怒らない夫が泣くほど怒った日。(子育ての思い出・2)
みまさま、こんばんは。
今日は育児中だったころの、我が家の夫についてお話ししようと思います。
当ブログにたびたび登場する我が家の夫。
時々「むか」っとすることもありますが、根はやさしくて善良な人です。(力持ちではありません。)
また、超がつくほどの合理主義者で、神秘主義や精神主義が大キライ、
娘の名前を決める際も、
「あなたがこんなに痛い思いをしたのだから、あなたが好きな名前をつけていいよ。だけど、画数占いとかはやめて。絶対。」
と言い放った人です。
「大体な、漢字や占いなんて太古の昔からあるけど、今と昔の漢字は全然違うし、画数も基本的に減ってるやん。一体全体、どの時代の漢字で占うねん。くっだらない。ぺっぺっ。」
なんてことを、出産翌日の妻に言ってしまうような人ですから、誤解を受けやすいタイプではあります。愛想も少々足りません。
ただ、常に理性的で、感情的にならない彼の性格には、妻としてはとても助けられています。
およそ「激昂する」ということがない人で、結婚してずいぶん長くなりますが、夫が怒っているところを見たことがほとんどありません。怒鳴られたことも声を荒げられたこともありません。
今日はそんな夫が泣くほど怒ったある日のことを思い出しながらこの記事を書いています。後にも先にも、彼があそこまで怒ったのを見たことはありません。
当時、私は娘の離乳にてんてこ舞いの日々。
とにかく母乳なしではいられない子で(←哺乳瓶がキライだったもよう)、
お腹がすいてもおっぱい、
喉が渇いてもおっぱい、
眠くなってもおっぱい、
機嫌が悪いときもおっぱい、
って感じでしたから、離乳食なんてもってのほか、なにを作っても口から出してしまい、ほとほと困り果てていました。
あれこれ食材を試したり、調理方法を変えてみたり、食べている途中で眠くなったりぐずったりしたら歌を歌って、機嫌をとって・・・
平日はもちろん夫は仕事ですから、普段の私は今で言うところの「ワンオペ育児」。(母との同居が始まったのは娘が小学校に上がってからのことでした。)
けれども休日、私が自分の食事をそっちのけで娘の離乳食に奮闘しているのを見た夫は「これは大変」と思ったようで、たまには私がゆっくりと食事をとれるようにしてあげたいと思っていたようです。
ここまでが前提。
で、ある日。
仕事から帰宅した夫の機嫌がひどく悪くて、ぷんぷん怒っていたので、どうしたのか聞いてみました。
夫「会社の先輩とお店で昼食をとっていたら、家族連れがいて。パパ・ママ、3歳くらいの子と赤ちゃん。
でさ、そのパパがなーんにもせえへんねん。ずーっと漫画読んでて。
ママの方はさ、子どもに食べさせて、お茶飲ませて、上の子が「トイレ!」って言ったら、赤ちゃんも連れてその子をトイレに連れて行ってさ。
でもパパの方は知らんふり。ぴくりとも動かへん。ずーっとやで?
上の子をトイレに連れていく間くらい、下の子を見とけばいいやん?
ママの方はさ、自分のごはんを食べるどころじゃなかったと思うで。
せっかく外でごはん食べてるんやん。普段は子どもの世話に追われてるんやろし、せめて外食してる時くらい、ちょっとは手伝ってあげればいいのに。
よっぽど漫画取り上げて、「おまえ、アホちゃうか、おんなじ顔して、自分の子やろー、ちゃんと面倒みたれや!」って言おうかと思ったわ。」
私は夫がそんな軽挙に出なかったことにほっとしつつも、飛び上がるほどびっくりしました。よそのお宅の食事風景なんて放っておけばいいことではありませんか。
だいたい、件のパパが平素から子どものお世話をしていないなんて、よそから判断できることではありません。もしかしたら、普段はパパの方が育児をしていて、その日はたまたまママがお世話をする番だったのかもしれないし。
私がそう言いますと、夫は、
「いーや!あれは絶対、普段からなんにもやってないね!」
と断言しました。
「そんなん、子ども見てたらわかるやん。その子さ、ひたすらママ、ママ言うとったで。なんでもママ。とにかくママ。パパのことなんか、見向きもしない。全然あてにされてなかったわ。普段からなんにもせえへんからやん。」
よほどイライラしたのでしょう、夫はめずらしくキツイ声音で言いました。
「俺はあんな父親にはなりたくない。てか、ならない。絶対。」
言い切った夫を見上げますと、夫の目にはじわじわと涙が浮かんでいました。
「ええー、泣く?よそのお宅のことで?」
ってちらっと思いましたけれど、普段から「夫が不機嫌なときは決して逆らわない」ことを信条にしていますので、うんうん、そうだねそうだね、と言ってその話を切り上げました。
そうしたら、次の日。
夫が知人の経営するレストランの予約を入れて帰宅しました。
「あんな父親にはならない」と言った自分の言葉をちゃんと実行しようと思ったのでしょう。
妻にゆっくり食事をとらせたい、生後8か月の子どもがいるけどかまわないか、と問い合わせ、「スタッフ全員で万全のサポートをしてあげる、どんどんおいで!」という答えをもらったから大丈夫というのです。
私はちょっと面くらいましたが、うれしいことだと思いました。
それは確かに夫の思いやりですものね。
育児のすべてを妻にまかせっきりにして、それが当然と思う人もいるのに、私はとても恵まれているなあと。
で、娘の離乳食を用意し、ぐずった時のためにおもちゃや絵本を大量に用意して、週末、夫の知人のレストランへとお出かけしました。
でもねえ。
今だから言いますけれど、結果として私、あんまり楽しめませんでした。
スタッフの人たちはとても親切でやさしくて、お料理はおいしいし、お店はきれいで快適。おまけに娘はちっともぐずらずに、ずっとお利口にしていてくれました。
しかも夫は一生懸命、「理想のパパ」に近づけるように、「俺が抱っこしてるから、あなた食べなよ。」と言ってくれました。
それなのに、私ときたら、どうにもそれが居心地悪くて。
だってね?
夫にずっと子どもを抱っこさせて、私ががんがん食べてたら、まわりの人は一体どう思うんでしょうね?
「まあ、最近のお母さんはずいぶんいいご身分だこと。」
とか
「どっちがママかわからへんねえ。」
なんて思われるんじゃないかしら。
などと想像して、ちーっとも落ち着かないのです。
わかってますよ、それが気にしすぎだということは。
ちゃんとわかってるんですが、それでも周囲の目が気になって仕方ない私は、
「俺が抱っこしてるよ。」と言う夫に、
「いやいや私が。」と返してしまい、だんだんと娘の取り合いみたいになってしまいました。
食事が終わるころには私は気を使いすぎてぐったり、ちっともリラックスにはなりませんでした。
帰り道。
「あかんわ、私はほんとにあかん。せっかくパパが気をまわしてくれたのに。
こんなときはしっかり甘えた方がいいのに。かわいげがないにもほどがある。」
と反省した私ですが、以来、「疲れてない?外食でもする?」という夫には
「いや、家で食べる方がいいです!」
と即答するようになりました。
さすがに最近では、娘と外食する際に、周囲の目を気にする必要はなくなってきましたが、あの日のことを思い出すと、どうしてあんなに気負っていたのだろうとおかしくなります。
夫にしても、初めての子育てで、私と同じようにいろいろと考えることも気負いもあったのだと思います。
「あんな父親にはなりたくない」
そう言った夫はその後、とてもいい父親であり続けてくれました。
たまーに、
「もうっ!パパったら!どうしてママが時々パパに怒り出すのか、よーくわかるわっ!」
って娘に怒られていますが、それでも娘はいつの間にかパパのそばにべったりひっついています。
夫もよく、
「娘も高校生になったら、「パパ、くさ~い」なんて言い出すんだろうなってずっと思ってたけど、全然その気配がない。」
と不思議そうにしています。
それはいつだって、自分のことより娘を優先させてきた夫の子育てのおかげなのでしょう。
ちなみに。
先日のこと。
娘がこんなことを言いだしました。
「甘えたくなったとき、ママが相手だと、機嫌によっては「もう大きいのに!」って、デコぴんされるから、キケンやねん。でもパパだといつでもヨシヨシ~って甘えさせてくれる。だからね、私が猫だとすると、ママは猫の親って感じで、パパは猫の飼い主って感じ!」
それを聞いていた夫は「はは。うまいこと言う。」って笑ってましたが、私は内心、
「猫の飼い主って・・・それって要するに「下僕」ってことやけど。」
と思いましたが、本人が幸せそうなので、放っておいてあげました。
幸せの形なんて、人それぞれですものね。ね。
おまけ。
前回のエントリーで、夫のケガについてお話ししましたら、たくさんの方からお見舞いのメッセージをいただきました。夫共々、心から感謝申し上げます。
夫は元気にしております・・・ギプスをはめた左腕を振り回して、「シャキーン!」とかやってるのを見たときには、
「なんかイラっとする。」
と言ったのですが、
「ええっ?!なんで?」
と心底不思議そうにきょとんとされたので、さらに「いらいらっ!」としました。
全国の男の子のお母さまひとりひとりの手を取って、
「男の子を育てるのって大変ですね、いつもお疲れさまです!」
と言って回りたい気持ち。
頼むからおとなしくして、さっさと治して~。としみじみ思う毎日です。
天使に会った夜。(子育ての思い出)
みなさま、こんばんは。
実は3年前、ブログを始めるにあたって、夫に言われたことがあります。
それは「娘のことはなるべく書かないように。」ということ。
当時、娘はまだ中学生。
夫にしてみれば、彼女の個人情報については、どれほど慎重であっても十分とは思えなかったのでしょう。
けれども、1年経ち、2年経ちしていくうちに、夫の態度も徐々に変化していき、ある時、
「あなたのブログの読者さんたちを見てたら、大丈夫かもしれんね。いい人ばっかりやもんね。」
と言い出しました。
うれしかったです。とても。
自分をほめられるよりも、お付き合いのあるブロガーさんたちをほめられるとうれしい気持ち。
「でしょ、でしょ?!そうでしょう?!」
となぜか私が鼻高々でした。
最近では娘自身も、「私のことも書いて~」と言うようになりました。
どう振り返ってみても、私の育児は失敗ばかり、ブログに書くほどのことはなにひとつありませんが、彼女のリクエストに応えるため、また、もうすぐやってくる娘のお誕生日の記念にと思って、いくつか育児中の思い出話をしたいと思います。
実は私は、ママ友以外とは子どもの話をすることはほとんどありません。
年賀状に子どもの写真を載せたことも一度もありません。
だって、他人の子どもの話ほど退屈なものってありませんものね。
みなさまにも、「興味ない」って思われてしまうかもしれませんが、もしもお時間がおありでしたら、お付き合いくださるとうれしいです。
娘を出産した病院の産科では「母子同室」のスタイルが導入されていたので、私のベッドにも出産の翌日には、看護婦さんに抱かれた娘がやってきました。
「はい、どうぞ~。」
と、若い看護婦さんに娘を手渡されたのをよく覚えています。
まだ名前も決まっていない、ふにゃふにゃの、プクプクの赤ちゃん。
ベビー用の小さなベッドに、どれほどそおっと寝かせても、娘はすぐに泣き出して、
「このベッドにはきっとなにかしらのスイッチか、それとも根源的な欠陥がある。」
と思ったのを記憶しています。
日中はまだいいのです。
なんだかんだとお見舞い客がいるし、その中の育児経験者にあれこれ教えてもらえて安心感もありましたから。
でも、夕方になって、三々五々お見舞い客が帰っていき、夫も帰宅し、そうしたら、私は、
「いつ、どのタイミングで、どうして泣き出すのかさっぱりわからない」
赤ちゃんとふたりきり。
新生児なんて扱ったことのない私は腕の中の娘を見下ろし、
「これ(←娘のこと)、どないするん?」
とつい考えて、我ながら母親の資格も自覚もないなあと途方に暮れたものでした。
世界中で一番大切で、自分の命よりも重いもの。優先せねばならないもの。
それが自分の腕の中にあって、明日の朝までなにがなんでも守り抜かなくてはならない。
そうと頭でわかっていながら、なにが信じられないって、自分が一番信じられないんですよ。だって、母親の経験値ゼロなんですから。
「私、なんにもわかってないんですけど!大丈夫なんですか、こんなのに任せてっ!」
って叫び出したい気持ちね。
あの心もとなく、不安でたまらない感覚、今でもよく思い出します。
おまけに夜になってどんどん静かになっていく病棟では、別の不安もありました。
出産のため入院していたのは大学病院で、産科と婦人科は同じ階。
廊下を挟んで向かい側のお部屋は、婦人科の病室だったのです。
ドアは常時開放されていて、だから赤ちゃんの泣き声も筒抜けの構造でした。
これってかなり気を使います。
だって、
明日が手術でなかなか眠れない人がいるかもしれない。
あるいは不妊治療中の人がいるかもしれない。
あるいは悲しいことに、流産や死産直後の人もいるかもしれない。
そんな人たちにしてみれば、夜中に聞こえてくる赤ちゃんの泣き声は、心底つらいものに違いありません。
夜が更ければ更けるほど、「迷惑だから娘を泣かせてはならない」と気を使ってしまい、入院中はまったく眠れない日が続きました。
でもねえ。
この「眠れない」ってこと。
本当につらいのです。
出産予定日をかなり過ぎても陣痛が来なかった私は、陣痛促進剤を使って娘を出産したのですが、入院前日から緊張のために眠れず、出産当日も興奮のために眠れず、娘と同室になってからは、娘が「ベッドに置かれると泣く」状態の繰り返し、で、一睡もできなかったので、極度の睡眠不足の状態にありました。
産後には発熱があったり、子宮収縮や会陰切開の痛み、おまけに運の悪いことに両腋下には副乳があり、それが岩のようにかちかちに腫れ上がって、お箸を持つだけでも激痛が走るというのに、4キロ近い娘をひたすら抱いていなくてはならない。
深夜の廊下を、
「泣かんといて、泣かんといて」
と娘を抱っこしつつ延々と歩き続けていた私は、かなり限界に近い状態だったのだと思います。
退院前日の夜、あまりの睡魔に耳鳴りと眩暈と視界のゆがみが同時に襲ってきたときには、
「これ、いつまで続くんだろう。退院してもずっとこのままかな。ずっと眠れないのかな。私、ちゃんと育てられるのかな、この子を抱えてマンションのベランダから飛び降りちゃったらどうしよう。」
と真剣に考えました。それは恐怖以外のなにものでもない想像でしたが、その想像がありありと目の前に迫ってくるのです。まさに追いつめられていたのだと思います。
どうしよう、そんなことになったら、と真っ暗な気持ちで深夜の病棟を歩いていたら、廊下の向こうに、ふと人影が見えました。
ほっそりと背の高い女性で、でもお腹のふくらみから、妊婦さんだと知れました。
「こんばんは。」
私たちはすれ違いつつ挨拶を交わして、彼女が私の娘の顔をのぞき込んだのをきっかけに、ひそひそと会話を始めました。
そうしてわかったのは、彼女のお腹にいるのは双子ちゃんだということ、切迫早産の可能性があるので、大事をとって入院していること、妊娠してからずっとトラブル続きでなかなか退院できないということでした。
「隣のベッドにね、」
廊下の壁に身体を預けて彼女が言いました。
「三つ子ちゃんママがいるんよ。7か月の。経過観察で入院してるみたいなんやけど、元気なんよー、その子。ごはんもちゃんと食べられるし、看護婦さんに呼ばれたら、ターって走って行ってるし。」
お腹に三つ子ちゃんがいるだけでもすごいけれど、それで走れるってすごい、と私が感心していると、彼女は「ククク」と静かに笑って言いました。
「その子ね、下から産みたい、って言うんよ。自然分娩希望。元気いっぱいやから。先生はまず無理って言うてはるみたいやけど。」
ますますすごい。三つ子を自然分娩しようだなんて。
「でも私はダメ。全然ダメ。双子だからとか関係なく、妊娠に向いてないみたい。妊娠してから、とにかく体調が悪くて悪くて。
悪阻も重いし、ありとあらゆる不調に見舞われて、流産しそうになったり早産しそうになったり。だからね、出産については帝王切開でもなんでもいいねん、無事に産まれてくれさえしたら。産み方なんか、どうでもいいねん。」
私は自分も流産の兆候があると言われて一時は絶対安静だったことや、とにかく早く無事に産まれてほしいとずっと祈っていたことなどを思い出し、彼女もきっと、当時の私とおんなじ気持ちなんだろうとしみじみしました。
そうして、しばらく他愛のない話を続けた私たちは、お互いのこれからの日々の健闘を祈りつつ、それぞれの病室に帰りました。
病室に戻って、私はすぐに自分の気持ちが先ほどまでとは打って変わって、すっかり落ち着いておだやかになっているのを感じました。
相変わらずひどい睡魔だし、全身の倦怠感や痛みはちっとも薄らいではいなかったけれど、心は前向きに、明るくなっていました。
暗く陰鬱な病棟の廊下で悲惨な想像に負けそうになっていた私を、ほんの束の間のひそひそ話が救ってくれたのです。
今でも時々思い出します。
緑色の常夜灯が彼女のシルエットを浮かび上がらせた瞬間のことを。
私にはあの夜の、あの双子ちゃんママとの邂逅が、どうしても偶然とは思えないのです。
ギリギリまで追い詰められていた私の心を、彼女と交わした会話が救ってくれました。
危うい崖の上で、今にも足を踏み外しそうになっているところを、すんでのところで引き留めてくれた彼女は、人の形をした天使だったのだと、今でも本気で信じています。あるいは神さまが、そのように取り計らってくれたのだと。
本物の天使には、羽がありませんでした。
ほっそりとして色の白い、とても美しい人でした。
今ごろどこかで、元気な双子の高校生のお母さんをしているのだと思います。
もしもどこかで、そんなお母さんを見かけられたら、昔どこかで人助けをしませんでしたか、と聞いてみてください。
きっと知らん顔で、でもこっそりと「ククク」と笑われることでしょう。
おまけ。
全然関係ない話なんですが。
先日、夫が会社でちょっとした高所から転落、左半身を強打しました。
で、今は左腕ギプス、顔の左側は「ジャイアンに殴られたのび太くん」状態(←娘談)になっています。
見ていると、背中がぞわぞわするので、直視できない毎日です。かわいそうというか、痛々しいというか。
私も少々体調が悪く、皆さまのブログを読んでもなかなか集中できません。
しばらく不義理が続きますこと、どうぞお許しください。
毎日、考えられないほどの酷暑が続いております。みなさまにおかれましてはどうぞ体調にお気をつけて、くれぐれもご自愛くださいませ。
政治家ってそんなに偉いん?
みなさま、おはようございます。
今朝のことなんですけど。
私ねえ、いつもよりすっごく丁寧にお化粧してたんですよ。
ファンデーションも念入りに~。
パウダーもせっせ、せっせと。
んでね。
「なんで今日に限ってこんなに一生懸命お化粧してるんだろうなあ。」
って自分でも不思議で。
そこで、はっ!と気がついたんですけど、
夢でした。
絶望。
起き上がって、しばらく呆然としてたんですけど、なにが腹立つって、
「またイチからお化粧せなアカンやん!」
ってこと。
そりゃね、私だって、絶世の美女として生まれてたら、きっとお化粧も楽しかっただろうと思うんですよ。鏡を見てても気分いいだろうし。
でも悲しいかな、鏡を見てウキウキしたことなんて一度もないし、
そもそも私にとってのお化粧なんて「社会人としての、一応の礼儀」以上でも以下でもないし、
だから普段のお化粧なんて「ま~る描いてちょん。」で終わりなんだけど、
でもでもやっぱりめんどくさくて、
「今日もまたあの作業をイチからかあ」と思うと朝からテンションがだだ下がりなのでした。とほほ。
テンションが上がらないと言えば。
昔からずっと不思議だったことをお話ししてみたいと思います。
みなさまはどんな風にお考えかなって、聞いてみたいと思うので。
それは「政治家って、そんな偉いん?」ってこと。
というのも、阪神大震災の時、ある政治家がこんなことを言ったから。
「昔はみんなで炊き出ししたもんだけどな。」
家や職場を失い、暖房もない避難所で酷寒に震える被災者に向かって、いかにも「自分たちでなんとかすれば?」と言わんばかりの発言を政治家がしたことについて、私は思わず「うーん」と唸ってしまいました。
例えばこれが、三ノ宮や西北の居酒屋で一杯ひっかけてる昭和なおじさまの発言だったとしたら、私もなんにも言いません。ただ「へえ」「ほほー」「なるほどー」って聞いてたと思います。
でも、あろうことか政治家がこんなことを言うのって、どうなんだろう、自分でも「変だな」って思わないのかしらん、と混乱したものでした。
で、最近。
少子化問題について講演会で
「この頃、子供を産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考える人がいる」
って言った政治家がいると聞いて、またまた「うーん。」と思ってしまいました。
「子どもを産むか産まないか」って、誰かにとやかく言われたくない問題の筆頭だと思うんですが、まあ政治家ですから、世の中の諸問題についてあれこれ語らざるを得ないことはあるでしょう、それは仕方ないとして。
でもなー、と思うんですよ。
「少子化」が問題だという認識があるのにも関わらず、それで出てくる言葉が
「勝手なことを考える」って。
それだけなん?って。
まるで子どもを持たない選択が、個人の「得手勝手」あるいは「わがまま」と言わんばかりの言い草。
これもね、仮に難波や心斎橋の居酒屋での、昭和なおじさまの酔った勢いのご高説なら、私はやっぱりなんにも言わずに「へー、へー」「ほほー」って聞いてると思いますよ。反論するのもめんどくさいし。
でも、やっぱり政治家がこんなことを言うのって、どっかおかしい、ずれてるって気がして仕方がないのです。
だってね。
政治家の人って、選挙の度に言ってるじゃないですか。
「世のため、人のため、社会のために尽くしたい、働きたい」
って。
だったら、ひとたび災害があったとしたら、
「すわ、一大事、世のため人のために働くチャーンス!」とばかりに、不謹慎なほどはり切って、ちょっとくらいの腰痛もなんのその(←高齢の方が多いですもんね。)布団をはねのけ、がばっ!と起き上がり、被災地のために飛び出していく…くらいのことは期待してもいいんじゃないかと思うんですよ。
だってそうでしょう、自分でそう言ったんだから。選挙の時に。
少子化の問題についても、それが日本社会や国家の未来にとって問題があると思うのだったら、なんらかの改善策を考えたり子どもが増える施策を打ったりするのが政治家のお仕事なんじゃないんですかね。
「人や社会、国家のために働きたい、働かせてください」
と言っておきながら、いざ、政治家になったら、なんにもしないどころか、国民に向かって「自分でやれば?できないとかやろうとしないのは、わがままだから」という態度でいるのは納得できません。そんなの公約違反というより、単なる「ウソつき」じゃないですか。
なんでそんな「ウソつき」に上から目線で、「昔の人は自助努力で炊き出ししたもんなんだけどなー。」とか「子どもを産まないなんて自分勝手な考え」なんて言われなきゃいけないんでしょうね??さっぱりわかりません。
この、「政治家になった人が、国民に向かって、どこかお説教めいた話をする」のって、なんとかならないのかな、っていつも思います。
私たちが政治家に期待するのは、より公平で公正な税の使い方と分配です。
税を納める側と分配する側とに、あたかも上下の隔たりがあるみたいにふんぞりかえった言動をとる政治家がいることには違和感を感じずにはいられないし、政治家になったとたんに、国民に対してまるでお説教をするかのような態度を見せる人に対しては、選ぶ職業を間違えたのでは、と言いたくなります。
特に少子化に関しては、政治の無為無策が拍車をかけた側面もあるはずなのに、それを若い人たちの考え方や生き方のせいにするとは、なんということだろうと愕然とします。
どんなにがんばっても、あんまりお仕事できないんですぅ・・・という政治家もいるでしょうから、それはまあ仕方ないとして(あんまりよくないけど)、でもせめて一般の国民に対して、お説教じみたことを言ったりすることだけは勘弁してもらえないものでしょうか。
少子化で子どもがどんどん減っているから、大問題。でも解決策がなかなか見つけられない、対策が間に合わない・・・だったらせめて「産んでください」とお願いするのが筋ではないですか。
なんで一足飛びに「自分勝手」なんて言葉が出てくるのかな。
もちろん、お願いされたからって子どもを産む人が続出するわけではないだろうけど。
なんかもう、とにかくね、
「できひんのやったら、それはもう仕方ないけど(←情けないけど)、せめてエラそうにモノ言うのん、やめてぇや!」
って言いたいんですっ!
あー、すっきり。
・・・久々にコメント欄を開けてみたいと思います。
私のグダグダな記事の中身よりも、みなさまのコメントの方をこそ読みたいとお考えの方もたくさんいらっしゃると思います。
なので、非常に申し上げにくいことですが、当記事に関係のない、個人的なお話は別途、ご自身のブログの方でお願いいたします。ほんっとにすみません。伏してお願い申し上げます。
初めてのブラジャーの思い出。
みなさま、こんばんは。
今日は「ブラジャー」についてお話ししてみたいと思うんです。
自分で言い出しといてなんですけど、ちょっと照れちゃいます、いい年なのに。
女性のみなさま、初めてつけたブラジャーのこと、覚えていらっしゃいますか?
男性のみなさまは・・・まあ、こっそり聞いていてください。ふふ。
私はねえ、はっきり覚えてるんですよ、最初のブラジャーのこと。
むかーし、むかし、私がまだ小学校の高学年だったころね、
一日の授業の終わりに「終わりの会」ってあるじゃないですか、いわゆるホームルームのような。
そこで担任の先生が、クラスの女子の名前を5人、順番に挙げていったのです。
「Hさん、Yさん、Tさん、Kさん、Nさん」って具合に。
で、先生は続けてこうおっしゃいました。
「今、名前を呼ばれた人たちは、明日からブラジャーをつけてくるように。
あなたたちのは、先生のよりも立派です。」
・・・もうね。
今でも、私、その瞬間のことを思い出すと卒倒しそうになります。
上記の女の子のうち、Tさんが私。
赤面どころではありませんでした。
自分の喉の奥の方から「ひゅっ!」って変な音がしましたもの。
「ひぃぃぃぃぃ・・・」
って思っていたら、斜め前に座っていたYさんが私の方をそおっと振り返りました。うっすら上気した彼女の頬に、不自然にひきつった笑顔が浮かんでいたのを、今でもはっきりと思い出せます。
「ど、どうなん、これ、どうするんよ・・・」
とでも言いたげな表情、きっとそれは私の顔に張り付いていたのと全く同じものであったに違いありません。
先生の言葉を聞いた教室の空気は、一瞬、なんていうのかな、「ぱあああっ!」と盛り上がったようにも思えました。
公立小学校の高学年の児童たち。
男子生徒なんて、まだまだ子どもというか、中には人間になる一歩手前、おサルさんみたいな子も多いじゃないですか?
そういう「ちょっとアレ」な男の子たちが、「ブラジャー」と聞いて、思わず椅子から腰を浮かすしぐさをしたことまでありありと思い出せます。
でも、先生の睨みが効いたのか、その後、教室にはすぐに落ち着きが戻って、私たちは三々五々帰宅の途につきました。
私は家に帰って、すぐに母に報告しました。
「先生に、明日からブラジャーをつけて来なさいって言われた。」
って。
私の母は旧弊な人で、今も昔も「先生のおっしゃることは絶対。」という考え方の持ち主なので、「そ、それは大変!」とばかりに飛び上がって私を近くのお店に連れて行き、初めてのブラジャーを買ってくれました。
ブラジャーって言っても、なんていうか、あんまり色気のあるものではありませんよ?何と言っても、まだ小学生がつけるようなものですから、頭から被って着脱するタイプの、今でいうスポーツブラみたいなやつね。背中がクロスになってるような。
こんな感じだったかな、色は白しかなかったような。(←どうでもいい)
家に帰って、母に促されるまま、つけ方の練習なんかをした覚えがあります。
つけ方、って言っても単に被るだけでしたけれども。丈の短いタンクトップみたいなものですから。
でもたとえつけ方が簡単だったとしても、ブラジャーをつけるということ自体がイヤだったな。
自分の意思とは関係なく、自分の身体が大人になっていくのだということ、
教室の中にいる同級生とは、なにもかも「平等」だと思っていたのに、自分にだけ、なにか違う、別の「記号」を付与されてしまったような違和感、なによりも、他人から「バストが大きい」と思われることがイヤでした。
それはやはり、その時代の「空気」の影響だったのでしょう。
今の若い人には想像もつかないことかもしれませんが、1980年代始めの頃の日本人の「民度」なんて、そう高いものではなかったのですよ。
テレビの素人参加番組に、バストの大きい女性が登場したりしたら、それが日曜日の真昼間であったとしても、
「はあ・・・なるほど、脳みそに行くべき栄養素が全部、胸に行っちゃったんだね!」
なんて、平気で言う司会者がうじゃうじゃいたものなのです。
そのセリフは、バストの大きい女性に対して、あまりにも頻繫に与えられる、平凡で使い古された表現だったので、まだ小さい私は、「胸が大きくなると頭が悪くなる」と半ば信じていた気がします。
私と同世代の女性なら、こういう雰囲気、なつかしく思い出してもらえるんじゃないかなあ。
下手にバストが大きいと、恥ずかしい気がしたり、隠そうとするあまり、姿勢が悪くなったり。イヤなものでしたよね。
おまけにやっぱり「教室でからかわれるかもしれない」という想像が私の胸を暗くしました。
学校で、おサルさん系男子にしつこく笑いものにされることほど、憂鬱なことはありませんもの。私だってまだまだ子どもで、いろんなことが「繊細」でしたから(そんな時代もあったのですっ)。
でも、結果として、そんな心配は杞憂に終わりました。
次の日から、先生に名指しされた女子児童はみんなブラジャーをつけて登校しましたが、誰からもからかわれることも、笑われることもありませんでした。
半年経つ頃には、女子児童の間で、
「どうしよう、ブラジャーつけてくるの、忘れた!体育あるのに!」
「えー、最悪。腕組みして走れば?」
なんて会話が平気で交わされるほど、私たちにとって、ブラジャーとはなくてはならない存在になりました。(←だったらつけ忘れるなよ、って話なんですが、そこはやっぱりまだまだ子どもだったんですねえ。ちなみにつけ忘れて登校したのは私~。ほほ。)
ブラジャーをつけ始めたことが、クラスメイトからの揶揄やからかいの対象にならなかったことに心底ほっとしながら、一方で私はずっと先生の、「ブラジャーをつけてきなさい」という指導が、どうしてあんな形でなければならなかったのか、考え続けていました。
確かに先生の目から見て、私たちがブラジャーをつけるべき時期に差し掛かっていたことは明らかなことだったのでしょう。
こういうことは時として、母親よりも他人の目の方が的確だったりしますから。
(母親って自分の子を見る時はどうしても「幼く見える」補正がかかってしまって、自分の娘の体型が激変していることに気がつかなかったりします。)
でも、だとすれば、保護者会や連絡ノートなどを使って、保護者に直接ブラジャーの着用を勧めることもできたでしょうし、該当する子どもたちだけを別室に呼んで指導することもできたはずです。
それをなぜわざわざ、クラス全員の前で、あんなにもはっきりと「つけてきなさい」と言わなければならなかったのか。それはあまりにもデリカシーを欠いたふるまいに感じましたし、実際名前を挙げられた私たちは、確実に「恥ずかしい思い」をしたのです。それは、何度考えても、やはり心外なことでした。
私たちは普段、担任の先生をとてもいい先生と慕っていただけに、先生のあの「指導」に、一体どんな目的や意図があったのだろうと、不思議でしようがなかったのです。
考え続けて、私は一定の答えを自分の中に見出しました。
先生に確認したわけではありませんが、あながち、間違えてもいないと思っています。
先生が、みんなの前で、5人の女子児童に「ブラジャーをつけてきなさい」と言ったのは、名前を挙げられた女子児童の性格、クラス内の立ち位置、それから「5人」というある程度まとまった人数、そういったものをすべて考え抜いた上での行動だったのだろうと。
その日、先生に名前を挙げられた女子児童は、クラスの中でも最も目立つ、中心的なメンバーでした。
明るく社交的でみんなに好かれる者、
責任感が強く、児童会やクラスの仕事でいつも活躍している者、
抜きんでて成績がよく、しっかりしている者、
やさしく親切な性格で誰からも頼りにされる者、
また、全員、身体的な成長が早く、体格もよかった。
ついでに言うと、口も達者だった。
おまけに気も強かった。
男子になにか言われて、めそめそしてしまう子がいなかった。
そして「5人」という人数。
いくらやんちゃな男子児童でも、クラスの中のそんなしっかりものの女子ばかりまとめて5人、同時に敵に回すなんてことができるでしょうか?
担任の先生はきっと、そこをよく見ていらっしゃったのだと思います。
仮にそれでも女子のデリケートな問題に、ふざけてちょっかいを出す児童がいたとしても、クラスの全員が彼女たちの味方について、瞬時に粉砕していたことでしょう。
ブラジャーをつける、というデリケートな問題は、その後も子どもたちの成長に伴って、いつまでもついて回る問題で、だからこそ先生は、クラス内の最も「強い個体」に、最初の壁を突破させようとしたのだろうと思います。
次にブラジャーをつけ始める女子児童はずいぶんと気持ちが楽だったはずですから。
子どもの世界であっても、「数の威力」というものは存在します。
名前を出された子たちは、ひとりではなく、共通の立場の者がいることで、一種の安心感を持つことができた。誰かひとりが攻撃されることにはならなかった。また、いざとなれば、「先生に言われたからブラジャーをつけているのだ、あなたたちも聞いていたはず。」と主張することができた。
そして子どもの世界であっても、やはり「力関係」というものがあるんだろうと思います。
誰が人気者で、誰がクラスのまとめ役なのか。
それらのすべてを把握した上で、女子児童の身体の変化というものに、真正面から切り込んで、なおかつクラス内の平穏を保つことに成功したのですから、先生の作戦勝ち、ということなのでしょう。
「先生って、本当によく見ている。」
そう感じた私は、学校の先生ってほんとにすごい、と思うようになりました。
大人になってから、先生にお目にかかったことはありません。
もしもう一度、先生とおめもじ叶うことがあったとしたら、
「先生、私はただ口が達者だっただけなのに!」
って言ってみたいと思います。
きっと、もうお忘れだろうなあ。
けれども私の方は先生の、あの強烈な指導のせいで、最初のブラジャーのことを、一生忘れられないと思うのです。
おまけ。
最近のお子さんは、自らのバストが大きくなることについて、どんな感想を持つのでしょう。
私たちのころよりは、もっとずっと肯定的に受け止められているような気がして、それはとても素晴らしいことだと思います。
成長し、大人になるということは、本来、喜ばしく、おめでたいことです。
できたら、すべての女の子たちが、大人になること、大人の身体を手に入れることを、素直に寿げる世の中になってほしい、女性性の獲得を恥ずかしいことと思わずにすむような社会であってほしいと願わずにはいられません。
ま、それにしても。
堂々とブラジャーのことを話題にできるようになるなんて、我ながらびっくり。
年をとるって、なかなか得難い経験ではありますね。
すべてはあの日から始まった。阪神淡路大震災が関西地方に残したもの。
みなさま、こんばんは。
地震のお話が続くことをお許しください。
6月18日の大阪北部地震から約半月、やっと地震のことをブログでお話できるくらいまで、気持ちの整理がついてきました。
地震ってほんとに怖いですよね。
なにが怖いって、揺れもそうですが、あの音。
地の底から響いてくるような、それでいて頭上から覆いかぶさるような、あの凄まじい音は一体どこからやってくるのでしょう。
阪神淡路大震災の時も、今回の地震でも、同じように響いてきたあの大きな音は、あまりにも大きな恐怖だったのでトラウマになりそうです。
そもそも、大阪という土地は、地震が本当に少ない街だったのです。
なにしろ、生まれてから阪神淡路大震災発生までに、私が地震を体感したのは、高校生の頃(←ってことはすんごい昔)にたったの1度、それも震度1の小さなものでした。
阪神淡路大震災までは、例えば家を建てるにしても、地震保険になんて誰も見向きもしないような土地柄だったのです。
思えばどうしてあんなにも無邪気に「大阪は地震とは無縁」と思いこんでいられたのか、甚だ疑問ではありますが、それゆえにこそ、阪神淡路大震災というものが我々関西人に植えつけたショックというのは、計り知れないほど大きなものでした。
以来、ずいぶんと関西人の意識も変わりました。
まず、個人の住宅から「婚礼たんす」というものが次々と消えていきました。
↑
こういうやつね。
我が家にもこんなタンスがありましたが、阪神淡路大震災の折には、そのすべてが倒れてしまい、セーターどころか靴下の1枚すら取り出せませんでした。
あの日、大阪府下でも約30人の死者が出ましたが、その原因の多くは倒れた家財の下敷きになったことによる圧死が多かったように記憶しています。
我が家も結局、すべてのタンスを処分しました。
今では、こんなタイプのタンスを所持している家庭はめっきり減って、残っているお宅でも、なんらかの転倒防止の策がとられていることが普通になりました。
今回の地震でも本棚の下敷きになって亡くなられた方がいらっしゃいましたが、阪神淡路大震災の後にタンスの処分が進まなければ、自宅内での被害はもっと拡大していただろうと思われます。
食器棚もね、危ないんですよ・・・。
勝手に扉が開いて中の食器が雪崩を打って外に飛び出し、あたりに破片が散乱、怪我のもとになりました。
我が家でも食器棚は処分して、作り付けの食器棚を使っています。
扉も斜め手前に引き出す仕様で、これがなかなか優秀です。
こんな感じ。
今回の揺れでも、扉は全く開かずに、食器もほどんど無事でした。
また、阪神淡路大震災後、住宅の耐震補強には税金から補助が出るようになりましたし、学校の耐震補強も進みました。
18日の地震の日、すでに登校していた娘は、自宅よりもずっと震源地に近い学校で地震に遭いましたが、「何が起こっているのか、まったく意味がわからなかった」ほどの衝撃だったのに、一時グラウンドに避難した後に戻った教室は、
「普段とまったく変わらなかった」
そうです。
これは直下型の地震に対しても、日本の耐震補強工事が非常に有用であることの証左だと思います。
阪神淡路大震災の教訓は他にもたくさん見受けられました。
まず、自衛隊の派遣が早かった!
阪神淡路大震災の時には自衛隊に派遣要請を出すのが遅れて、被害が一層甚大になりましたので、それを思うと隔世の感があります。
自衛隊のみなさんのご尽力には、被災地からも感動と感謝の声が多く上がりました。
また、阪神淡路大震災の時には、お役所で働く人のマンパワーが不足してしまい、家屋の危険診断さえなかなかできない状況でしたが、今回の地震では発生から1週間も経たないうちに、すでに1軒ずつの診断が始まっていました。
奈良や兵庫など、近隣府県の役所から支援が入ったからです。
それもまた、阪神淡路大震災の経験から、「次に同じことがあったら」の想定をお役所がしていたからこそでしょう。
また、ボランティアセンターが立ち上がるのも迅速でした。
阪神淡路大震災、また東日本大震災を経て、そのあまりに悲惨な被害の記憶が新しすぎて、「これくらいでボランティアさんに来てもらうのは申し訳ない」と遠慮が出てしまったのでしょうか、あまり申し込む人がいなくて、「遠慮せずにボランティアさんにお願いしてください」のチラシが配られていました。それもボランティアに来てくださる方がたくさんいらしたからでしょう。
今回、様々なところで、あの阪神淡路大震災の教訓が生かされているのを見ることができたのは、ありとあらゆる組織で、「神戸」をモデルに、被害の想定を何度も繰り返してきたからこそと思います。
反対に、まだ改善しなくてはならない課題もありました。
まずはもちろん、高槻市の小学校で起こったブロック塀による事故。
ひとたび大規模な災害が起これば、人間ひとりの力というのは非力なもので、だから、犠牲者を必ずゼロにすることは、とても難しいことはわかります。
でも、今回の事故は防げたはずではないですか?
地震が起こるたび、「ブロック塀は危険です」のアナウンスはしょっちゅうあったし、私も地震の度にそんなニュースを聞きました。
高槻市の職員だけがそれを知らないなんてことがあるでしょうか。
もちろん、行政の人間が、個人所有の敷地内にあるブロック塀を高圧的、あるいは強制的に撤去させることは難しいことでしょう。
でも「学校の」ブロック塀ですよ?
他の土地のブロック塀よりも、ずっとずっと撤去しやすかったでしょうに。
で、思うのですけど。
今ね、公立の学校って、すんごい「貧乏」なんですよ。
どこのお姑さんに管理されているんだろうと思うくらいの節約っぷり。(←ただの比喩です。世の中のお姑さんたちを悪く言うつもりはありません。ほんとにほんと。)
ボランティアで出入りしていても、あまりの「お金のなさ」にちょっとげんなりします。
「カラーコピーは高いから、よほどのことじゃないと使えないように、コピー機に鍵かけとこ。」
とか。
「コピー機に鍵」って。今どきカラーコピーが一体いくらするっていうのでしょう。そこまで管理しないといけないものでしょうか?
あと、
「ゴミ箱にはってあるビニールのゴミ袋は何度も再利用するように。」
とか。
考えられます?ゴミ袋ですよ。あの45リットルとかの。あれを再利用!
そこまで節約しなくてはならないくらい、学校ってお金ないんだ・・・という現実を見てしまうと、費用の安価なブロック塀が喜ばれてきたのもわかりますし、撤去のための費用もなかなか捻出できなかったんだろうなと想像できます。
だからこそ、「安全」に関する問題については、1市町村だけでなく、府や国の介入があってもいいのでは、という気がします。
「学校の敷地からはブロック塀の完全撤去を!」くらいのことを文科省に言ってほしい。心からそう思います。予算もつけてあげてください。
同時に私を含む、大阪のごく普通の有権者も、そろそろ、「小・中学校の統廃合」を受け入れなければならない時期に来ていると思います。
「離島に存在する唯一の小学校」じゃあるまいし、特に大阪市内では、今ほどの小学校の校数が必要だとはどうしても思えません。
私の自宅からも、徒歩通学が可能な小学校は5~6校。そのうち1学年1クラスしかない小学校は3校もあります。
少子高齢化の波が治まる気配が微塵もしない昨今、今後、児童数が激増することはありません。断言しますがそんな未来はやって来ない。
だとすれば、近隣小学校を統廃合して、学校数を減らす方向に持って行くべきです。
校長先生や教頭先生の人件費が1校分でも浮いたとしたら、その浮いた人件費でどれくらいのブロック塀が撤去できることでしょうか。
近所の小学校が廃校になるかも、の情報が流れてくると、そのたびに反対運動が巻き起こって署名なんかが回ってきます。
その運動をすること自体に反対はしませんが、私は署名しません。
年々先細っていく予算で、どうやって子どもたちの安全を守っていくのか、それを考えると、「なんでもかんでも反対ばかり」では、うまく行くものも行かなくなるんじゃないかなーと愚考しています。
改善しなくてはならない問題、その2。
今回の地震の発生は月曜日、朝の7時58分。
ほとんどの児童・生徒が登校途中、あるいは登校済みでした。
で、すったもんだの末に、すべての小・中学校で休校が決定しました。
娘の高校も休校になりました。
決定されたのが10時くらい。
中学生・高校生に関しては、帰宅を促す、で済んだかもしれませんが、問題は小学生。
余震が続いていましたので保護者のお迎えが必須でした。
で、すでに何とか勤務先に到着していた保護者の多くがまた引き返す羽目になりました。公共交通機関のほとんどが止まっているというのに。
仕方なく、自家用車やタクシーを使う人が多かったと思います。電車が止まっていることもあって、市内の道路は大渋滞、緊急車両の走行に支障が出るほどなのに、休校の決定がさらに渋滞を悪化させることになりました。
前述した通り、学校の耐震補強は優秀です。
下手に動き回って、道路上で余震に巻き込まれたり、渋滞を引き起こしたりするよりは、学校にとどまっていた方がずっとよかったのではないかと思います。
私たちは阪神淡路大震災から多くのことを学びました。
「あの時に、これだけの備えができていたなら、あれほどの犠牲者を出さずに済んだのに」という痛切な思いから、永遠に逃れられないほどに、多くのことを学んだのです。
その学びは確かに、今回の地震から、幾人もの人間を救ってくれたに違いありません。
けれども、18日の地震は非常に局地的なものでした。
仮に上町断層が動いたら、あるいは南海トラフ地震が発生したら。
どれほどの備えも追いつかないほどの被害が出ることでしょう。
私たちはもっともっと賢くならなくてはならないのかもしれません。
気の遠くなるような話ですが、想定されるあらゆる事態への解決策をひとつひとつ、見つけていく。
あきらめずに、対策を続けていくことだけが、不本意にも災害で命を失ってしまった人々への、唯一の供養なのではないかと思うのです。
長くなってしまいました。
言いたいことはまだまだたくさん。
特に高槻のブロック塀の事故に関しては、歯ぎしりするほどの悔しさで、しばらく冷静にはなれませんでした。(今日のエントリーもちっとも冷静ではありませんが)けれどもやはり地震のことは一度は書いておかなければ、と思いました。
最後まで読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。
出会う前から、夫との共通の記憶。それから地震のこと。
みなさま、こんばんは。
ずいぶん前に亡くなりましたが、私の母方の祖母は7人の子どもを産み育てた、典型的な明治の女性でした。
7人!
想像するだけでも「ふらっ」とします。
子どもってひとり育てるだけでも大変なのに。
で、夫の母方の祖母もまた、偶然ですが7人の子持ち。
なので親戚の集まりなんかに出向きますと、これが結構大変なんです。
だって、「おじおば」、その配偶者がいーっぱい。
似たような顔をしたおじさん、おばさんがうじゃうじゃいて、誰が誰やら。
結婚当初は、その中にいる義母を見分けられなくなって、目が白黒したこともあります。
夫も、私の親族と混ざると、なにがなにやらわからなくなるようで、ただひたすら曖昧な微笑を浮かべて時間が過ぎるのを待つ銅像のようになります。
夫の親族と一緒にいると、私はまったく話についていけなくなりますが、逆もまた然り。私も夫も親戚づきあいの際はただただ頷いて、話に混ざっている「ふり」をしています。
けれども、ひとつだけ、同じ同じ!と一緒に盛り上がれる話題がありまして。
それが祖父のこと。
戦時中、戦傷のために内地に帰還、その後応召されることがなかった夫の祖父は内地で終戦を迎えます。家族と共に戦時中を生きられた夫の祖父は幸運だったと思うのですが、ある日のこと、空襲警報が。
夫の祖母は子どもたちを起こし、乳飲み子を抱え(なにしろ7人!大変!)、慌てて防空壕へ行こうとすると、自分の夫の姿がないことに気づきます。
てっきりご近所、いわゆる隣組というやつですね、その消火活動に参加しに行ったんだろうと思っていたら、
先に入ってたんですって。防空壕に。
夫の祖母は、現代では考えられないことですが、妾宅へ出かける祖父を、風呂敷に包んだ着替えを持たせて黙って送り出すような人で、女中さんのお腹がどんどん大きくなっても怒りも動じもしなかった人ですが(←後になって女中さんのお腹の子の父親は別人であると発覚して、夫の祖父は「ほら!俺じゃないって言っただろう!」って大騒ぎしたみたいですが、家族みんなに「ああ、はいはい」ってスルーされたらしい。「日頃の行いって大事!」と夫の伯父はうれしそうに笑って言います。)、この時のことは、ずーっと怒り心頭だったようです。
で、よく似たことが私の祖父にも。
末っ子だった私の母がまだ産まれたばかりのころ。
大阪ではめずらしいことに地震が発生、祖母は大慌てで、まず7人の子どもを逃がそうと必死になっているというのに、
祖父はひとりで逃げたんですって。枕だけ持って。
この時のことを、祖母はやっぱりずーっと、ずーっと怒っていたようで、
親戚が集まると、必ず誰かがこの話を持ち出して、
「おばあちゃん、怒ってたなあ。」
って笑います。
きっと祖母たちは、祖父たちが自分を置いて逃げたとしても、さほど怒らなかったんじゃないかと思います。失望はしたかもしれませんが。
でも、幼い子どもたちを残して自分だけ、すたこらさっさと逃げ出したことだけは、どうしても許すことができなかったのでしょう。
晩年、夫の祖母も私の祖母も、祖父の介護と看病に明け暮れる日々でした。
祖母たちの心中は今となっては推し量ることができませんが、
「平素役に立たない人間が、いざという時に役に立つわけがなかった!」
と言い続けた祖母たちの怒りがそう易々と鎮まっているとも思えません。
地震や災害が発生すると、たまに「子どもを救おうとして亡くなった」お父さまのお話が出てきますが、そんな報に接するたびに、私と夫は「なんて痛ましいこと、悲しいこと」と悄然とするとともに、なんとなく目を合わせて、
「今ごろ、おばあちゃん、また怒ってるなあ。おじいちゃんのこと。
世の中にはこんなに立派なお父さんもいるのに!って。」
って言い合います。
同じ年で、出会ってからすでに4半世紀以上、共通の話題が多い私たち夫婦ですが、出会う前からこんな共通項があったんだなあと思うと、しみじみ縁を感じます。
「そんなことはおそろいでなくっていいねん!」
っていう祖母たちの声が聞こえてくるようでもありますが。ほほ。
で、地震といえば。
6月18日の地震では、幸い、我が家にはたいした被害はありませんでした。
最初の縦揺れは激烈でしたが、阪神大震災の時よりは揺れている時間も短かったように思います。
あれこれ壊れたり、棚の上から物が落ちたりはしても、阪神大震災の時のようなショックもありませんでした。
「ああ、そりゃ壊れるよねえ。」
という感想は、2度目だからなのか、それとも「娘さえ無事なら、モノなんて別にどうでも。」という気持ちなのか、自分でも判然としません。
当日はさすがに、街中、いつもとは違った雰囲気で、
高架の上で止まったままの電車、
そこから下車して線路を歩いて駅に向かう人々、
閉まったままの踏切、
水のペットボトルがなくなったスーパーの棚、
本来なら、それらの写真を撮ってみなさまにご覧いただくのが、ブログをやっている者として当然の行動なのかもしれませんが、私はどうしてもそういう光景に向けてシャッターを押す気持ちにはなれませんでした。
今は、高槻や茨木など、影響の大きかった地域が一刻も早く普段の生活に戻れるようにと祈らずにはいられません。
また当日、みなさまから、安否を尋ねるあたたかいメッセージをたくさんいただきました。
続く余震に怯えながらも、みなさまからのお言葉に気づくたびに、心の中に恐怖に打ち勝つための支えの杭を打ってもらったような気持ちになりました。
感謝してもしきれません。
終日、バタバタしておりましたので、お返事が遅くなったり、入れ違ってしまった方がいらっしゃるかもしれません。非常時のことと、どうぞご寛恕くださいませ。
世の中にはたくさんの人がいて、それぞれに違うことを望み、幸せの種類も不幸の形もたくさんあるのでしょう。
ネットの中ではその違いのあらわれ方も顕著な気がしますが、それなのに、私がこれほどまでやさしく、素敵な方々とばかり出会えているというのは一体どういうことなのでしょう。
じゃんけんは弱いし、宝くじには当たらないし、おみくじでもなかなか大吉をひけないくらい、くじ運のない私ですのに。
今回の地震で、我が身の幸せをつくづく感じました。
みなさまに、最大限の感謝を捧げたいと思います。
本当にありがとうございました。
東京に行かなくても食べられた!
先日。
marcoさんからまたまたすごいものをいただきました。えへ。
すごい。
marcoさんのブログでは見たことあるけど、ご近所のスーパーでは全然見つけられないものばかり。
まず最初に感動したのが、緩衝材として入ってた、新聞。
英字新聞!なんておしゃれ。
読めないけど、LAの不動産広告っぽい。広告でもおしゃれ!とっとこ。(←「とって置こう」の意)
ででで、LOVIのオーナメント!
今度は小さい赤いボール。
くり抜いてー、
重ねてー、
針金を引っかけてー、
合体させてー、
できあがり!
3個できたところでようやく慣れて、残りはかなりスピードアップ、一気にできあがりました。
合計8個。めっちゃかわいい。
ツリーに飾るとか、ガーランドにするとか、考えるだけでも楽しいです。
それからそれから。
マイクロトマトにフルーツほお好き!
marcoさんのブログで見て、食べたかったやつ!
どっちもすごくおいしくてびっくりしました。
マイクロトマトは小さいけれど味が濃厚。
我が家の野菜好きの母は「最近の野菜は味が薄い」が口癖なのですが、このマイクロトマトは一粒ずつが「ほんとのトマトの味」とご満悦でした。
それから「フルーツほお好き」。
初めて食べましたけれど、これねえ、めーっちゃおいしい!!
あまりにもおいしいのでお取り寄せしようと思って調べたら、
すんごいお高い・・・
これは買えませんわー。もう食べられないのかなー。
と嘆いていたら娘が言いました。
娘「種とか苗とか買ったらええんちゃう?」
うむー。種・・・。
でもさー、ママ、植物はすぐ枯らすしな・・・。
娘「だったら、職場に持って行けばいいやん。」
は?職場に?なんで?
娘「だってママさー、仕事となったら、めっちゃ必死になるやん。言われてないことまで引き受けて、持って帰ってまでやってるやん?仕事のうち、と思ったら、植物栽培も意外とちゃんとできるかもよ?けけけ。」
むっか。
でも、一瞬真剣に考えてしまいました。
一粒の種から、あるいは苗からフルーツほお好きがワサワサ生っているところを・・・
いや、でもやっぱり、
「マミーさん、また変なこと始めて!」
と職場でウワサされてるところを想像して我に返りました。
地道に節約して、お取り寄せします・・・。
それでそれで、まだまだある~。
これ、なんとmarcoさんの手作り♡
山椒の佃煮。
山椒って、鰻のかば焼きの上にパラパラとふりかけるもの、という程度の認識しかありませんでしたけれど、佃煮にしてもいただけるんだとびっくり。
すっごくおいしかったです。ごはんがすすむ、すすむ!
調味料としてのあの乾燥した山椒は、香りも風味も強い印象的ですが、生の山椒を佃煮にすると、あの独特の風味が柔らかくまろやかになって、醤油の風味とすごくよく合っていました。
これはほんとにおいしくて、このまま売れると思います。できれば売り出してください!これさえあればおかずは要らない!って感じです。
そして心にしみる甘いケーキ。
こちらもmarcoさんお手製のキャロットケーキ。
すみません、切り方が雑で・・・もうねえ、一刻も早く食べたくて、写真を撮るどころではなかった!
これもとってもおいしくって、家族で奪い合いになりました。
「スパイシー!」
「外国のケーキの味がする!」
って大騒ぎ。
ケーキを取り分ける時に、ちょっとこぼれたひと塊を、娘がさっと口に運んだときは、亡き祖母の、
「子どもはおいしいものをよく知っている」
っていう口癖を思い出しました。
ほんとにかわいいものとおいしいものがいっぱい、お腹いっぱいになって、満たされた気持ちになりました。
marcoさん、ほんとにありがとうございました。
でね、でね、marcoさん、ひとつ質問があるのです。
山椒の佃煮が入ってた、この容器。
これ。返さなくってもいいですかー?(←「いや、レシピを聞けよ」って家族からツッコミが・・・だって自分で作れる気がしないんだもんっ!)