天使に会った夜。(子育ての思い出)
みなさま、こんばんは。
実は3年前、ブログを始めるにあたって、夫に言われたことがあります。
それは「娘のことはなるべく書かないように。」ということ。
当時、娘はまだ中学生。
夫にしてみれば、彼女の個人情報については、どれほど慎重であっても十分とは思えなかったのでしょう。
けれども、1年経ち、2年経ちしていくうちに、夫の態度も徐々に変化していき、ある時、
「あなたのブログの読者さんたちを見てたら、大丈夫かもしれんね。いい人ばっかりやもんね。」
と言い出しました。
うれしかったです。とても。
自分をほめられるよりも、お付き合いのあるブロガーさんたちをほめられるとうれしい気持ち。
「でしょ、でしょ?!そうでしょう?!」
となぜか私が鼻高々でした。
最近では娘自身も、「私のことも書いて~」と言うようになりました。
どう振り返ってみても、私の育児は失敗ばかり、ブログに書くほどのことはなにひとつありませんが、彼女のリクエストに応えるため、また、もうすぐやってくる娘のお誕生日の記念にと思って、いくつか育児中の思い出話をしたいと思います。
実は私は、ママ友以外とは子どもの話をすることはほとんどありません。
年賀状に子どもの写真を載せたことも一度もありません。
だって、他人の子どもの話ほど退屈なものってありませんものね。
みなさまにも、「興味ない」って思われてしまうかもしれませんが、もしもお時間がおありでしたら、お付き合いくださるとうれしいです。
娘を出産した病院の産科では「母子同室」のスタイルが導入されていたので、私のベッドにも出産の翌日には、看護婦さんに抱かれた娘がやってきました。
「はい、どうぞ~。」
と、若い看護婦さんに娘を手渡されたのをよく覚えています。
まだ名前も決まっていない、ふにゃふにゃの、プクプクの赤ちゃん。
ベビー用の小さなベッドに、どれほどそおっと寝かせても、娘はすぐに泣き出して、
「このベッドにはきっとなにかしらのスイッチか、それとも根源的な欠陥がある。」
と思ったのを記憶しています。
日中はまだいいのです。
なんだかんだとお見舞い客がいるし、その中の育児経験者にあれこれ教えてもらえて安心感もありましたから。
でも、夕方になって、三々五々お見舞い客が帰っていき、夫も帰宅し、そうしたら、私は、
「いつ、どのタイミングで、どうして泣き出すのかさっぱりわからない」
赤ちゃんとふたりきり。
新生児なんて扱ったことのない私は腕の中の娘を見下ろし、
「これ(←娘のこと)、どないするん?」
とつい考えて、我ながら母親の資格も自覚もないなあと途方に暮れたものでした。
世界中で一番大切で、自分の命よりも重いもの。優先せねばならないもの。
それが自分の腕の中にあって、明日の朝までなにがなんでも守り抜かなくてはならない。
そうと頭でわかっていながら、なにが信じられないって、自分が一番信じられないんですよ。だって、母親の経験値ゼロなんですから。
「私、なんにもわかってないんですけど!大丈夫なんですか、こんなのに任せてっ!」
って叫び出したい気持ちね。
あの心もとなく、不安でたまらない感覚、今でもよく思い出します。
おまけに夜になってどんどん静かになっていく病棟では、別の不安もありました。
出産のため入院していたのは大学病院で、産科と婦人科は同じ階。
廊下を挟んで向かい側のお部屋は、婦人科の病室だったのです。
ドアは常時開放されていて、だから赤ちゃんの泣き声も筒抜けの構造でした。
これってかなり気を使います。
だって、
明日が手術でなかなか眠れない人がいるかもしれない。
あるいは不妊治療中の人がいるかもしれない。
あるいは悲しいことに、流産や死産直後の人もいるかもしれない。
そんな人たちにしてみれば、夜中に聞こえてくる赤ちゃんの泣き声は、心底つらいものに違いありません。
夜が更ければ更けるほど、「迷惑だから娘を泣かせてはならない」と気を使ってしまい、入院中はまったく眠れない日が続きました。
でもねえ。
この「眠れない」ってこと。
本当につらいのです。
出産予定日をかなり過ぎても陣痛が来なかった私は、陣痛促進剤を使って娘を出産したのですが、入院前日から緊張のために眠れず、出産当日も興奮のために眠れず、娘と同室になってからは、娘が「ベッドに置かれると泣く」状態の繰り返し、で、一睡もできなかったので、極度の睡眠不足の状態にありました。
産後には発熱があったり、子宮収縮や会陰切開の痛み、おまけに運の悪いことに両腋下には副乳があり、それが岩のようにかちかちに腫れ上がって、お箸を持つだけでも激痛が走るというのに、4キロ近い娘をひたすら抱いていなくてはならない。
深夜の廊下を、
「泣かんといて、泣かんといて」
と娘を抱っこしつつ延々と歩き続けていた私は、かなり限界に近い状態だったのだと思います。
退院前日の夜、あまりの睡魔に耳鳴りと眩暈と視界のゆがみが同時に襲ってきたときには、
「これ、いつまで続くんだろう。退院してもずっとこのままかな。ずっと眠れないのかな。私、ちゃんと育てられるのかな、この子を抱えてマンションのベランダから飛び降りちゃったらどうしよう。」
と真剣に考えました。それは恐怖以外のなにものでもない想像でしたが、その想像がありありと目の前に迫ってくるのです。まさに追いつめられていたのだと思います。
どうしよう、そんなことになったら、と真っ暗な気持ちで深夜の病棟を歩いていたら、廊下の向こうに、ふと人影が見えました。
ほっそりと背の高い女性で、でもお腹のふくらみから、妊婦さんだと知れました。
「こんばんは。」
私たちはすれ違いつつ挨拶を交わして、彼女が私の娘の顔をのぞき込んだのをきっかけに、ひそひそと会話を始めました。
そうしてわかったのは、彼女のお腹にいるのは双子ちゃんだということ、切迫早産の可能性があるので、大事をとって入院していること、妊娠してからずっとトラブル続きでなかなか退院できないということでした。
「隣のベッドにね、」
廊下の壁に身体を預けて彼女が言いました。
「三つ子ちゃんママがいるんよ。7か月の。経過観察で入院してるみたいなんやけど、元気なんよー、その子。ごはんもちゃんと食べられるし、看護婦さんに呼ばれたら、ターって走って行ってるし。」
お腹に三つ子ちゃんがいるだけでもすごいけれど、それで走れるってすごい、と私が感心していると、彼女は「ククク」と静かに笑って言いました。
「その子ね、下から産みたい、って言うんよ。自然分娩希望。元気いっぱいやから。先生はまず無理って言うてはるみたいやけど。」
ますますすごい。三つ子を自然分娩しようだなんて。
「でも私はダメ。全然ダメ。双子だからとか関係なく、妊娠に向いてないみたい。妊娠してから、とにかく体調が悪くて悪くて。
悪阻も重いし、ありとあらゆる不調に見舞われて、流産しそうになったり早産しそうになったり。だからね、出産については帝王切開でもなんでもいいねん、無事に産まれてくれさえしたら。産み方なんか、どうでもいいねん。」
私は自分も流産の兆候があると言われて一時は絶対安静だったことや、とにかく早く無事に産まれてほしいとずっと祈っていたことなどを思い出し、彼女もきっと、当時の私とおんなじ気持ちなんだろうとしみじみしました。
そうして、しばらく他愛のない話を続けた私たちは、お互いのこれからの日々の健闘を祈りつつ、それぞれの病室に帰りました。
病室に戻って、私はすぐに自分の気持ちが先ほどまでとは打って変わって、すっかり落ち着いておだやかになっているのを感じました。
相変わらずひどい睡魔だし、全身の倦怠感や痛みはちっとも薄らいではいなかったけれど、心は前向きに、明るくなっていました。
暗く陰鬱な病棟の廊下で悲惨な想像に負けそうになっていた私を、ほんの束の間のひそひそ話が救ってくれたのです。
今でも時々思い出します。
緑色の常夜灯が彼女のシルエットを浮かび上がらせた瞬間のことを。
私にはあの夜の、あの双子ちゃんママとの邂逅が、どうしても偶然とは思えないのです。
ギリギリまで追い詰められていた私の心を、彼女と交わした会話が救ってくれました。
危うい崖の上で、今にも足を踏み外しそうになっているところを、すんでのところで引き留めてくれた彼女は、人の形をした天使だったのだと、今でも本気で信じています。あるいは神さまが、そのように取り計らってくれたのだと。
本物の天使には、羽がありませんでした。
ほっそりとして色の白い、とても美しい人でした。
今ごろどこかで、元気な双子の高校生のお母さんをしているのだと思います。
もしもどこかで、そんなお母さんを見かけられたら、昔どこかで人助けをしませんでしたか、と聞いてみてください。
きっと知らん顔で、でもこっそりと「ククク」と笑われることでしょう。
おまけ。
全然関係ない話なんですが。
先日、夫が会社でちょっとした高所から転落、左半身を強打しました。
で、今は左腕ギプス、顔の左側は「ジャイアンに殴られたのび太くん」状態(←娘談)になっています。
見ていると、背中がぞわぞわするので、直視できない毎日です。かわいそうというか、痛々しいというか。
私も少々体調が悪く、皆さまのブログを読んでもなかなか集中できません。
しばらく不義理が続きますこと、どうぞお許しください。
毎日、考えられないほどの酷暑が続いております。みなさまにおかれましてはどうぞ体調にお気をつけて、くれぐれもご自愛くださいませ。