな感じ。

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ロン・ブルックスの手書き文字によって構成されている原作に忠実に、日本語版も手書き文字で書かれています。(ちなみにこの手書き文字は人気絵本作家:川端誠氏のもの)

レイアウトにしても、縦書き・横書きがひとつのページに混在しているので、読みづらいことこの上ありません。

 

でも、これも作者の思惑通りなのでしょう。

 

なぜなら、この絵本は「さらっと」立ち読みしていい本ではないからです。

目を凝らし、本に顔を近づけて、じっくりと一生懸命に向き合うべき1冊だからです。

 

荒野から、遠吠えひとつ残し去って行ったキツネ。

本当の嫉妬を知る者だけが、その胸中を知ることができるでしょう。

 

読者はキツネの暗い情念と、真っ正面から向き合うことを余儀なくされます。 

無意識に鏡をじーっと見ていたら、思いもかけず己の最も醜い部分を、鏡の中の自分に見てしまったような、焦燥感が残る読後感。

いささかつらい読書体験になるかもしれませんが、読んでおくべき1冊という気がします。

 

 

ところで、この絵本の作者、マーガレット・ワイルドとロン・ブルックスは、

「ぶたばあちゃん」という絵本も出していて、そちらもとても有名です。

 

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「ぶたばあちゃん」 あすなろ書房

 

この世界にあふれる歓びと希望の輝かしさ、

それを守ること、慈しむこと、

そしてそれらを誰かに引き継ぐこと、

そのあとで正しくお別れをすること。

一番いい方法でさよならを言いあうこと。

 

「キツネ」と同じ作者が書いたとはとても思えない1冊です。

共通点と言えば、こちらも読み聞かせには使えませんってことだけです。こちらは感動のあまり泣いちゃうからね・・・。

 

やはりコメント欄で、絵本「わすれられないおくりもの」についてお話ししてくださったりんさん((id:miyamarin))におススメの1冊です。

おばあさまとの思い出を大切になさっているりんさんなら、この絵本との出会いはきっと貴重なものになるでしょう。

 

 

こうして、「はてな」やそのコメント欄は、私の日常に様々な影響を与えてくれます。それらのほとんどは、私の心を豊かにしてくれるものです。

 

志月さんの「遠野物語」についての記事を読んだ時もそうでした。

 


 

はてな」の中で、誰かが置いたおはじきを、他の誰かがそっと拾い上げたり、磨いたり、そこから話しがどんどん広がって、「ああ、そんな見方が!」と驚いたり、「そうそう!そうなの!」と共感し合ったり。

 

それって、本当に幸せなことだと思うのです。

 

仮に現実の世界で、セネシオさまやりんさん、志月さんのように教養の高い人たちが目の前にいたとしたら、気後れと緊張のあまりなんにも言えなくなっちゃいそうなのですが(口を開くと「あほ」がバレちゃう!・・・もうバレてるって?ありりー)、でもそんな素晴らしい方々と、今こうして交流が持てることは、私にとって望外の喜びなのです。

たとえ生涯おめもじ叶うことがなかったとしても、ここでこうして交わしている会話も、実体のあるものとして、大切なものであることに変わりはありません。

 

ということで、「はてな」さん・・・。

 

早くコメント欄の不調、直してくださーい!

 

お願い!

 

 

 

 

ギフト選びと事件発生

 

クリスマスが近づいてまいりました。

毎年、この時期になると、クリスマス用のプレゼント選びが大変です。

特に海外にいる友人への。

送るための手順が面倒でたまらないんですよね。

 

ねー、志月さん。

 


 

一番のネックは「航空貨物運賃」

あれ、やたらと高いんだもの・・・。

 

私の場合、志月さんとは違って、たいしたものを送るわけでもないので、

「こんなものを送るためだけに、高い貨物運賃を払うのかあ」とちょっと気鬱になります。

今年なんて、フランス在住の友人のひとりがリクエストに挙げたのが、

 

「お茶漬けのり」

 

ですよ?

 

いいけども。安くて。何にしようか悩まなくていいし。

で、クリスマスのギフトをスーパーの棚で選ぶ私・・・。ちょっと斬新。ほほ。

 

日本語勉強中の、別の友人へのギフトは絵本にしました。

今年一番話題になった、あの作家の絵本。

 

そう。

 

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 「もうぬげない」 ヨシタケ シンスケ:著 ブロンズ新社

 

今年の絵本界はまさに「ヨシタケ シンスケ」が席捲しましたね。

「りんごかもしれない」

「ふまんがあります」

「りゆうがあります」

「このあとどうしちゃおう」

「ぼくのニセモノをつくるには」

「なつみはなんにでもなれる」

 

どれもほんとに楽しくて、絵本界に新風を吹き込んだ!と言っても過言ではないと思うのですが、

なかでも私のイチオシが、上記の「もうぬげない」なのです。

 

表紙の絵をもう一度見ていただけますか?

 

お洋服を脱がされている男の子、お顔は見えていませんが、お腹が顔になってるんですよね。

 

絵本の中でも、男の子の顔は隠れたままなのですが、「お腹の顔」にちゃんと表情があるのです。そのすっとぼけた「お腹の顔」の楽しいことと言ったら!

 

もうひとつ、この絵本の良さをあげるとしたら、

それは「おかあさんの表情」。

 

日本の育児は「母子の密着」が顕著ですから、絵本の中で「おかあさん」というものは、聖母のごとき描かれ方をします。でも、この「もうぬげない」の中のおかあさんは、ちょっと違います。

小さい我が子の要領の悪さを前に、温かく見守る笑顔ではなく、

 

「もう、また・・・なにやってんの。」

 

と言いたげな表情。

 

毎日の育児に追われているお母さんたちにしてみれば、こんな表情こそが本物であると頷きたくなるような1冊です。

子どもにとって母親の果たす役割は海よりも大きいとわかってはいても、母親だってひとりの人間、そうそういつも「聖母」のようではいられない・・・理想と現実の間でちょっと疲れたお母さんたちに、この絵本のおかあさんのお顔を見てもらって、「ま、いっか。」と肩の力をちょっとだけ抜いてほしいな、と思います。

 

漢字も少なく、難しい表現方法もないので、日本語勉強中の友人にもきっと気に入ってもらえると思います。

 

で、プレゼント用にこの絵本を包装してもらい、

「これで後は送るだけ!」

と自宅に帰ろうとしていたとき、「事件」が起こりました。

 

3歳くらいの男の子が、歩道に寝っ転がって泣いているのです。

あきらかに「駄々をこねて」泣いている感じなのですが、あたりを見回してもおかあさんがいない・・・。

 

困りました。

いまどき、これくらいの年齢の男の子が、ひとりで駅前をウロウロしているのを見たことがありません。

スルーするわけにもいかなくて、声をかけました。

 

「ボクどうしたん?ママは?」

 

って。

 

アスファルトを涙でぬらしていた男の子はふと泣き止んで、片目で私を見ています。

やっぱり「駄々をこねて」いたんだな、どこかが痛かったら泣き止まないもの、私を観察してるんだなーと思った私は彼の近くに腰をかがめて、頭をなでて言いました。

 

「ママは?ママはどこ行ったん?道路、冷たいやん、さあ、起きよ。」

 

って。

 

でも、無言なんです、男の子。

うんともすんとも言わない。

困ったなあ、と思って、ほっぺたをツンツンしながら、さらに言いました。

 

「ほら、起きないとほっぺたツンツンしちゃうぞー!」って。(←もうしてるけど)

 

・・・でも、無言。

 

変だなあ、と思いました。

たいていの男の子は「ツンツンしちゃうぞー!」で、なんらかの反応があるものなのですが。

 

これは困った、本格的に迷子なんだろうか、一番近くの派出所はどこだっけ?って考えていたら、やっと彼のお母さんかお姉さんらしき人が現れました。

 

そしたらね、外国人だったの・・・。

言葉から察するにタイかミャンマーからの観光客。

 

そら、日本語、通じないわけだ、と思うと同時に私がパニック。

 

「子どもの頭って、触ったらダメな国じゃなかったっけ?」(どこかにそんな国があったような・・・。)

 

でももう遅い・・・なでちゃった後だもん・・・。

帰宅してからもずーっと、

 

だって、だって、日本では泣いてる子どもの頭ってなでるもんだし、ここ日本だし、日本人だと思ったんだし、いや、でもやっぱり余計なことしたかなあ、頭はなでるんじゃなかったなあ、で、でもでも!そもそも、いくら日本が安全な国だからって、外国に観光に来てて子どもの手を離したらダメなんじゃない?!

 

とぐるぐるしております。

考えすぎて疲れ果てました。ぐったり。

 

あ、疲れたと言えば。

 

はてな」なんですが、最近コメント欄の不調に悩んでおります。

 

少し前に、ブログを表示したら、古い記事にいただいたコメントが表示されることがあって、まあそれはすぐに直ったのですが、そのころから、明らかにコメント欄がおかしいのです。

 

まず、いただいたコメントにお返事を書き込みましたら、そのコメントが消えてしまいます。表示されないのです。

あれ?と思って、もう一度ブログを表示し直しますと、確かにコメント欄に投稿されているのですが、自分のコメントを確認するには、いちいち読み込みをし直さなくてはなりません。

 

私のブログだけでなく、他のブログにコメントを書いた場合でも、同じことが起こる場合があります。

 

生来の「いらち」な性格がイライラを助長し、疲労困憊・・・。

 

このままだと「はてな」がキライになってしまう、 どうしてこんなに機械と相性が悪いんだろう、と嘆いていますと、

 

はてなの運営に問い合わせたらいいやん」なんて夫が気楽に言うのですが、

 

 

「なんか恥ずかしいからイヤ」(←意外なことに人見知り)

 

 

 って言ったら相手にされなくなりました。とほほ。

 

しばらくして、日々の生活に少しゆとりが出てきましたら、「ブログの読み込み直し」くらい、苦にならなくなるかもしれません。

なので、しばらくの間だけ、拙ブログのコメント欄は閉じることにいたします。

(代わりにブックマーク欄を開けておきます。なんらかのご用命がある場合、そちらにお願いいたします。)

 

みなさまのコメントがあって初めて成り立っているブログなのに・・・。

ただいまかなりの傷心中。

 

機械に弱い人って、

「しばらく放置してる間に直ったらいいな♡」

がデフォルトなんだな・・・とお察しいただければ幸いです。

 

 

追記

先日の記事に、本日いただいたコメントへのお返事をこちらに転載させてください。

 

 七夕の夢子さま、こんばんは。 年末、押し迫った頃にボランティア・・・それは頭が下がります。なかなかできることではありません。 寒い時期ですから、どうかくれぐれもお気をつけていらしてくださいね。 ご活躍をお祈りしています。

 

 ねこさん、こんばんは。 まあ!ねこさんってお嬢さま!って感じですね。 確かにねこさんにトイレ掃除は似合わないような・・・ほほ。 机の移動って、子どもには重労働なんですよねえ。ねこさんがしんどかったのもわかります。 コメントありがとうございました♡

 

Jさま、こんばんは。 確かに不特定多数の人が使うと汚れてしまいますね・・・自分がお掃除するわけじゃないから余計ですね・・・。 でも、今回つくづく思ったのですが、みなさまこうしてお掃除の思い出があるんですねえ・・・。 年齢、出身地、男女の違いがあってもそれは同じ・・・。 それって、なかなか素敵なことだなあって、今、しみじみしています。 コメントありがとうございました♡

 

 

 

 

 

学校って。

みなさま、こんばんは。

 

先日、またまた近所の小学校へボランティアに行って参りました。

で、読み聞かせは滞りなく済すみまして、さあ帰ろうとしたら、

3年生の男の子が、廊下で「ぴょんぴょん」跳んでいるのを見かけました。

 

小学生男子なんて、「落ち着きがない」ことを全身で表現しながら生きているようなものですから、普段はあんまり気にもとめないのですが、このときは、あんまりにも「跳んで」いるので、聞いてみたのです。

「なにやってんの?」って。

そしたら、その小学生男子、叫びました。

 

「おしっこ行きたいねん!」

 

なので、言いますよね?

 

「トイレに行ったら?」って。

 

すると彼、またまた叫びました。

 

 

「学校のトイレ、汚いから行きたないねん!」

 

 

驚愕。

 

そんな理由で?!とびっくりした私は、トイレに行くよう、さらに強く彼に促しました。

 

でも、

 

「いやや!」

 

がエンドレスでリピート、

「ずっと我慢していたら、そのうち行きたくなくなる!」と、こちらの話しは全く通じません。

 

このままでは彼が膀胱炎などの病気になってしまうかも、と思った私は、頭をくらくらさせながら、職員室に寄って担任の先生に、彼の指導をお願いしました。

 

担任の先生もびっくりして、指導を約束してくれたのですが、

その先生が私に言うのです。こっそりと。

 

「マミーさん・・・ボク、病気かもしれない・・・おしっこしたら痛いんですよー。」

 

・・・この親にしてこの子あり、いや、違った、この先生にしてこの児童あり・・・

私はさっきの児童に対するのとおんなじテンションで言いました。

 

「さっさと病院に行ってくださいよ!

てか、もういい年なんだから(←先生と私は同じ年、しかも我が子の元担任)、そろそろ落ち着こう!奥さまに「めっ!」されても知りませんよっ!」

 

違う、違うねん、そんなんじゃない!という先生の慌てっぷりを、あーはいはい、そーですかー、だったらいいねー、と軽く聞き流して帰宅しましたが、読み聞かせのボランティアも長く続けていると、学校の先生もかなり「素」が出ちゃうんだなーという感慨を深くしました(←先生の性格にもよります)。

先生方と、お子さまの学校での過ごし方などについて、ちょっぴり踏み込んだお話しを、フランクにしてみたいとお考えの方には、読み聞かせのボランティアをぜひオススメします。

え?別に聞きたくない?

我が子の学校での「本当の姿」、知るのがコワい?

わかります、わかります。

でも、後々きっと、いい笑い話になりますから!・・・たぶんね・・・。

 

ということで、読み聞かせボランティアは常に新しいメンバーを募集中です。

やってもいいな、と思う方はお近くの小学校へGO!

 

 

ところで今回のことで、改めてしみじみと思ったことがあります。

 

まず「考えたら学校って汚いよなあ」ってこと。

なにしろ学校ではお掃除するのが生徒自身。

いくら先生方が指導・監督しているとは言え、ついこの前まで幼稚園に通っていたような子どもたちがお掃除するのです。完璧なはずがありません。

窓には手型、取っ手には手垢、お部屋の隅にはホコリがごっそり・・・。

なので、学校では、ありとあらゆる雑菌、細菌、ウィルスが、子どもたちを相手に

 

「次はわたし~♡」

 

「やあ、また君か!」

 

 とフォークダンスを踊っているような状態・・・家庭でどれほど「清潔」を心がけていても、そんな努力は一度の登校で、すっかり水泡に帰していると考えてまちがいありません。

 

もちろん、だからといって海外の学校のように、掃除を子どもたちではなく、専門の業者に任せることには大反対です。

子どもたち自身でお掃除するからこそ、高い道徳心や責任感を身につけることができるのですから、掃除の時間もれっきとした「勉強」であり、「授業」だと思っています。

 

でも。

やっぱり、やっぱりね、

時々でいいので、たとえば1ヶ月に1回とか、1学期に1回とかでいいので、

専門の、プロの業者さんに、学校をお掃除してもらったら、随分ちがうんじゃないかなあとも思います。

 

最近の学校では転落防止のためか、窓もほんの10センチくらいしか開かなくなっていて、そうすると、外側の汚れは拭くことすらできません。

子どもたちでは届かない高所、そもそも築年数が古すぎて歪んだタイル、染みついた油性ペンの汚れ、なにもかも、学校内で対処するにはどうしようもない汚ればかり。

 

子どもたちって、さっきのトイレに行きたがらない男の子もそうですが、「自分で汚すくせに、汚いのは嫌がる」ものなのです。

ちょっと甘やかしすぎかも、とも思いますが、でもたまに徹底的にキレイにしてあげた方が、子どもたちも学校内で清々しく生活できるんじゃないかと思います。

 

ということで、私が所属するボランティアでは、夏休みなどの長期休暇の間に図書室内の清掃も行っています。

 

もうすぐ冬休み・・・。

また自宅からお掃除グッズを持ち寄って、必死のお掃除をしなくてはなりません。

 

自宅の大掃除もいいかげんなのに・・・。

憂鬱な年末に、さらに憂鬱さが加わりますが、お掃除の後でボランティアのメンバーとおいしいものを食べに行くことを楽しみにがんばります。

 

 

でもお掃除キライなの・・・とちょっと愚痴っときます。ええーん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嫁姑間の会話に想定問答集があったら即買いします。

 

今は昔、と言いたくなりますが、

我が家の夫は結婚当時、食べ物の好き嫌いが多くてとっても苦労いたしました。

 

煮物、煮魚、酢の物、梅干し、お漬け物、こんにゃく、春雨、イカにタコ、しいたけそれから茄子に里芋、刺身にお寿司、野菜炒め、辛いもの、苦いもの・・・おまけに猫舌

 

あまりに多くて何を作っていいのやら・・・嫌いなものは細かく刻んでカレー(←甘口ね)に入れたり、ベーコンで巻いて濃いめの味付けにしたり、あれこれ工夫したものでした。

 

そんなある日のこと、夫の親族の法事に出席しましたら、

夫の伯父や伯母が言うのです。

 

「この子(←夫のことね)、好き嫌いが多くて大変やろう。この子に合わせとったら食べるもんないからなあ。」

 

って。

 

私が「はあ・・・いえいえ」と適当に相づちをうっておりましたら、

夫の偏食がいかにひどいか、の話題でその場が盛り上がっていきました。

 

その時、私はまだ結婚したばかりで、伯父や伯母の顔や名前もうろ覚えでしたから(今も、という説もあり)、まだまだ半分他人のようなもの、なので、そんな話題も、「親族による謙遜」という印象で、黙って聞いていました。(っていうか、口は一切はさめないんですよ、だって大阪のおじさん、おばさん達のマシンガントークですからね・・・)

 

なので、その後、義母とふたりになったとき、

その話題に義母がカンカンに怒っていたのを知って、びっくり仰天しました。

 

「ちょっと好き嫌いが多いからって、あんなこと言わなくてもいいのに!

あの子のいいところは私にしかわからないんだから!」

 

って。

 

確かに夫が「からかわれていた」ような気もするのですが、

新婚ほやほやの男性なんて、からかわれるのがお約束だと思っていたし、親族のおじさんやおばさんなんて、基本「口さがない」ものではないですか?

 

ですから、義母がこんなにも怒っているのを、ちょっと意外に思いつつ、

すぐに私は「次になんて言うべきなのか」を考え始めました。

トロい私にしては必死で、最速で頭の中をフル動員して、この場で最適な「嫁としての」言葉を探したのです。

 

で、一番穏当なのは、

 

「私はわかってますよ、ちょっとくらい好き嫌いがあったとしても、そんなことくらいで夫さんのいいところは減らないですよね」

 

って感じかな、と思ったのですが、結局なーんにも、言えませんでした。

 

だって、お義母さん怒ってたし、

「(母親である)私にしかわからない!」って言ってるのに

私が「いや、わかってます」なんて返したら、

 

「あんたなんかに何がわかるのよっ!」

 

って余計に怒らせるんじゃないかと思って。

 

「息子のことは私が一番わかってる!」の自負を、私が打ち壊すべきではないのかなー、と気を使ったつもりなのですが、今でも正直、このとき私がなんて言うべきだったのか、最適で最高の返事はなんだったんだろうと、答えが出せずにいます。

 

(ちなみに、親戚のおじさん、おばさんたちが、夫のことをからかったり、笑ったりしていても、それに私が抵抗できるわけもないと思うんですよね・・・。

だって、私は夫と「血縁」があるわけじゃなし。

”ちょっと来たて”の嫁の立場で、親族の中の目上の人たちに反論できる気がしません。

たとえ義母が怒っているのを知っていたとしてもです。

何回考え直してみても、夫のおじさん、おばさん達に対してなにかを言い返すなんて、逆立ちしてもできそうにありません。)

 

思うに、「妻」の立場って、本当に不思議なものですよね。

 

だって、そもそも他人なのに、いきなり夫にとって一番「近しい」身内になるのですから。

 

夫にとって最も「近い身内」として、私はこれからも他人に向っては、夫について謙遜し続けていくのでしょう。

それは身内を自慢の種にはしない、という日本人らしい思考の発露であって、私がこの思考方法から簡単に抜け出せるとは思えません。

 

ただ、夫の母に対しては、私は夫の「もっとも近しい身内」の立場を、いつでも譲らなくてはならないのでしょう。

なので、義母が一緒の時には夫のことを褒めちぎっておきます。

いい夫でいい父親ですって。なんの不足も不満もありませんって。(←ちょっと嘘まじり。)

 

ほんの少しの悪口でさえ、義母の前では決して言わないようにしているのですが、

そんな私の「トップシークレット」は、もちろんこのブログです。

 

お正月が近づいてまいりました。

親族が集まる機会も一気に増えます。

 

「うっかり」がやたらと多い夫に、

なにがあっても!絶対に!口が裂けても!

このブログのことは言ってはいけない!と念を押しておかなくてはなりません。

 

 

義母と会う前には、いつも、必ず、義母の

「あの子のいいところは私にしかわからない」

の言葉を思い出します。

20年近くも前のことなのに、未だにあの時、「なんにも言えなかったこと」が悔やまれます。

 

たとえ、「あんたなんかにわからない」と言われたとしても、

たとえ義母をもっと怒らせることになったとしても、

やっぱり、私は「彼のいいところ、ちゃんとわかってますよ。」って言うべきでした。

 

そうすれば、最愛の息子をけなされて、ちょっと傷ついたように見える義母の横顔が、少しは和らいだのではないかと思うと、今でもそれが私の痛恨事なのです。

 

義母は絶対あの日のことを忘れていることでしょう。

 

それでも私は忘れていません。

20年近く、同じことをいじいじと思い煩って、それが私の一番いけないところなんだろうなあ、とわかっていても忘れられません。

 

 

ああ、年末年始って憂鬱!

 

また義母との会話で「今私はなんて言うべき?」の場面が出てきたらどうしましょう。

 

こんなとき、「嫁の立場なら、ここはこう言うべきです」なんてことが書いてある「想定問答集」があったらとっても便利なのに!

誰か出版してください!即座に注文しますから!

 

なーんてことを考えているのも現実逃避です。あーあ。

 

 

おまけ。

載せる写真がないので、今日のマミー姫。

 

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ちょっとずつ、大きくなってます♡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Aさんへ。

昨日のことなのですが。

 

お仕事中に同僚と世間話をしていたら、話題が「エイズ」のことになりまして。

 

当たり障りのないことを話した後、その同僚に書類の作成を頼まれたので、部屋に戻って書類を作り、さあ、届けようとして思ったのです。

 

「あら?この書類を頼んできたあの人って誰だっけ?」って。

 

困りました。

頭の中を必死で探ってみても、名前の片鱗さえ浮かびません。

 

さきほど世間話をしていた部屋に戻ってみてもその人の姿はなく、困り果てた私は、その場にいた人全員に聞こえるような大声で聞きました。

 

 

「さっき、私にエイズの話しをしてきたのは誰ですか-?」

 

って。

 

その場の空気が一瞬「ぎょっ!」としたのは言うまでもありません。

相変わらず人の名前に弱いマミーです。こんばんは。

 

だから、ですね。

やっぱり職場でも名札って必要なんじゃないかと思うのですよ。

みんな、私でさえ、自分の名前は覚えてるし、書けるじゃないですか。

私がうんと偉い人だったら、名札着用義務令とか出すのに!

と思うのですが、そもそもこんなにもの覚えが悪くては偉くなりようもないんだった・・・。

世の中ってうまく行かないことばかり・・・。

 

で。

「名前」で思い出した素晴らしい絵本があるので、今日はその絵本のお話しを。

 

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「ぼくが一番望むこと」

マリー・ブラッドビー:著 斉藤規:訳

ぼくは、朝暗いうちから仕事に出かける。朝食ぬきでお腹がなっている。でも、ぼくの望みは朝食ではない。

黒人教育家ブッカー・T・ワシントンの少年期をえがいた絵本。(「BOOK」データベースより)

 

奴隷制度が廃止されたばかりのアメリカ。

黒人差別はまだまだ過酷で、ブッカー少年は空腹をかかえて朝から晩まで働く日々。

でも彼の望みはお腹いっぱいにごはんを食べることではなく、「字を読むこと」でした。

 

教育を受けたいと望む彼の願いは、でもなかなか叶いません。

母親がわずかな賃金の中から買ってくれた教本を見ても、学校に通えず、両親も字が読めない彼にはその本を読む術がないのです。

けれども、彼には希望がありました。

彼と同じ黒人なのに、新聞が読める人がいるのです。

彼はその「読める人」を探し出し、本を読んでもらうようにせがみます。

 

 

ところでこの絵本のすばらしさは「絵」にあります。

初めて少年が字を読んでもらったときの感動と、爆発するような喜びの表情。

うれしさのあまり踊り出した少年を見つめる「読める人」のあたたかなまなざし。

 

この1ページだけでも、この絵本は成立するのではないかと思うほどのすばらしい絵です。

 

もっと字を教えて、とせがんだ少年は自分の名前「ブッカー(BOOKER)」を地面に書いてもらうのですが、それを見つめる彼の表情もとてもいい。

希望が生まれた瞬間に、自分が立ち会っているような。

幸せで、幸せで・・・でも、その幸せのささやかさにちょっと胸が詰まるような。

切ないような。

なんとも言いようのない気持ちになります。

 

つくづく、人にとって学ぶということ、知るということは喜びであり、人生に欠くことのできないものなのだと確信する絵本でもあります。

 

またこの本を読んでいると、人をどこかで「線引き」して、学ぶ機会を与えないことは、どれほど残酷なことであるかということに気づかされます。

たとえば、一部のイスラム教徒が女子教育を制限していることには、怒りを禁じ得ません。

同時に、ネットなどで散見される、現代日本の「少子化」の原因は女子教育が高等化しているからだ。だから女性に大学教育は不要。なんて意見には、心底びっくりしてしまいます。

本気で言ってるの?と聞いてみたいと思うのですが、匿名が原則のネットでは無理なのでしょう。また、匿名だからこそ、本音が出ているのかもしれないと思うと、うっすらと恐怖も感じます。

 

さきごろ、第二次世界大戦中のドキュメンタリーを見ていて、こんな述懐がありました。

 

ナチス共産主義者を迫害し始めたとき、ぼくは反対しなかった。だって、ぼくは共産主義者じゃなかったから。

次にナチス障がい者を迫害し始めたとき、ぼくは反対しなかった。だって、ぼくは障がい者じゃなかったから。

そしてナチスがユダヤ人を迫害し始めたとき、ぼくのために反対してくれる人は、もうどこにも残っていなかった。」

 

誰かの権利を「狭めてもいい」と放言することは、自分の権利もまた、狭められる可能性を引き寄せてしまうことを、できる限り多くの人に感じてほしいと思います。

 

アメリカが表向き、どれほど多文化主義を標榜しても、現実問題として黒人差別がまだ存在していることは、日々のニュースを見ていても明らかです。

けれども、この絵本を読んでいると、黒人が「奴隷に戻る」ことはけっしてないことがわかります。

それは法律や政治の問題ではなく、彼らが文字を知っているからです。彼らが今では「読める」からです。字を知ったことで、ブッカー少年が言うように「新しい世界に入った」からです。

 

若い頃、もっと勉強しておけばよかったなー、という感想と共に、でも教育の機会を与えられた人生を得られたことを感謝したくなる1冊です。

そして、これからの世代にも、なにがあっても教育の機会だけは確保しなくては、と強く思う絵本です。

オススメですので、どこかでお見かけになったらぜひ、立ち読みでもなさってくださいね。

 

 

最後に。

まったくの私信です。

 

はてな」のユーザーでもないのに、いつもここを読んでくれて、私が絵本を紹介する度に、本屋さんに立ち寄ってくれてるAさん。

 

不安定も混乱も、至極当然に思います。

Aさんが今、自分が最も不幸だと思っていても不思議じゃない。それが当たり前だと思う。

 

たとえば、隣に住んでいる人が、何十億もの宝くじに当たったからと言って不幸になる人はいない。

でも、誰もが持っているもの、当たり前に手に入れているものを、自分が得られないとなると、人は突如、自分が不幸だと思ってしまうのね、きっと。

 

ここであきらめるか、それともまたチャレンジするのか、

選ぶこと自体が、苦しみなんだよね。

チャレンジしてもうまくいかなかったとしたら悲嘆はもっと深まるし、

でも、今あきらめてしまったら、ずっと先になって「どうしてあの時諦めたのか」って後悔することがわかってる。

 

私も、あの頃、法事に行ったり親戚の集まりに行くのが苦痛で苦痛でしょうがなかった。

飛んでる飛行機が頭の上に落っこちてきたらいいのに、ってよく思ったよ。

 

でもAさん。

Aさんはまだ、なんにも失ってないって、私は思う。

 

どうかこの絵本を読んでみて。

Aさんは、わずかな賃金を工面してブッカー少年に本を与えた母親になれなかったとしても、でも、少年に字を教える人にはなれる。

少年を、希望に満ちた、新しい世界に送り込ませることができる。

 

それって、Aさんが思っているよりも、ずっと、ずっと、ずーっとすごいことなのよ。

 

Aさんはまだ、なんにも失ってはいない。

そして、Aさんの手は、これからAさんが望むだけの、「すばらしいこと」をつかみ取ることができる。きっとできる。

 

どんな選択でも応援するけれど、たとえばそれがギブアップであっても、ちっとも悪くない。それでいいの。Aさんはなんにも悪くない。

 

それでも、選択の重みに耐えられなくなって、不安になって、つらくなったら、いつでも呼んでね。

たとえ地球の裏側にいたとしても、すぐに駆けつけるから。

実際には新幹線で着いちゃうけど。ふふ。

 

ねえ、だって、友だちでしょ。

そうでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無理かもしれないけれど。

 

先日、「りくぼー日記」のりくぼーさんがお聞きになってましたね。

 


「みなさん、ネタがないとき、どうやって仕込んでますか?」

 

って。

わかります、わかります。その気持ち、すごーくよくわかる!

私も毎回、たいした話しもしていないくせに、

 

「もう書くことない~。ネタなんか無い~。」

 

って騒いでいますので、りくぼーさんのように、みなさまに聞いてみたいって思う気持ち、心から共感します!

 

最近では私の「ネタが無い!」を聞き飽きたのか、

 

「俺のことでも書いとけば?(←てきとー)」

 

と夫が新聞を読みながら言うまでがテンプレ、他のセリフは返ってこなくなりました。

 

正直言いまして、毎回毎回、あれだけ「けちょんけちょん」に書かれてるのに、

それでもめげずに「俺のこと書いとけば?」って言えるなんて、彼ってほんとにスゴイ心臓の持ち主だなあと思うのですが、彼はたぶん、

 

なんにも考えていない。

のだと思われます。

 

ふりかえれば学生時代、講義室から窓の外を眺める夫を見て、

「かっこいい人だなあ。なに考えてるんだろう。」

なんてよく思ったものでしたが、今ならわかるのです。

 

 

 

なーにんも考えてなかったんだなって。

 

 

今になって私が、

「あのときは、あなたがなにか「深遠なこと」を考えてるように見えたんだよね。」

って言うと、夫は手を叩いて喜びます。

で、笑いながら、私を指さして言うのです。

 

 

 

「はっはー!だまされてやんの!」

 

って。

 

むっか。

だまされたのは本当だからなんにも言えない・・・。

でもどうして、だまされた上に笑われなければならないのでしょうかっ!?

 

人生、理不尽・・・。

 

ま、夫も同じく「だまされた・・・」と考えている可能性大ですから、そこはあまり深く追求しないでおこうと思っているマミーです。こんばんはー!(←やけっぱち)

 

その時はいいと思っていても、後から考えたらちょっと違ってた、時間の経過と共に少しずつなにかが変わっていく、なんてことはよくあることで、それは夫婦間の雑感以外にもあることなのかもしれません。

 

畳となんとかは新しい方がいいなんて、失礼な格言もあるようですけれど、

でも、私にしても「新しい方がいいな」って思うこともたくさんあります。

 

例えば。

 

本の装丁。

 

特に児童書のね。

 

村上春樹だったかな、「永遠の名作」は存在しても、「永遠の名翻訳」はありえない、ってどこかに書いていたような気がするのですが、児童書の装丁も、同じような感想を持つことがあります。

 

いくつか例をあげてみますと。

 

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「太陽の子」灰谷健次郎 角川文庫

 

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先生のつうしんぼ宮川ひろ 偕成社

 

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「ネコのミヌース」アニー・M・G・シュミット 徳間書店

 

どの本も名作です。

子ども向けと侮れない本ばかり。

なので、小学校の図書館にはたいてい常置されているはずです。

 

だけど・・・どれも子どもたちからは

 

人気ゼロ!

 

借り出されるどころか、子どもたちが手に取ってるところをみたこともありません。

それどころか、読者アンケートカードが挟まったままで残っているくらい、

一度も、だれからも、1ページすら、

めくってもらったこともない状態です。

 

児童書は大人になってから読んでも、深い感慨をもたらすような場合がありますが、もしも子ども時代に出会っていれば、その後の人生にとってどれほど支えになったことか、と思えるような本もたくさんあります。

学校図書館にはそんな本がふんだんに常備されているのですから、ぜひ読んでもらいたいと思うのですが、子どもたちは表紙を見ただけで、

 

「つまんなさそう!」

 

と一蹴します。

 

特に3冊目。

 

「ネコのミヌース」

「オランダのこどもの本の女王」、「オランダの真の女王」と称され、オランダの家庭の本棚には必ずこの人の本があると言われるアニー・M・G・シュミット(アンゼルセン受賞作家)の作品で、人間の姿から元に戻れなくなったネコと同居する新聞記者のお話し。

ネコ好きの女の子にはたまらない1冊だと思うのですが、現実には書架の中でホコリを被っているばかり。

子どもたちからすると、表紙が「イケてない」んだと思うんですよ。絶対。

 

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これだもの・・・。

悪くないと思いますよ?ちっとも悪くない。

でも、「かわいい」の基準って、国によって違うんじゃないかと思うのです。

 

仮にこの本の表紙が、

 

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こんな感じだったら、即、大人気になったことと思います。(イラストはネットからお借りしました)

 

本の表紙って、もちろん、とてもよく考えられていて、どの出版社もすごく力を入れてるんだと思います。

だから軽々に変更できないのもわかります。

でも、本って「読まれてなんぼ」だというのは、極論でしょうか?

いくらいい児童書であっても、肝心の子どもたちからそっぽを向かれたまま、何年も何十年も、ただそこにあるだけなんて、悲しすぎると思うのです。

 

漱石や太宰の本も、人気漫画家が表紙を描いたら売り上げが急増したなんてニュースもありました。

児童書も、ある一定の期間が過ぎたら、その時々の子どもたちの心に訴えるような表紙に差し替えてくれたらいいのになあ、と最近つくづく感じます。

 

ま、無理なんだろうけど。

 

ちなみに、最近ボランティア先の小学校に納入された本の中で、

「これはものすごく人気が出るだろうな」

って思った本があります。

案の定、人気が殺到、なかなか順番が回ってこないくらいの人気なのですが、それもやはり「表紙の力」だと思います。

 

こんなの。

 

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真田十勇士 1 参上、猿飛佐助」 小前亮 小峰書店

 

 ね?全然違うでしょう?

 

 

本を売るのも、お客さんあってのことなんじゃないかと思うんですよね・・・。

表紙って、その本の「顔」みたいなものじゃないですか?

 

名作はいつまでたっても名作。

著作権とか版権とか色々大人の事情があって・・・。

 

もちろんそれもわかりますけど、でもそれって読者関係ないし、自分たちの都合なんじゃないかなあ・・・。

 

どれだけ本が売れない時代でも、子どもを思う親の気持ちって、昔とそう変わりません。なので、子ども向けの本に関しては、親の財布の紐だって緩いのです。他のモノに比べたら。

 

子どもに本を読め読めという割には、出版社って工夫しないんだなあ、って、最近すごーく不満です。