メメント・モリ 死を思う絵本。

今週のお題「読書の秋」

 

みなさま、こんばんは。

ネタが無くて困りまくって、「今週のお題」に乗っかります。

 

実は以前、ブロ友さんから「未就学児の子どもが「死」をコワがるので、いい絵本はないだろうか」と聞かれたことがあります。

難しいですよね。「死」を考える絵本。子どもに向けて説明するとなれば、ますます難しい。

だって、「死んだことがある」人間なんて、この世に存在しませんもの。

 

それから絵本を読むたびに、紹介したものよりも、もっと最適な絵本はないだろうかと考え続けています。

今さら「こんな本はどうだろう」なんて連絡するのも気が引けるので(←子どもさんの関心も、他に移ってるかもしれないし)、こちらで紹介させてください。

最近更新がないようですが、ブロ友さんの目にも留まりますように。

 

1.「ぼくはねこのバーニーがだいすきだった」ジュディス・ボースト著 偕成社

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かわいがっていた猫を亡くした男の子。

彼はどうしても飼い猫の死を受け入れることができません。

そんな男の子にお父さんは・・・

 

「死」をテーマにした絵本には犬や猫が多く登場します。

小さな子どもたちにとって、飼い犬や飼い猫の死は、身近な、そして人生最初の「死」として、共感を得やすいものだからでしょう。

ハンス・ウィルヘルムの「ずーっとずっとだいすきだよ」とか

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マーガレット・ワイルドの「さよならをいえるまで」

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など、このタイプの絵本には名作が多く存在します。

でもその中で1冊だけ、と言われたら、私はこの「ぼくはねこのバーニーがだいすきだった」を推したい。

にわかには「天国」を信じられなくて、飼い猫の喪失に耐えがたい苦痛を感じる男の子。

お父さんは猫の行先については「わからない」と言いつつも、猫を埋めた土に花の種を蒔くのです。

わからないことを、適当な言葉で濁したり、宗教的な常套句でごまかしたりせずに、男の子の悲しみにまっすぐ向き合うお父さんの姿がとても印象的です。

死んでしまった猫が新しい命を育む手伝いをすることに気づいた男の子は、物語の終わりに言います。

「小さな猫のわりに、たいしたことなんだよ。」

 

深い痛みをもたらす喪失が、新しい生命を育むこと。

ただ喪われるだけではない、目をこらし、耳をすませば新しい命を見い出せるかもしれないこと。

それが何よりのなぐさめになること。

小さい人の悲しみにきちんと寄り添う絵本です。

 

2.「かないくん」谷川俊太郎著 東京糸井重里事務所

ある日、かないくんが学校を休んだ。

かないくんは親友じゃない。普通のともだち。

日常に訪れた、初めての「死」。

 

幼い子どもたちには少し難解かもしれません。

大人にとっても。

 

昨日から続く、「今日」という日。

でも、その連続性はひとつの「死」を通すことによって、あっけなく崩れ去ってしまいます。

同級生がいなくなっても続く日常の生活。

でもそれが昨日までと全く同じ日であるはずはないではありませんか。

作者、谷川俊太郎は詩人の心でその途切れた連続性を感じとったに違いありません。

 

誰かの死で終わる世界、そして悼む世界の始まり。

 

途切れたかに見えた連続性は、でもきっとつながっていて、だから私たちに記憶という力がある限り、「死」は終わりではないのでしょう。

 

余白の白さが雄弁な、「とてつもない」絵本です。

 

 

3.「およぐひと」長谷川集平著 解放出版社

特段の説明があるわけではありませんが、明らかに東日本大震災を題材にした絵本です。

 

スーツ姿のまま泳ぎ続ける人。

自宅に帰らなければ、と泳ぎ続けて消えました。

赤ちゃんを抱いて電車に乗る若いお母さん。

どこか遠くへ、ここではないどこかへ逃げなければと言いながら、消えました。

 

「あそこでなにがあったのか」

と聞かれて、主人公は答えることができません。

 

「まだ、ことばにできそうにない」

 

そう応える主人公の言葉にこそ、真実があるように思えました。

私たち人間の心は、あのような惨禍を、あれほどの死を、饒舌に語るようにはできていないのでしょう。

 

ページを行きつ戻りつするうちに、苦しくなってしまう本です。

震災関連の絵本の中では、一番心を動かされました。

感動して、というよりも、動揺したのです。

 

手元に置いておくのはひどくつらい。

でも、一度は読んでおきたい1冊です。

 

4.チャーちゃん 保坂和志著 福音館書店

この絵本は、まず始まりのフレーズがインパクト大。

 

「ぼく、チャーちゃん。はっきり言って、いま死んでます。」

 

で、思わず前のめり。

「動」からもっともかけはなれているはずの「死」が、猫のチャーちゃんの世界では大逆転、こんなにも軽やかで躍動感のある「死」は見たことがありません。

飛んで跳ねて駆けて踊って、でも空腹も「生死」の違いもわからない世界。

 

「死んでも生きてもぼくはぼく」

 

そう語るチャーちゃんのあっけらかんとした様子に、「猫だなー」としみじみします。

 

昔一緒に暮らしたニャンコも、今はチャーちゃんと一緒に軽やかに踊っているでしょうか。そうだったらいいのに、と願わずにはいられない絵本です。

 

「はっきり言って、いま死んでます。てか踊ってます。」

 

「死」を描く場合、残された者の悲しみにスポットが当たりがちな絵本の世界において、めずらしく「あちら側」の世界を描き出した1冊。

それがこんなにも明るくあっけらかんとした世界であることが、旅立った猫からの、何よりのなぐさめとやさしい贈り物だという気がします。

 

5.「死」谷川俊太郎著 大月書店

 

おじいちゃんが死んだ。でも、いなくなった気がしない。「死」ってなんだろう、死ぬと、どうなっちゃうの?

 

谷川俊太郎再び。

おじいちゃんを亡くした女の子の目を通して「死」を考えます。

両親との会話で垣間見える少女の、死に関する疑問点の鋭さには、はっとさせられる一面があります。

 

「「天国に行ったのよ」とお母さんは言う、なんかうそくさい。」

「ロケットで空をどこまでも上っていっても、星がいっぱいあるだけだと思う。」

 

そうだよねえ・・・共感。

でも。

目に見えない、手で触れないものであっても、「ない」とは限らない。

重力だって電波だって、目に見えないけれど、それが「ある」って私たちは知っている。

「カラダは物質だけど、タマシイはエネルギーなんだ」

 

答のない問題に、それでもなんらかの解を求めてしまう、生きている人間の健やかな疑問。

この絵本のラストには希望があります。

涙でにじむ目で見上げても、そこに星の瞬きを感じるように、私たちは悲しみの中にあっても、また踏み出せる、そう感じさせる力強さがあります。

 

わからないことを、「わからない」というひとことで終わらせることなく、考え続けていくことが、人間の人間である所以なのだろうと思わせる絵本です。

 

 

ところで。

どれほどたくさんの「死」についての本を読んだとしても、それでなにがしかの「覚悟」のようなものができるとは、私には到底思えません。

想像力を持って生まれて来ながら、普段は自らの「死」について、棚上げしつつ生きることができる私たち。

「死」を遠く離れたところに置いて日常を生きることができるのは、ある意味幸せなことなのでしょう。

 

私にしても、いざ眼前に自らの死が迫れば、きっとジタバタすることでしょう。

後悔と未練、後ろ髪を引かれる思いに翻弄されて、とても穏やかにかつ毅然と運命を受け入れられるとは思えません。

具体的で、鮮明な「死」が、もしも身近に迫ったとしたら、「死」についての絵本なんて、とても読めそうにはありません。きっと「死」を連想させるすべての言葉を避け続けるだろうと思います。

 

けれども、「死」について書かれたいろんな物語は、きっと私の中に、なにがしかのなぐさめや勇気、心のよりどころを提供してくれるのではないか、という気はします。

 

だから「死を思う」のは、元気なうちがいいのでしょう。

 

 

おまけ。

もちろん、他にもたくさんの絵本があります。

 

「わすれられないおくりもの」(スーザン・バーレイ著 評論社)

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亡くなった人は誰かの心の中にちゃんと生きている。受け継がれる記憶と思い出が宝物であることを感じます。

 

「いつでも会える」(菊田まり子著 学研プラス)

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大好きな飼い主・みきちゃんを亡くした犬のシロのお話。泣きます。

 

「あの夏」(ガブリエル・バンサン著 BL出版)

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大切な人が逝ってしまうことを予感させる夏。そのことに向き合うことの難しさと切なさを描く。

残される側の悲しさ、寂寥感と焦り。自分の身に引き寄せて考えると、胸がキリキリと痛みます。

 

「悲しい本」(マイケル・ローゼン著 あかね書房

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失ってはいけないものを失った男の悲しみ。人にとってこれ以上の悲しみはないと断言できます。つらすぎて、私は二度と読みません。

 

「だいすきなおばあちゃん」(日野原重明著 朝日新聞出版社)

2017年に亡くなった日野原重明先生が102歳で書き下ろした絵本。

おばあちゃんを看取る孫娘の心情が綴られます。

大切に愛された記憶こそが最上の遺産であることをしみじみと感じます。

 

「ぶたばあちゃん」(マーガレット・ワイルド著 あすなろ書房

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死を予感して支度を始めるおばあちゃんとそれに寄り添う孫娘のかなしみ。

何回読んでも号泣必至。

 

どの本もオススメです。

本屋さんで見かけられましたら、ぜひ一度読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気が利かない夫にイラっとする日。

みなさま、こんばんは。

 

「気が利く」「気働き」「気配り」

 

なんて言葉をよく聞きます。

人間関係を円滑にするために、これらの概念はとても大切なことだろうと思うのですが、日常生活で常に意識し続けるのってなかなか大変ですよね。

私も常から粗忽者で通っていますから、自分に上記のような長所が備わっていないことは重々承知しています。

 

ただ、我が家の場合、夫が私に輪をかけて「気が利かない」ものですから、揉め事のタネが絶えません。

 

たとえば。

 

ある時、義母が我が家に数日間滞在したことがありました。

夫が仕事に行っている間、私は義母とふたりきりになってしまうのですが、これが苦痛でたまりません。

別に義母がイヤな姑であるわけではありません。

むしろ義母は細かいことに頓着しない、とても明るくて気立てのいい人で、もしも嫁と姑の立場でなければ、私ももっと気さくに楽しくお付き合いできただろうと思うのですが、そこはやはり「立場」というものが邪魔をして、どうにも義母には遠慮や隔意を感じてしまうわけです。

子どもができてからはその遠慮や隔意は一層大きくなったように感じます。

 

まだ産まれたばかりの娘を抱きながら、

「この子を世界で一番愛しているのは、誰がなんと言おうと私自身である。」

と疑いもしなかった自分。

その時、ああ、私や夫の親も、私たちが産まれたときにはきっと同じように思ってくれていたのだろうと実感して(←私の父の場合、それはちょっとあやふやですけれども)、感謝の念が湧き上がったものでした。

 

その体験が、私の中の「結婚」というものへの考え方を、やや軌道修正したように思います。

自分以上にこの子を愛しているものはこの世に存在しているはずもないのに、我が子が結婚相手を見つけてくれば、先に寿命が尽きる者のさだめとして、

「どうぞよろしくお願いします」

と言わなければならないのです。

それってなかなか切ないことだと思いませんか?

 

自分にもいずれそういう日がやってくるであろうことを想像すると、まだ娘は赤ちゃんなのに、じんわりと涙が浮かんでくるような、切なさで胸が焦がれるような、なんとも言えない気分になりました。

おそらくは、義母も私たち夫婦が結婚した時に、そんな感情を抱いたことでしょう。

義母はそんなそぶりを見せずに私を歓迎してくれましたが、子の結婚というものが、親に抱かせるであろう様々な心模様に思い至った私は、それ以来、義母に対してどことなく「負い目」と申し訳なさを感じずにはいられないのです。

(で、それから幾星霜・・・私の娘も高校生になりました。一向に彼氏ができる気配がありません・・・さすがに最近ではお嫁に行き遅れたらどうしようと心配でたまりません。それでも義母に対する引け目は未だに消えないのです。)

 

こんな風に義母に対して遠慮と申し訳なさをいっぱいに抱えておりますと、言いたいことなんてなーんにも言えないわけです。

義母の言葉に相づちを打つのも気を使います。

たとえば、

「出産したばかりのM(←義母にとってはもうひとりの孫娘)の家に、だんな様のご両親が入り浸っていて、それはとても負担だからやめてあげてほしいわー」

と義母が言ったとして、

「ですよねー。」

と言った瞬間、内心で「あっ!」と失言に気づき、

 

「お義母さんはこの家にどれだけ入り浸ってもいいんですからね!」

 

って言い添えた方がいいんだろうか?いや、今さら白々しいだろうか・・・。

 

と脳内で大量の冷や汗をかく羽目に。

 

疲れるんですよ・・・端的に言って。

とてつもなく疲れる。

おまけに腹の立つことに、これだけ疲れているというのに、ちっとも痩せない、っていうね・・・人生って不条理!(←どうでもいい)

 

そしてもうひとつ、腹の立つことが我が家の夫です。

 

義母との会話で、「ああ言えばいいのだろうか、こう言えば角が立たないのだろうか・・・」、と私がひとり、必死で地雷を避けまくっているというのに、その間、夫はたいてい「ぼー」っとしています。

もともと口数の少ない人ですし、自分から会話を続けようとする努力もしない。

食事中に義母が話していても、新聞を読んだりテレビを見たり。

酷い時には食事が終わったとたんに、ソファーに寝っ転がって本を読み始めたりします。

 

この時はさすがに「あんまりやわ」と思ったので、たまらず義母の前で夫に苦情を言いました。

 

「せっかくお義母さんが久しぶりに来てくれはったんやないの。お義母さんはあなたとお話ししたいのんと違う?」

 

って。

 

義母は、「ああ、ああ、いいのよ、疲れてるんやろうから。」と言って、夫を庇いました。(←親心とはありがたいものですねえ・・・。)

私は義母がいるにも関わらず、思わず夫に批判がましいことを言ってしまったことを、つくづくと反省しました。

そして心に誓いました。

義母が帰宅したら、夫をギチギチに締め上げてやる!って。ほほ。

 

おそらくこの世の多くの男性は、何をやっても何を言っても、決して母親から嫌われることはないと知っていて、全身全霊で甘え続けているのでしょう。

立場を変えて、自身のこととして考えればその気持ちも理解はできます。

私にしても、何があっても、娘を愛さなくなることなんてできそうもありませんから。

 

でも、「妻」は違うんやで?!

 

とは言いたい。

愛想をつかすことも、キライになることもあるんやからね?!

 

日々の生活の中で夫に対し、不平や不満があったとしても、もうこの年になれば、やってほしいことも変わってほしいこともどんどんなくなっていきます。

しかしながら、義母や親戚とのつきあいに関してだけは、私の努力でなんとかできることは限られているのですから、もう少しなんというか、「気を利かせてほしいなあ」と思わずにはいられません。

 

もちろん、

 

「ママはちょっと気を使いすぎかもよ。あのおばあちゃんを見てたら、なんにも考えてない気がするけどな。」

 

って娘が言うように、私の方があれこれ気を揉みすぎているのかもしれません。

なにしろ実の娘の結婚式で「人生いろいろ」を歌った人ですから・・・

 

mamichansan.hatenablog.com

 

夫や娘のように、私も少しはぼーっと生きてみたい・・・

いや、やっぱりそれは無理かな。(←チコちゃんに叱られるしね・・・)

 

夫を挟んでの嫁と姑の関係って、どこまで行ってもむずかしいですねえ。とほほ。

 

 

 

 

 

 

 

 

今でもいるのかな「聞いてへんおじさん」~年をとってよかったって思うこと。

みなさま、こんばんは。

 

最近、自分が「老けたなー」と思うことが多くなりました。

白髪は染めなきゃいけないし、薬やお化粧品の効能書きを読むときに、見えにくいな、と感じたり。

娘が自分の指のさかむけ(ささくれ)をよく見えるようにと「ほら~!」とこちらに差し出した指が、

「近い・・・」

と思ってのけぞったり。

 

「近くで見る方がよく見えるやん?」

 

と不思議そうに言う娘に、「ママもそう思っていた時代がありましたっ」ってキレ気味に答える時などは、「ああ、若いとはなんと純粋で残酷なことか」としみじみ思います。

 

雑誌や本なども、「この世の価値は若さだけ」とでも言いたげな論調のものばかり。

「若さ」どころか「幼さ」までも、やたらともてはやされている気がするのですが、どうなのでしょう。昔は「幼さ」とはいずれ卒業しなくてはならない、いささか恥ずかしい状態を指す言葉だったと思うのですが。

世の中の急変についていけないと感じるのも、私が老いの入り口に立っている証拠なのでしょう。

 

でも、それでもたまーに、「年をとってよかったな」って思うこともあります。

 

それはお仕事をしている時。

 

大学を卒業してすぐに働きだした会社は、今でいう「ブラック企業」とは正反対。

民間の企業でしたが、ずいぶんとおっとり、のんびりした雰囲気の会社で、私は概ね楽しく働いていました。

ひどいセクハラなんかもなかったです。私の観測範囲内の話ではありますが。

恵まれた環境だったと今でも思います。

 

ただ、それでもやっぱり働いていれば「うんざりすること」はついて回るもので、その最たるものが、

 

「俺は聞いてへんおじさん」

 

これがねえ、ほんとに苦手というか、私にとっては天敵のような存在でした。

私も若かったですし、失敗も不愉快な出来事も、今ではなんということもない思い出のひとつとなりましたが、この「俺は聞いてへん」とやたらに連発するおじさん達のことだけは、どういうことだろう、どうすればよかったんだろう、と今でも首を傾げずにはいられません。

 

たとえば。

私は当時、財務部に所属していたのですが。

税法が変わったり、社内の財務システムが変更になると、財務部だけでなく、他のあらゆる部署のシステムや手続きもそれに合わせて変更しなければなりませんでした。

だって、ありとあらゆる商取引は結局のところ、財務諸表に影響するわけですから。(たとえ、現金・手形などの授受がなかったとしてもです。)

 

で、変更があるたびに、その直後は本社の各部署を、

「変更点については問題がないでしょうか、大丈夫ですか?」

とうかがいながら、齟齬やミスがないように周回するわけですが、必ず出くわすんですよ、

 

「俺は聞いてへん」

 

って言いだすおじさんたちと。

 

何がつらいって、この「俺は聞いてへん」って言い張るおじさんたちと向き合う時間ほどイヤなものはありませんでした。

 

内心では、

 

「いやいやいや、稟議決裁も済んでるんやけど」

「稟議書、回覧されてたやん?社長印もあったよね、あんた見てへんのん?」

「てかこの前の部課長会議でも、うちの課長から説明あったはずやで。」

「うちの部長もよろしく、って言うたと思うわ~。知らんけど。」

「法律で決まったことやし、しゃあないやん。イヤやったら、国会議員にでもなって税法の方を変更してきぃや。」

 

って思うわけですけど、言えるはずがないですよねえ。

私もいくらうんざりしているからと言って、そこまで大人げないマネはできません。

なので、一から懇切丁寧に説明するわけですけれど、おじさんの口からは

 

「俺は聞いてへん」

 

の一点張り。

なんなら「ぷいっ」って顔を背けられたりしました。

 

かわいくないんですよね。おじさんの「ぷいっ」って。(←そういう問題ではない)

 

「だから今、私が説明してるやんっ!」

 

ってキレたいところをぐっと我慢して、さらにもう一度説得を試みる私。

仕方なく代わりに伝票や帳票を打ち出して、あとはハンコを押すだけですよ!(←過保護な親並みの対応)とまでやってみても、「俺は聞いてへん」「ぷいっ」の無限ループ。

あまりにも不毛な、埒が明かない状況に、私の精神的疲労と徒労感だけが限界値に近づく思いでした。

大体、税法や社内の財務システムが変更になった時は、どこよりも財務部が一番忙しくなるわけです。それなのに、そんなところで引っかかって、無駄な時間がどんどん過ぎていくばかり・・・。

結局、他の業務の都合で部に呼び戻されて、どよよーんと落ち込みながら仕事をしていると、部長がそのおじさんに電話をかけてくれました。

 

「この前の会議で説明したやろ。

変更は決定事項。

うちの担当者を困らすな。」

 

そうしたら、問題は一気に解決、もう一度おじさんのところに戻って見ると、超ご機嫌でハンコを押してくれました。

なんなん、もう。なんなん?

 

当時も今も、私は「俺は聞いてへん」おじさんを「説得できなかった」ことを恥ずかしく、情けないことだったと感じています。徹頭徹尾、私の力不足で、私がいたらなかったからだと。

 

でも、同じく「聞いてへんおじさん」の方も恥ずかしくないですか?

 

人間、誰でもミスや失敗はあるもので、だから稟議書に目を通し忘れることもあるでしょう。退屈な部課長会議でつい寝ちゃうこともあるかもしれない(←ありえないと思うけど、まああるかもしれないと思うことにする)。

でも。でもね、今目の前で必死で説明されていることに気のない態度で接しておきながら、部長から電話があったからと言って、ころっと態度を変えるなんて、たまらなく恥ずかしくみっともないことだと思いませんか?

 

「そこまで「聞いてへん」って言い張るのなら、もっと気合い入れて、誰に対しても「聞いてへん」って突っぱねてみなさいよっ!」

 

と言ってみたかったなー。結局言えなかったけど。

 

思い出せば、問題の根っこのようなことは、他にもちょこちょこありました。

ひとつ年上の先輩社員に何かを説明しなくてはならない場合、それが男性だとひどく難易度が上がるとか。

たとえ普段は良好な関係を維持できていたとしても、です。

説明の間、いかにも退屈そうな態度だったり、あからさまにあくびをされたり。

 

結局のところ、「自分より年少の、しかも女性から、なにかを説明されたり、女性から教えを乞わなければならないこと」を、ひどく嫌がる男性が世の中には存在している、ということなのでしょう。

 

で。

今のお仕事を引き受ける時。

前職とはまったく畑違いのお仕事で、しかも嘱託扱いですから、正社員のころのようなしんどさはないだろうけど、それでも今さらまたあんな「俺は聞いてへんおじさん」と対峙するのはうんざりやわ~、と思っていたのですが・・・。

 

いないんですよね、そんなおじさんたちが。

いや、どこかには残っているのかもしれないけど、私の周りにはいない。

 

それどころか、仕事中に

 

「マミーさん、実は僕、このあたりの知識があんまりなくって。

ここからここまでのこと、お願いしてもいいですか?」

 

ってはっきり依頼してくる男性もいるくらいで、内心驚愕しています。

女性に向かって「自分の知識がない」とか「知らない」とか言える男性がいようとは。

 

「もちろんもちろん、いいですよ!出来上がったら、席までお持ちしますね!」

 

って私が返すと素直に「ありがとうございます。」って返ってきて、その態度にも感動します。

 

最近の若い人って、柔軟でしなやかなんだなあとすっかり感心していましたが、よくよく考えると、それって「私が年をとったからなんだ!」という気がしてきました。

 

相手が年長者であれば、それが女性であっても素直に「知らない」って言えるのかー。

できないから「お願い」って頼めるのかー。

ミスや失敗があれば「すみません」って謝れるのかー。

 

それらのひとつひとつがいちいち新鮮な驚きです。

 

「おれは聞いてへん」

 

そう繰り返していたおじさんたちにも、きっとそれなりに大事に抱えている「面子」のようなものがあったのでしょう。

でももしも、若い人たちにそんな面子のフォローまでもさせようとしているのだとしたら、

それも業務のうちのひとつなのだと考えているのだとしたら、

私は若い人たちのお給料をもっと上げてあげればいいのに、と強く思わずにはいられません。

それくらい、うっとうしかったですよ、「俺は聞いてへんおじさん」って。

 

たとえそういうおじさんたちが、今もどこかに存在していたとしても、この年になると、もう絡まれることもないのでしょう。

そう思うと、自分が年をとったことも、そんなに悪くはないかもしれない、いや、ちょっとうれしいことかも!と思えてくるのです。

 

ちなみに。

 

さきほど、娘に、

「こんな風に思えるから、年をとるのも悪いことばかりじゃないって記事を書こうと思うんだよね。」

って言いましたら、娘がぽつり、と言いました。

 

 

「負け惜しみかな?」

 

 む?

 

 ああ、もう、

 

む~か~つ~く~!!

 

 

 

 

 

 

 

こんなん出ましたけど。(古っ!)

先日。

ボランティア先の小学校で、メンバーと一緒に図書室内のお掃除をしました。

室内には、ずっと気になりながらも手を付けていなかった棚がありまして。

みんなで今日こそは!と整理に挑戦してみたのです。

 

由来のわからない雑誌や古い辞書、小冊子をよけて棚の奥の方まで発掘を続ける私たち。すると・・・一番奥に現れたのがこんな光景。

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古い・・・見るからに。

「こわいこわいこわい」とくり返すメンバーもいて、

「古い本って怖いものなのかな?」

ってちょっと意外に感じました。(←私は割と平気。)

そういえば、亡くなった父はお風呂やトイレなどの汚れは絶対に許さないのに、犬や猫の毛はどれほどお洋服についてもへっちゃらな人だったようで、

「好きなものは気にならへんもんなんよ。」

という母の言葉から察するに、私の場合、本の汚れはたいして気にならないということなのでしょう。

なんなら本の上にたまったホコリは、「ふう~っ!」って吹き飛ばして、それでOK!だったりします。

他のところのホコリは拭わずにはいられないのですが。

人間なんていい加減なものです。(←私だけか・・・)

 

脱線しました。棚の奥の本の話でした。

 

1冊、引っ張り出してみます。

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あかね書房「少年少女日本文学選集8巻 国木田独歩名作集」(ホコリは取り除きました。)

 

渋い。渋すぎる。

国木田独歩て・・・。

メンバーの中でも若いママさんたちからは、

 

「誰?」

 

の声多数。

だよねえ。

私も文学史の教科書でちらっとお見かけしたかなー、程度ですわ~。

 

奥付を見てみましょう。

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「1959年」発行!

来年還暦じゃないですか・・・「先輩!」って感じですね。

定価は280円!

これって現在の貨幣価値だとどれくらいの値段になるのかな。

 

中身。

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字、ちっちゃ!

「少年少女向け」なのに、容赦ない!

だけど紙質はとても上質な感じがします。

1970年~80年代には、もっと劣化しやすい紙の本が大量に出回っていたような。

これだけ古いのにほとんど変色していないのはすばらしい。

 

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監修はなんとあの志賀直哉

 

「先輩どころやあらへんね。「先生!」って言わなあかんわー。」

 

とみんなで大盛り上がり。

 

「昔の小学生はすごいなー。」

「こんな小さい字の本を読んでてんねえ。」

「今の子には無理かもしれへんね。」

 

私も、今の小学生がこんな本を読むのは無理だろうな、と思いました。

いや、日本全国探し回れば、難なく読める子どものひとりやふたり、あるいは存在しているかもしれませんが、少なくとも私たちがボランティアをしている小学校にはそんな子はいない・・・賭けてもいいけど絶対いない、という感じがしました。

今、あれこれと話題になっている「萌え絵」の表紙をつけたとしても、おそらくは無理でしょう。

そもそも今とは社会の在り様が違います。言葉も違います。

 

「書生さん」ってどういう人?「五間」ってだいたい何メートル?

・・・1頁ごとに山のように注釈が必要でしょうし、

 

「神機妙道ただその人に存す、愚者解すべからざるなりか、ハゝゝゝゝッ。」

・・・なにがおかしいねん。

 

とポカンとされるのがオチだと思います。

 

つくづく昔の子どもってすごいなあ、今の子よりたくさん本を読んでたんだろうなあと思って貸し出しカードを見てみたら・・・

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だ~れも借りてへんやん!

 

なんだかちょっとほっとした私たちは、さてこの名作全集をどうしよう、と本来の目的を思い出し、

 

「見つけへんかったことにしよう。」(←めんどくさいから)

 

国木田独歩全集をもとの場所に戻して、手前に辞書を積み重ねておきました。(←あかん)

 

こうして、小学校の魔窟は解消されるどころか、私たちの感慨を上乗せして封印されました。

次にこの本を見つけるのは誰だろう。

誰かが読んでくれるといいなあ。(←いや、捨てようよ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「読み聞かせ」の醍醐味を教えてくれた絵本。

みなさま、こんばんは。

 

先日、ボランティア先で読み聞かせをしていて、とってもうれしいことがあったのです。

 

その日読んだ本はこちら。

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「みつけてん」

ジョン・クラッセン著、長谷川義史訳、クレヨンハウス

 

私の大好きな絵本、

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「どこいったん」「ちがうねん」に続くシリーズ第3弾、完結編です。

 

この3冊ねえ、ほんっとに好き。

何がいいって、まず全編が大阪弁ってところ。

それも長谷川義史氏による、とってもナチュラルで完璧な。

白々しいところやわざとらしい感じが全くなくて、素のままの、日常会話そのままの大阪弁でとっても好感が持てます。ま、「おおきに」なんて今は使わないんですけど、それでもこの絵本の中の「おおきに」はとても自然です。

 

それから、「語りすぎない」ところ。

あれこれ過剰な説明がないので、物語の終わりには地平線まで届きそうなほどの余韻を味わえます。

読み終わったときの、子どもたちの呆けたような「きょとん」とした顔のかわいいことと言ったら!

そんな子どもたちの顔を見るのが楽しみで、私はどのクラスでもこの絵本シリーズを読むようにしています。

1年生の教室で「どこいったん」を、その子どもたちが2年生になったら「ちがうねん」を、といった感じで。

 

第三弾、「みつけてん」も、やっとボランティアの予算で購入することができたので、最近の読み聞かせでは必ずこの絵本を読むようにしています。

で、先日。

4年生のクラスでこの絵本を読んだのですが、読み終わった瞬間、ひとりの男の子が叫んだのです。

 

「今までのと違う!」

 

って。

 

とても驚きました。

だって、私、なんの説明もせずに読んだので。

この「みつけてん」という絵本が、

「どこいったん」「ちがうねん」

という絵本の続きなんだよ、なんてことは。

 

だって、シリーズものとは言え、それぞれが独立した絵本ですし、「どこいったん」や「ちがうねん」を読んであげたのは、もうずいぶんと前のこと。

忘れてしまってても仕方がないと思っていたのです。

 

なので、彼の「今までのと違う!」という言葉を聞いたときは、じわじわ~っとうれしさがこみあげてきて、「ああ、覚えていてくれたんだなあ」とすっかり幸せな気持ちになりました。

 

「どこいったん」「ちがうねん」「みつけてん」

 

どの本もその中心にあるのは「帽子」です。

「どこいったん」では帽子を盗られてしまったクマ、

「ちがうねん」では帽子を盗ったサカナ、

「みつけてん」では帽子を「見つけなかったことにしよう」とする2匹のカメが主人公。

 

欲しくてたまらない、大切でたまらない帽子を中心に、三者三様の心模様を描いていて、どれも考えさせられる内容です。

「盗った」「盗られた」という所有欲がテーマだった前2作と違って、完結編「みつけてん」では誰も帽子を盗みません。

「どちらかが帽子を占有したら、もう片方は帽子を被ることができない」のだから、いっそのこと「見つけなかったことにしよう」という解決策を生み出した2匹のカメ。

 

完結編とは言え、作者は別にカメの選択を最良とか優れているとか、そういうことを強調しているわけではないし、ある意味道徳的な示唆があるわけでもありません。

でも、クマの帽子を盗ったウサギや、大きいサカナの帽子を盗った小さなサカナが、「食べられてしまう」ことを暗示するラストを思うと、2匹のカメの賢明さは際立っています。

 

なので、4年生の男の子もきっと「今までのとは違う!」ととっさに感じたのでしょう。

「みつけてん」という絵本の何が、「どこいったん」「ちがうねん」の続きだと、彼に感じさせたのかはわかりません。

それは絵の特徴だったのかもしれないし、シンボリックな帽子の存在だったのかもしれない。

わかりませんが、でも確かに彼の心の中には、今までに読んで聞かせた「どこいったん」と「ちがうねん」という2冊の絵本の残滓が存在していたということなのでしょう。

 

私はそのことがうれしくて、本当に本当にうれしくって、「ああ、覚えていてくれたんだなあ」としみじみと、ただしみじみと胸が熱くなる思いがしたのでした。

 

多くの大人は子どもたちに本を読んでほしいと願っています。

その強い思いが、勢い余って子どもたちに感想文を書かせたり、どんな風に思ったのか聞きだそうとしてしまいます。

 

でも、それってほんとに必要なのかしら。

 

「みつけてん」という絵本に出会って、

 

「今までのと違う!」

 

と思わず口走った少年のひとことほど、強くまっすぐで純粋な感想がこの世にあるでしょうか。

本を読んだ感想なんて、それで十分なのではないかしら。

いえ、本当は、何かを口にする必要すらないのかもしれない。

たとえ子どもたちがなんにも言わなかったとしても、何も感じていないように見えたとしても、真に力のある絵本や物語は、きっと子どもたちの心の中に、なにかしらちゃんと、新しい、やわらかな、そしてみずみずしい双葉を芽吹かせてくれているはずなんだと、少年の声を聴いた私は思いました。

 

で、あまりにもうれしくって躍り上がるような気持ちだった私は、思わず彼に向かってにっこり笑い、

 

「そうやねえ、違うね。

どっちがいいんかな、人のモノを黙って盗ってしまうのと、ただ一緒にその夢を見るのと。」

 

と言いました。

 

言ってしまってから、「しまった」と思いました。

今のはちょっと押しつけがましかっただろうか、私の感想や倫理観を子どもたちに強制することにならなかっただろうかと考えて。

 

物語を読んで、そこからどのような教訓を得ようが、どんな感想を持とうが、それは子どもたちひとりひとりに与えられた自由だと常々思っていて、決して余計な説明や解釈をするまいと気をつけているのに、私はどうもおしゃべり過ぎて、つい要らぬ一言を言ってしまうことがあります。

 

私に声をかけられた男の子が神妙な顔つきで考え込んでいるのを見て、私は「やばー、またやってしまった」と焦りまくって、

「また来るねー、さよならー」

と逃げるように教室を後にしました。

 

おしゃべりってダメですねえ。

反省しています。

 

問題はその反省がいつも全然続かないってことなんですよねー。

 

とほほ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局夫が一番失礼だった話。

みなさま、こんばんは。

 

私には年子の弟がいるのですが、就職して関東に転勤してから、ほとんど会うことがなくなりました。

考えれば不思議な感じがします。

子どもの頃にはどこに行くにもいつも一緒だったのに、大人になるときょうだいであっても疎遠になってしまうんですね。

お互いに家庭や仕事がありますから、それも仕方のないことではありますが。

 

でも、いくら疎遠になったとはいえ、そこは姉弟なので、会えばいつでも本音トークが炸裂、「遠慮」とか「オブラートに包む表現」とか、そういった婉曲表現がもっとも無用な関係でもあります。

 

平素は年末年始くらいしか会うことはありませんが、ある時、親戚の集まりがあって、弟も帰阪したことがありました。

その当時、私は妊娠後期で8か月くらいだったかな、でも大きいお腹を抱えて参加しました。

親戚の家で、私と久しぶりに顔を見合わせた弟は開口一番、こう言いました。

 

「姉ちゃん、どうした、シロクマみたいになってんで。」

 

むっか!

失礼な!!

仕方ないやん、妊娠してるんだから、ちょっとくらい大きくなっても!

 

と言おうとしたら、そばにいた母の方が一瞬早く口を開きました。

 

「まっ!なんてこと言うのっ!お姉ちゃんに向かって!

白ブタやなんて!!」

 

・・・。

 

ひどっ!

 

弟と私は母に向かって一斉に吼えたてました。

 

弟「俺、白ブタなんて言うてへんやん!シロクマって言うたんや!」

私「そうや!白ブタに比べたらシロクマの方がいいわっ!なんかかっこいいやん!」

 

母はぴゅーんと逃げて行きました。

 

その場にいた親戚はみんな「楽しい一家やなあ。」と大笑い。

ま、大阪ですからね、笑いをとれればそれでラッキーな面があるので、私も弟も一緒に笑っておきました。

 

その騒動の中、うんともすんとも言わなかった私の夫ですが、帰り道、外環(外環状線・国道170号線)を運転しながら言いました。

 

夫「あなたの家族やけどさー。

言っていいことと悪いことの区別がついてへんとこあるよね。

いくらなんでも「シロクマ」とか「白ブタ」とか。

親しき中にも礼儀あり、って言うのにねー。」

 

って。

で、私も弟の言葉を思い出して(←すっからかんに忘れてたけど)、

 

「そうやわ!ほんまに失礼なんやからっ!」

 

と怒りを再燃させていたのですが、そうしたら夫が突然、前方に現れた動物病院の看板を見て、

 

「あ、ほらほら見てー、あそこ!」

 

と指差しました。

 

夫「ほらっ!あそこ!シロクマ動物病院ってのがあるで~!!

 

・・・。

 

 

「だから、なに?」

 

結局、あなたが一番失礼なのよっ!!!って私がすごーく怒ったのは言うまでもありません。

 

以来、「シロクマ」と聞けばこの話を思い出して、秘かに「むっ」とする私。

 

でも夫の方はまったく覚えていなくて、それもイラっとします。

思い出させようと当時の会話を再現したら、

 

「そんなことよう覚えてるなー!

てか俺、なんも言うてへんやん。たまたまシロクマって言葉に反応しただけやん・・・」

 

と言うのでさらに火に油!

 

ああ、は~ら~たつ~!!!

 

ということで(←どういうこと?)、怒りを再燃させながら久しぶりに編んでみました。

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シロクマくんです。マフラーつき。

 

このシロクマくんはかわいいけど、本物のシロクマって結構凶暴ですよね。

 

「私が怒ったら本物のシロクマに近いんですからねっ!」

 

と夫に言ったところで、ふと思いました。

 

「今、私、自分がシロクマ系って自ら認めたことになってる!」

 

って。

 

・・・どこからが引っかけ問題だったんだろう・・・?

 

むむむー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中高生にめーっちゃオススメ、YA文学3選。

みなさま、こんばんは。

 

しつこいようですけれど、小学校で読み聞かせのボランティアをしております。

「めんどくさ~い」と「おもしろ~い」が半々・・・(いや、ウソです、ほんとは「めんどくさい」が7割くらい・・・)

でも、メリットがないわけではありません。

なにしろ絵本・児童書は読み放題。

稀に大人向けの本なんかも紛れ込んでいますから、それらを借りることも可能です。

 

また、近隣の中学校からお手伝いの要請があった場合はなるべくそれに応じますから、中学校図書室にも出入り自由。

中学校の図書室の蔵書はずっと大人向けですし、話題書なんかも充実しているので、地域の公立図書館よりもかなり早く人気の本を借りて読むことができます。

 

もちろん、「中学生のための」図書室ですから、あまり図々しいことはできませんが、

 

「これ、今、めっちゃ話題になってる本やん。ほんまに借りてもいいのん?」

 

と聞くと、

 

「いいですよー!誰も読まへんし!!」(←あかんと思う。)

 

という返事が返ってくるので、毎回ありがたく借りることにしています。

で、最近借りて帰った「YA(ヤングアダルト)文学」と呼ばれる中高生向けの本があまりにも大当たり!(←おもしろかったの意)だったので、ぜひご紹介させてください。

 

1.「3つ数えて走りだせ」

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エリック・ペッサン著 平岡敦訳 あすなろ書房

 

こちらはフランスの現代小説。家出少年の逃亡と冒険譚の顛末。 

父親から虐待を受けているアントワーヌと、強制送還に怯える移民の子トニー。

ふたりはある日突然走り出します。なんの目的もなく、一銭のお金も持たずに。

 

13歳の少年がただひたすら走り続ける小説なのですが、今まさに羽化しようとするサナギを見守っているような、危うくも健やかな印象の残る本です。

彼らは13歳という年齢の子どもが持つにはいささか大きすぎる問題を抱えていますから、彼らの「走り続けること」には、もちろん「逃亡」という要素もあるのでしょう。

抱えきれない問題を背負った子どもに対し、「逃げてもいいんだよ」というメッセージが送られることは日本でもよくありますから、どこの世界でもおんなじようなことはあるんだな、という感想を持ちました。

ただ、もちろん13歳の未成年の子どもたちがいつまでも家出状態のままでいられるはずもなく、彼らの逃亡劇にも終わりの瞬間が訪れます。

アントワーヌは思います。

 

そうか、ぼくたちはゴールに近づいたんだ。

でも、レースがこんなふうにぶざまに終わるのは嫌だった。敗北は認めたくない。勝って終わりにしたかった。

どうしても勝たなくては。

 

誰と争うわけでもない、たったふたりで始めた逃亡劇。

でもアントワーヌとトニーのふたりは「勝ち」にこだわります。そしてある方法を使って、彼らは本当に鮮やかな逆転ゴールを決めるのです。

 

ラストの展開を読んで、私はしみじみと日本人との感覚の違いを感じずにはいられませんでした。

 

彼らは「逃げる」ことを否定はしない。

でも、言うのです、「戦え」そして「勝て」と。

自由とは人権とは、タダでは手に入らない、戦って勝ち取るものだと。

 

さすがはフランス、世界に先駆けて人権宣言を打ち出した国だなあ、とつくづく感心する思いのラストでした。

 

「逃げてもいいんだよ」という子どもたちへのメッセージ。

でも逃げた後のこと、逃げた先のこと。

そのイメージが想像できなければ、「逃げる」ことをためらう子どもがいても不思議ではありません。

今まさに袋小路に迷い込んで、にっちもさっちも行かなくなっている子どもたちがいるとすれば、ぜひこの本を読んでみてほしいと思います。

フランスの街を疾走するアントワーヌとトニーのふたりが、きっと背中を押してくれることでしょう。

 

2.「スピリットベアにふれた島」

ベン・マイケルセン著 原田勝訳 鈴木出版

 

主人公は15歳のアメリカ人少年、コール。

金銭的に何不自由のない生活を送っているけれど、両親との関係がうまくいかないコールは問題行動を繰り返し、ある日とうとう同級生のピーターに後遺症が残るほどの怪我を負わせてしまいます。

本来なら刑務所に送られるはずのコールですが、「サークル・ジャスティス」という制度の手続きを経て、アラスカ州南東部の無人島に1年間追放されることになります。

その無人島での経験がコールの考え方を変え、彼は徐々に自らの行動を見つめ直していき、そして最後には被害者であるピーターの心の救済にも関わるようになっていくのです。

 

正直に言いますと、刑務所送りの代わりに無人島に送られるなんて、あまりにも荒唐無稽な設定だと思いました。

でも、作者の筆力の高さはそんな雑感を吹き飛ばすに十分で、読んでいる私は物語にすっかり引き込まれてしまいました。

 

特に、無人島で重傷を負い、生死の狭間をさまようコールの描写は必読に値します。

小さく非力な鳥のヒナにさえ怒りの感情を爆発させていたコールが、嵐の後でそのヒナを心配して、

「おまえら、だいじょうぶか?」

と声をかけるシーン。

コール少年の心情の変化が高い説得力で表現された名場面だと思います。

 

また、この本の本筋からは外れますが、白人を中心とする西洋社会が、それ以外の文明に対してようやくにしてリスペクトをし始めたような気がして、感慨深いものがありました。

 

コールが受けた「サークル・ジャスティス」という制度は北アメリカ先住民の間で受け継がれてきた犯罪関係者の処遇を決定する風習で、私たちが想像する現行の裁判制度とは少し趣を異にしますが、アメリカでは実際に少しずつ導入され始めているのだとか。

「北アメリカ先住民」

要するにインディアンやエスキモーを指すのだと思うのですが、そういった人々がこれまでどのように遇されてきたのかを思うと、その風習をアメリカ社会が取り入れていくことの意義を深く感じずにはいられません。

 

これまで啓蒙的というか、ある種押し付け主義の一面もあった西洋文明とその社会が、それ以外の社会の在り様を受け入れつつあることが、この本からも読み取れるような気がします。

 

余談ですが、この本は過去に課題図書に選定されたことがあるので、どこの図書館でも蔵書をたくさん抱えているはずです。

今調べたら大阪市立図書館の場合、その蔵書は25冊。予約は1冊も入ってません!

ということで、最寄りの図書館でもすぐに手に入ると思います。ぜひぜひ図書館へGO!

 

 

3.「ヒトラーと暮らした少年」

ジョン・ボイン著 原田勝訳 あすなろ書房

 

両親を相次いで亡くした少年ピエロは、叔母が住み込みで働くヒトラー総統の別荘・ベルクホークに引き取られます。

権力者と間近に生活するうちに、無垢な少年は徐々に変質していき・・・

 

ユダヤ人の少年と兄弟のように仲良くパリで育ち、列車の中でユダヤ人が席を追われるのを見て、「この席は空いていますよ」と止めようとするほど純粋で無垢であった少年が、権力者のそばで生活するうちにだんだんと変わっていってしまう様を、淡々とした筆致で描き出してします。

読んでいて、なまじなホラー小説よりも恐ろしく感じられました。

 

ピエロ少年はヒトラーのそばで成長するうちに、ユダヤ人への偏見に染まり、ユダヤ人の友人からの手紙を隠すようになり、ヒトラーの歓心を得るため、あるいは自分の立場を守るために、恩人である叔母を売り、その仲間を売り、そしていつか、自分の恋心を受け入れてくれない女性をその一家ごと売るようになります。

 

幼く非力で、でも素直でやさしい少年が権力者の影響を受けて、だんだんと「虎の威を借りる狐」になっていくのを見るのは心かき乱されることでした。

また、権力者のお気に入りとなった少年の言葉を無批判に「忖度」し続ける周囲の大人たちの態度も身につまされるものがありました。

 

純粋だからこそ、周囲のものをたやすく吸収してしまう子どもたち。

ナチスの時代だけが特殊だったとどうして言えるでしょうか。

 

中国の紅衛兵を連想せずにはいられませんでした。

統帥権干犯」という言葉が乱用されたわが国の歴史も。

 

権力者に阿り、変質していく心、その醜さと弱さから、どれだけの人が無縁でいられるのでしょうか。

同じ状況に陥った時、それを跳ね返すだけの強さが自分に備わっているのだろうかと、何度でも自問せずにはいられなくなる1冊でした。

 

 

以上3冊。

どれもほんとにおもしろくって、最後まで一気に読めます。

このブログに中高生の読者さんはいないと思いますが、その保護者の方はいらっしゃるのではないかしら。

息子さん、お嬢さまにぴったりですが、大人が読んでも十分おもしろい本ばかり。マミーさん超絶オススメ。

もしもお時間があったらぜひ読んでみてくださいね!