ケーキじゃなくって文科省を斬りたい。

みなさま、こんばんは。

 

またまたブログを放置してサボりまくりの日々でした。

連日更新なさっているブロガーさんってほんとにすごい・・・

心底敬服する毎日です。

 

あれもこれも・・・と、ブログに書きたいなーと思うことはいっぱいあるんですよ?(書く、というより、みなさまとおしゃべりしたい、って気持ち。)

でもいざ更新しようとすると、むくむくむく・・・と湧き上がってくる

「めんどくさ~い」

の気持ち。

この無精で怠惰な性格を一擲する方法ってどこかに転がってないかなー。(←この考え方がすでに怠け者)

もうブログを書くのをやめて、みなさまのブログを読むだけの人になりたい・・・。

 

と思っていたら、先日。

千葉に住んでいるリアル友人からメールがありました。

 

「夏休みだったし、マミーさんのブログ、読み返してるよ。」

 

って。

まあ、本当にびっくりしました。

こんな駄文ばっかりのブログを読み返してくれるなんて。

しかも彼女は「はてな」のユーザーでもないのに。

持つべきものは友ですねえ・・・。

 

千葉県の高校で教員をしている彼女。

苦労も多いと思うのですが、きっといつもテキパキ、颯爽と明るい先生をしているのでしょう。目に浮かぶようです。

時々、学校のエピソードなどを聞かせてもらいますが、その度に、学校で働くってほんとに大変だなって思います。

子どもたちが育っていく、夢のように素晴らしい場所ではあるけれど、反面、子どもたちを取り巻く負の世相にも向き合わなければならない職場。

ストレスもいっぱいあるだろうと思います。

 

で、学校と言えば。

最近、教育がらみで話題になっていた本がありましたよね。

私も読んでみました。

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「ケーキの切れない非行少年たち」宮口幸治著 新潮新書

1時間もあれば読める本ですが、内容がなかなかセンセーショナルなので、あちこちで書評や感想レポートを見かけました。
ケーキを3等分してください、と言われてベンツのマークのようにケーキを切れない少年たち。

ほんとにそんな子がいるのかな…と聞かれれば、「いるんだろうな。」としか、言いようがありません。

子どもの頃を思い出してみても、クラスに何人かはそういう子、いましたもの。いましたよね?

小学校の高学年にもなって「日本の首都」を答えられない、簡単な四則計算ができない、九九を覚えきれない、本を音読させればつっかえて間違いばかり、そもそもほとんどの漢字を読めない、書けない同級生。

大学時代にはアルファベットを覚えていない中3の女の子の家庭教師を頼まれたことがありました。

それから「田」や「中」はなんとか書けても「湯」の字は書けない娘の同級生。

 

人生のところどころで、そんな子どもたちに出会うたび、「どうなっているんだろう」という不思議と、「どうなってしまうのだろう」という不安、その両方を感じずにはいられませんでした。

 

これまで、そういった子どもたちの多くは、「努力不足」のひとことで一刀両断されてきたのでしょう。

最近ではLDやADHDなどの言葉も使われ出して、努力や躾だけの問題ではないという認識が得られ出していますが、それでも「だったらどうすればいいか」という方法についてはまだまだ「学校次第」「先生次第」の面が強いように思われます。

 

この本を読んでいて思ったのは、これほど認知能力に問題のある子どもが多く存在していることがわかってきたのなら、もっと大規模かつ根本的な対策を国家レベルで打つべきではないだろうかということです。

個人的には、「落第制度」もやむなし、と思います。

九九もおぼつかない生徒に、その学齢に達したからと言って、因数分解なんかを教えたとしても、なにがどうなるとも思えません。

先生が言っていることが何ひとつわからないというのに、50分間、黙ってただ座っていなければならないなんて、それはなんという名の拷問でしょうか。ある意味虐待としか思えません。

「わかった!」とか「ああ、そうか!」とかの感動も、「だったらどうなるんだろう?」という知的好奇心のひとつも持てない授業。

学校で過ごす大半の時間がそんな風に過ぎていくとしたら・・・

私なら耐えられそうにありません。

 

でも、もちろん、こんなにも同調圧力の強い国で「落第制度」が浸透することが難しいことは私にもわかります。

だったらせめて、特別支援に特化した授業を週に何時間か受けさせるというようなことはできないものでしょうか。

支援学校、学級に在籍するほどではないのだけれど、通常の授業にはどうしてもついて行けない子どもたち。

そんな子どもたちに対しても、せめて小学校での授業内容に関しては、なにがなんでも理解をさせる。それが国の、そしてこの国に住まう大人の責務なのではないでしょうか。

 

この本の中に、ことさら印象的だった記述があります。

 

「しかし、診察を続けていると、彼らは何に対しても「イライラする」という言葉を使っていることに気づきました。担任の教官が来てくれなくてイライラ、親の面会がなくてイライラ、はまだわかるのですが、お腹が空いてもイライラ、暑くてもイライラ、被害者に悲しい思いをさせたことに気づいて自分にイライラ、悲しいことがあってイライラ、なのです。実は彼らは感情を表す言葉として「イライラ」しか知らないのでした。」

 

このくだりを読んだとき、私は言葉で言い表せないような悲しみを感じました。

彼らはなんと貧しい、惨めな境遇にあるのでしょう。

仮にどれほど多くのお金を持っていたとしても、「イライラ」という言葉しか持たないのであれば、それはこの世で最も貧しい人間であるとしか思えません。

「手に汗を握るような」緊張も、

「胸の張り裂けるような」悲しみも、

「目の前が暗くなるような」絶望も、

「砂を噛むような」味気なさも、

彼らは知らないのです。経験したとしてもそれを表す言葉を知らないのです。自分の感情に名前をつけられず、ただ「イライラ」としか認識できないなんて・・・。なんという徹底した貧しさであることか。

(もちろん、「イライラ」しか知らないなんて、ちょっと言いすぎかもしれません。

いくらなんでも彼らにしても、「やべー」「すごーい」「ムカつく」くらいは知ってるんじゃないかな。)

 

やれ英語の早期教育だとかプログラミング教育だとか、あるいはセンター試験改革であるとか、文部科学省ってずいぶんと忙しそうです。

でも、そうじゃない、そういうことじゃないんだー!という気持ちは私の中で年々大きくなっていくばかりです。

行事が少なくなってもいい、少しくらい退屈なくらいでいい。

でも最低限必要な知識はなにがなんでも身につけさせる。

学校って、そういう場所であってほしいなあと強く思うのです。