ぼくらが本を読む理由

 

先日、こんな記事を書きました。

 

mamichansan.hatenablog.com

 

 

この中で、

 

「どちらかと言えば本を読んだ方がいい理由」を

 

長くなるので割愛 って書きましたら、

 

親しい友人に言われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

友「何言ってるかわかんない人って、肝心な説明を抜かすよね。」

 

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こたつ猫YUKIくん「・・・確かにね。」

 

 

説明しろーって言われて、しどろもどろになってしまい、

 

ますます友人を呆れさせてしまったので、

 

今日は友人に向けて、

 

なぜ本を読んだ方が、

 

「どちらかといえばいい」のかについて、

 

補足説明をさせてください。

 

 

 

1.感情には名前が必要だから。

 

感情の変化は、同時に身体的な変化をもたらします。

鼓動が激しくなる、発汗する、顔が熱くなる、涙が出る・・・。

 

うれしくても悲しくても、身体におこる変化は同じです。

それを私たちは状況に合わせて「うれし涙」「くやし涙」等と、呼び分けているわけですが、

その「呼び分け」「分類」は時として失敗します。

いわゆる「吊り橋理論」というやつですね。

「吊り橋」を渡るときの「恐怖」でドキドキするのを、

同行している「異性」のせいだと思えば、それが恋になるっていう。

 

感情の読み間違えが

恋の発生に寄与したなら、それはおめでたいことですが、

すべてがおめでたい結果になるとは限りません。

 

みんなの前で叱責されたとして、

その時の感情を、

「恥ずかしい」と思えば、うつむくでしょう。

「くやしい」と思えば、挽回を誓うでしょう。

「情けない」と思えば、反省につながるでしょう。

 

でも、どんなときでも

 「むかつく!」

 しか頭に浮かばない場合、

 後は相手との関係性の断絶しか、とりうる道がありません。

 

沸き立つ「感情」に、

「瞬時に、適切な」

名前を与えることは

簡単なように見えて、実はとても複雑な行為です。

 

切ない、もどかしい、じれったい、むなしい、羨ましい、ねたましい・・・。

 

その時々の感情に適切な名前を付けられてこそ、

次の行動が適切なものになり得ます。

 

本を読むことで私たちは

他者の経験をなぞることができるわけですから、

感情の名付けの経験値は、

きっと正しい方向に引き上げられるはずです。

 

 

2.本に騙されないため。

 

世の中、「本を読め読め」ブームですが、

実は「本を読む」ということは、危険なことでもあります。

なぜかと言えば、

最初から、誰かを「騙す」ことや「売るためだけ」に出版される、中身のない本も存在するからです。

 

たとえば、

「〇〇な男の子の育て方」

なんて本があります。(←よくあります。)

もちろん良書もたくさんありますが、

中には、

「男の子の育て方に悩むお母さんたちの、ほんの数%でも買ってくれたら、経営上ペイする」

という程度の、なんの中身もない本もあります。

 

これくらいなら、まあ許容範囲ですが、

もっとひどいのになりますと、

 

「〇〇で癌が消えた!」

「〇〇を信じて癌が完治した!」

 

などという「あまりまともではない」本も堂々と出版されています。

非常にまっとうに「癌とたたかう」ための本に混じって陳列されていますから、

罪の深いことではあります。

購入者の側はそれを検証するのに、ひとつしかない自分の命を賭けなくてはならないのですから。

 

私たちは「教科書」を使って学校で授業を受けます。

教科書は大抵「本」の形態をしていますから、

本に対する信頼度は高いと言っていいでしょう。

その「本」の形態をもって、「騙そう」としてくるものに

どうしても私たちは弱くなってしまいます。

お勉強のよくできる賢いお子さんこそ、その傾向にあります。

本に書かれていることに「たやすく」騙されます。

かつて多くのエリートたちが「麻原彰晃」の本に騙されたように。

 

では、どうすれば悪書に騙されずにすむのでしょう。

悪書から自分を守るにはどうしたらいいのでしょう。

 

その方法は、

逆説的で、迂遠なようでいて、

 

「たくさんの本を読む」

 

ということしかないのです。

 

 

たくさんの本を読む・・・。

 

「Aという本に書かれていることと

正反対のことがBという本に書かれている。」

 

そんな体験をくりかえすうちに、

人は徐々に

 

「ああ、本もまた絶対ではないのだな」

 

と、しみじみ実感できるようになります。

本の情報を鵜呑みにしないように、と自戒することができます。

 

一種の予防接種のようなものですね。

 

子どもたちをなんの免疫もないまま、

悪書溢れる本屋さんに入り浸りにさせるのは少し怖い気がします。

 

 

1と2だけでこんなに長くなってしまいました・・・。

 

でも大丈夫!

 

本を読んだ方が「どちらかといえば」いい理由。

 

残りはあとひとつ。

 

それはただ単に、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楽しいから!」

 

 

これに尽きます。

 

正直、これだけでもう、充分なんじゃないかと思います。

 

 

一冊の本があれば、

我々は異性になることも、動物になることもできます。

見たことのない土地や、馴染みのない星座の下で暮らすことも。

 

それどころか、違う銀河にだって。

 

過去にも未来にも自由自在に。

 

世界中、どこを探しても、

こんな壮大な旅行会社はないでしょう。

 

小さな、手のひらにのる本の世界は、

実は、ありとあらゆる世界に私たちを誘う魔法の装置です。

 

 

 

けれども。

 

かつてプラトンは言いました。

「書き言葉は話し言葉に劣る」

 

モンゴメリは「赤毛のアン」シリーズの中で、リンダ夫人に

「この世に本なんて、聖書があれば充分」

と言わせています。(もちろんモンゴメリは反対の立場だったでしょうけれど)

 

また田辺聖子氏によれば、日本でも戦前は、女の子が小説を読むなんて、

「どことなく背徳的で不健康な感じ」に捉えられていたと語っています。

 

 

いきなり卑近な例になりますが、

私も小学生の頃、通知表に

 

「本を読む子によく見受けられるように、考えはするけれど、実行力に乏しい」

 

と書かれて、身の縮む思いをしたことがあります。

(学校の先生って、子どものこと、ほんとよく見てますよね・・・とほほ)

 

 

本を読むという行為が、

ここまで肯定的に考えられるようになったのは

意外と最近のことかもしれません。

 

どんなに図鑑を読み込んで

魚の生態に詳しくなったとしても、

たった一回の釣りの経験に敵うはずもありません。

お行儀よく左を向いて並んでいる魚の写真からは

想像もできない命の躍動が実体験の釣りにはあるのですから。

 

 

ですから、

いつの日かまた

「書き言葉は話し言葉に劣る」

「本を置いて外に出なさい」

という価値観が主流の時代がやってくるのかもしれません。

 

 

それでも、

やっぱり私は、本を読んだ方が

「どちらかといえば」

いいのにな、と思いつつ、

本読みの生活をやめられないと思います。

 

 

声高に、そして時には居丈高にすら感じるくらい

 

誰もが読書を奨める時代ですが、

 

そういう声とは少し距離を置きたい気持ちを持ちつつ、

 

でも、やっぱり言ってしまいます。

 

 

「本」っていいものですよ。

 

「楽しいもの」なんですよ。

 

 

ほんとうに。