運動会と発達障害児と涙の思い出。

みなさま、こんばんは。

 

街中に金木犀の香りが漂う季節となりました。

近隣の学校からは太鼓や音楽、子どもたちの歓声が聞こえてきます。

運動会の季節でもありますね。

 

娘が通う学校の運動会は6月に終わってしまいましたが、小・中学校では今がシーズン。小さい子どもたちの大きな歓声が聞こえると、ふと立ち止まって校庭を覗き込んでしまいます。

運動会って大好きなんですよー。

いや、自分が子どものころはあんまり好きじゃなかったけど。(←運動音痴)

でも、1・2年生の子どもたちが一生懸命に走ったり踊ったりしているのって、ただただもうかわいくって、いつまでも見ていられます。

特に好きなのが、「運動会の歌」。


【運動会の歌】ゴーゴーゴー!

プログラムの最初の方、全校生徒みんなで歌うのですが、それがかわいくってかわいくって。

娘が小学生のころは毎年、この歌が始まると感極まって泣いてしまい、友人たちに、

「早っ!」

とか

「早い、早い早い!運動会、これからやん!」

ってツッコまれたものでした。

 

中でも思い出深いのは「組体操」。

娘が小学6年生の運動会の日のことです。

 

深刻な怪我が発生しがちなこともあって、最近ではあまり見なくなりましたが、娘が小学6年生のころにはまだ、組体操は運動会の花形プログラムでした。

毎年難易度の上がっていく演技、どんどん高くなるピラミッド、暑い盛りに連日の猛練習。

正直言いますと、個人的には「なくなってもいいのに。」とずっと思っていました。

娘が1年生のときには、練習初日で腕を骨折した6年生がいて、

「小学校最後の運動会を見学で過ごさないといけないなんて・・・」

と本当にかわいそうに思ったりしましたから。

 

でも、運動会当日。

実際の演技を見ていると、感動するんですよね、これが・・・。

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写真はネットからお借りしましたが、娘が運動会で披露したピラミッドもだいたいこんな感じでした。

保護者にしてみれば、

「あんなに小さかった我が子が、いつの間にやらこんなに大きくなって、あんなに複雑なことができるようになるなんて。」

という点が特大の感動ポイント。

また、「みんなで」「力を合わせて」「一生懸命」な姿が、日本人の心の琴線に触れまくるわけです。

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1段目後方でピラミッドを支える子どもたちなんて、どこからどう見てもその顔は見えなくなります。

 

「目立たない場所でも、みんなのために一生懸命、力いっぱい支えなければ、巨大ピラミッドは成功しない・・・。」

 

本の学校現場では「一致団結」という言葉がやたらと尊重され、大事にされるものですから、親の世代も同じく「一致団結」の場面を見ると感動するように刷り込まれているものと思われます。

下の段の、最も重い思いをしているだろう子どもたちが、顔を真っ赤にして、必死で耐えている姿をみるだけで、大人たちの胸はどうしようもなく熱くなってしまい、保護者席には号泣する親御さんたちの姿がたくさん見受けられました。

もちろん、私もそのひとり。

最後に、一番上によじ登った生徒さんがポーズを決めた瞬間には、運動場が揺らめくほどの拍手と歓声が響き渡りました。

私も号泣しながら、手が痛くなるほど大きい拍手を送りました。

本当に、本当に感動しました。

運動場で担任の先生とすれ違った時、

「ピラミッドの前に、まる子ちゃん(←仮名です)がボクの目を見て、しっかり頷いてくれたんですよー。成功を確信しました!」

なんて言ってくれて、それはきっとリップサービスであったのでしょうけれど、私は先生のご指導に心から感謝して、お礼を言ったものでした。

 

で。

感動の余韻に浸りまくって、組体操も悪くないなあ、なんて思って運動場をうろうろしていたら、娘の同級生、Nちゃんのお母さまとぱったり出会いました。

 

Nちゃんはいわゆる「アスペルガー症候群」のお子さんで、学業にはあまり問題がないのだけれど、体育は全般的に苦手、団体行動も苦手、また自閉症スペクトラムのお子さんにはよく見受けられるように、「身体的接触」を嫌がる傾向が顕著だということで、早くから組体操をパスして見学することを決定していたのでした。

 

Nちゃんのお母さまは、「組体操、すごかったねえ。」とニコニコと話しかけてこられました。

私もまだ興奮状態だったので、「ほんまにね!涙で前が見えへんくらいやったわー」と返しました。

私、満面の笑顔だったと思います。

 

そうしたら、Nちゃんのお母さまが言いました。

 

「Nがね、組体操の間、すごくさびしそうにしてたから、毎日練習するのは無理でも、本番だけ、はじっこの方ででも、参加させてもらえばよかったのに、って言うたんよ。

そしたら、

「そんなんあかん。みんな毎日、あんなけ必死で練習してきたから、これだけ拍手をもらえるねん。私はそういう努力をできひんねんから、そんな資格はないねん。最後の最後でおいしいとこだけ乗っかるなんて、そんなずるいことをしたらあかん。」

って言うねん。 

ちょっとね・・・なんていうか、泣けたなあ。」

 

って。

 

私ねえ・・・その瞬間、頭から冷たい水をかぶったような気持ちになりました。

顔にはりついた笑顔をどう引っ込めたらいいかもわからないくらいで・・・いわゆる「フリーズ状態」だったと思います。壊れた機械のようにね。

 

運動会の練習が始まったころ、Nちゃんは組体操に参加しないと聞きました。それがNちゃんの希望だとも。

アスペルガー症候群という特性を持ったNちゃんとそのご家族がそれを最適解とし、学校側もそれを受け入れるとするならば、私はそれを「結構なことだ」と思っていました。

私が子どもの頃にはアスペルガー症候群なんて誰も知らなくて、運動会には身体的障害でもない限りは誰もが、

「なにがなんでも」、

「強制的に」、

「無理やりにでも」

参加する・させられるのが当たり前だと思っていたので、学校側も児童の事情に対して少しは斟酌してくれるようになったんだなと、それは「進歩」であるとすら思っていたのです。

 

思い通りにならなかったら、パニックを起こしたり、学校のルールよりもマイルールを押し通してしまうNちゃんでしたから、組体操をさせるなんてことは無理と言うよりも虐待に近いと私は思っていました。思い込んでいました。

事故につながらないよう、先生方の指導はとても厳しいし(体罰とまではいかなくても怒鳴ったり、厳しい言葉の叱責はあり)、記憶のとどめ方も定型発達のお子さんたちとはちょっと違うのがアスペルガー症候群のお子さんの常ですから、先生方の叱り方がトラウマになりかねないとも思っていました。

 

でも。

運動場でかけ声を合わせてポーズを決め、拍手喝采を浴びている同級生たちを見て、Nちゃんがどんな思いをするのかということまでは、正直思いが至らなかったと言えます。

その日、その時、Nちゃんがどれだけ寂しい思いをするかということにも。

車椅子に乗った子でも、応援旗を振る役などで参加しているというのに。

 

もちろん、担任でもなんでもなく、同級生の母親であるだけの私が、Nちゃんのために何ができたわけではありません。

そして、今から考えても、Nちゃんがあの組体操に参加することは、やはり厳しかったろうな、と思います。参加するかどうかを自分で決めさせてあげられたことは英断だっただろうと。

 

でも、やっぱり、考えずにはいられないのです。

 

「一致団結」と言います。

美しい言葉です。

 

その「一致」ってなんだろうって。

「団結」ってなんだろうって。

 

誰かが寂しい思いをしている横で歓声を上げて、そこにどんな一致団結があるのでしょう。

誰かに疎外感を与えてまで、それは達成されるべきものなのでしょうか。

 

みなが等しく扱われるべき学校現場で。

 

100人の発達障害児がいれば、100通りの個性があると言われますから、そのひとりひとりに手厚く配慮をすることは、実際問題としてむずかしいことはわかります。

 

だからこそ、忘れないでいたいと思うのです。

「一致団結」することの「喜び」「気持ちよさ」「恍惚感」に乗り切れない人がいるかもしれないことを。

そういう人もまた、この社会の構成員のひとりなのだということを。

 

今でも、あの組体操を思い出すと、どよめく感動の歓声と拍手、娘の高揚した頬の赤さと見学席のNちゃんの姿が目に浮かびます。

私の涙と、Nちゃんのお母さまの涙の違いもまた。

 

何が正解だったのか、あるいは間違いだったのか、

いや、正誤なんてないのかもしれない、ただ他にもっといい選択肢はなかったのか、

これからも考え続けたいと思っています。