初めてのブラジャーの思い出。

みなさま、こんばんは。

 

今日は「ブラジャー」についてお話ししてみたいと思うんです。

自分で言い出しといてなんですけど、ちょっと照れちゃいます、いい年なのに。

 

女性のみなさま、初めてつけたブラジャーのこと、覚えていらっしゃいますか?

男性のみなさまは・・・まあ、こっそり聞いていてください。ふふ。

 

私はねえ、はっきり覚えてるんですよ、最初のブラジャーのこと。

 

むかーし、むかし、私がまだ小学校の高学年だったころね、

一日の授業の終わりに「終わりの会」ってあるじゃないですか、いわゆるホームルームのような。

そこで担任の先生が、クラスの女子の名前を5人、順番に挙げていったのです。

 

「Hさん、Yさん、Tさん、Kさん、Nさん」って具合に。

で、先生は続けてこうおっしゃいました。

 

「今、名前を呼ばれた人たちは、明日からブラジャーをつけてくるように。

あなたたちのは、先生のよりも立派です。」

 

・・・もうね。

今でも、私、その瞬間のことを思い出すと卒倒しそうになります。

上記の女の子のうち、Tさんが私。

赤面どころではありませんでした。

自分の喉の奥の方から「ひゅっ!」って変な音がしましたもの。

「ひぃぃぃぃぃ・・・」

って思っていたら、斜め前に座っていたYさんが私の方をそおっと振り返りました。うっすら上気した彼女の頬に、不自然にひきつった笑顔が浮かんでいたのを、今でもはっきりと思い出せます。

 

「ど、どうなん、これ、どうするんよ・・・」

 

とでも言いたげな表情、きっとそれは私の顔に張り付いていたのと全く同じものであったに違いありません。

 

先生の言葉を聞いた教室の空気は、一瞬、なんていうのかな、「ぱあああっ!」と盛り上がったようにも思えました。

公立小学校の高学年の児童たち。

男子生徒なんて、まだまだ子どもというか、中には人間になる一歩手前、おサルさんみたいな子も多いじゃないですか?

そういう「ちょっとアレ」な男の子たちが、「ブラジャー」と聞いて、思わず椅子から腰を浮かすしぐさをしたことまでありありと思い出せます。

 

でも、先生の睨みが効いたのか、その後、教室にはすぐに落ち着きが戻って、私たちは三々五々帰宅の途につきました。

私は家に帰って、すぐに母に報告しました。

 

「先生に、明日からブラジャーをつけて来なさいって言われた。」

 

って。

私の母は旧弊な人で、今も昔も「先生のおっしゃることは絶対。」という考え方の持ち主なので、「そ、それは大変!」とばかりに飛び上がって私を近くのお店に連れて行き、初めてのブラジャーを買ってくれました。

ブラジャーって言っても、なんていうか、あんまり色気のあるものではありませんよ?何と言っても、まだ小学生がつけるようなものですから、頭から被って着脱するタイプの、今でいうスポーツブラみたいなやつね。背中がクロスになってるような。

 

こんな感じだったかな、色は白しかなかったような。(←どうでもいい)

 

家に帰って、母に促されるまま、つけ方の練習なんかをした覚えがあります。

つけ方、って言っても単に被るだけでしたけれども。丈の短いタンクトップみたいなものですから。

 

でもたとえつけ方が簡単だったとしても、ブラジャーをつけるということ自体がイヤだったな。

自分の意思とは関係なく、自分の身体が大人になっていくのだということ、

教室の中にいる同級生とは、なにもかも「平等」だと思っていたのに、自分にだけ、なにか違う、別の「記号」を付与されてしまったような違和感、なによりも、他人から「バストが大きい」と思われることがイヤでした。

 

それはやはり、その時代の「空気」の影響だったのでしょう。

今の若い人には想像もつかないことかもしれませんが、1980年代始めの頃の日本人の「民度」なんて、そう高いものではなかったのですよ。

テレビの素人参加番組に、バストの大きい女性が登場したりしたら、それが日曜日の真昼間であったとしても、

「はあ・・・なるほど、脳みそに行くべき栄養素が全部、胸に行っちゃったんだね!」

なんて、平気で言う司会者がうじゃうじゃいたものなのです。

 

そのセリフは、バストの大きい女性に対して、あまりにも頻繫に与えられる、平凡で使い古された表現だったので、まだ小さい私は、「胸が大きくなると頭が悪くなる」と半ば信じていた気がします。

私と同世代の女性なら、こういう雰囲気、なつかしく思い出してもらえるんじゃないかなあ。

下手にバストが大きいと、恥ずかしい気がしたり、隠そうとするあまり、姿勢が悪くなったり。イヤなものでしたよね。

 

おまけにやっぱり「教室でからかわれるかもしれない」という想像が私の胸を暗くしました。

学校で、おサルさん系男子にしつこく笑いものにされることほど、憂鬱なことはありませんもの。私だってまだまだ子どもで、いろんなことが「繊細」でしたから(そんな時代もあったのですっ)。

 

でも、結果として、そんな心配は杞憂に終わりました。

次の日から、先生に名指しされた女子児童はみんなブラジャーをつけて登校しましたが、誰からもからかわれることも、笑われることもありませんでした。

半年経つ頃には、女子児童の間で、

「どうしよう、ブラジャーつけてくるの、忘れた!体育あるのに!」

「えー、最悪。腕組みして走れば?」

なんて会話が平気で交わされるほど、私たちにとって、ブラジャーとはなくてはならない存在になりました。(←だったらつけ忘れるなよ、って話なんですが、そこはやっぱりまだまだ子どもだったんですねえ。ちなみにつけ忘れて登校したのは私~。ほほ。)

 

ブラジャーをつけ始めたことが、クラスメイトからの揶揄やからかいの対象にならなかったことに心底ほっとしながら、一方で私はずっと先生の、「ブラジャーをつけてきなさい」という指導が、どうしてあんな形でなければならなかったのか、考え続けていました。

 

確かに先生の目から見て、私たちがブラジャーをつけるべき時期に差し掛かっていたことは明らかなことだったのでしょう。

こういうことは時として、母親よりも他人の目の方が的確だったりしますから。

(母親って自分の子を見る時はどうしても「幼く見える」補正がかかってしまって、自分の娘の体型が激変していることに気がつかなかったりします。)

でも、だとすれば、保護者会や連絡ノートなどを使って、保護者に直接ブラジャーの着用を勧めることもできたでしょうし、該当する子どもたちだけを別室に呼んで指導することもできたはずです。

それをなぜわざわざ、クラス全員の前で、あんなにもはっきりと「つけてきなさい」と言わなければならなかったのか。それはあまりにもデリカシーを欠いたふるまいに感じましたし、実際名前を挙げられた私たちは、確実に「恥ずかしい思い」をしたのです。それは、何度考えても、やはり心外なことでした。

私たちは普段、担任の先生をとてもいい先生と慕っていただけに、先生のあの「指導」に、一体どんな目的や意図があったのだろうと、不思議でしようがなかったのです。

 

考え続けて、私は一定の答えを自分の中に見出しました。

先生に確認したわけではありませんが、あながち、間違えてもいないと思っています。

 

先生が、みんなの前で、5人の女子児童に「ブラジャーをつけてきなさい」と言ったのは、名前を挙げられた女子児童の性格、クラス内の立ち位置、それから「5人」というある程度まとまった人数、そういったものをすべて考え抜いた上での行動だったのだろうと。

その日、先生に名前を挙げられた女子児童は、クラスの中でも最も目立つ、中心的なメンバーでした。

 

明るく社交的でみんなに好かれる者、

責任感が強く、児童会やクラスの仕事でいつも活躍している者、

抜きんでて成績がよく、しっかりしている者、

やさしく親切な性格で誰からも頼りにされる者、

 

また、全員、身体的な成長が早く、体格もよかった。

ついでに言うと、口も達者だった。

おまけに気も強かった。

男子になにか言われて、めそめそしてしまう子がいなかった。

そして「5人」という人数。

いくらやんちゃな男子児童でも、クラスの中のそんなしっかりものの女子ばかりまとめて5人、同時に敵に回すなんてことができるでしょうか?

 

担任の先生はきっと、そこをよく見ていらっしゃったのだと思います。

仮にそれでも女子のデリケートな問題に、ふざけてちょっかいを出す児童がいたとしても、クラスの全員が彼女たちの味方について、瞬時に粉砕していたことでしょう。

 

ブラジャーをつける、というデリケートな問題は、その後も子どもたちの成長に伴って、いつまでもついて回る問題で、だからこそ先生は、クラス内の最も「強い個体」に、最初の壁を突破させようとしたのだろうと思います。

次にブラジャーをつけ始める女子児童はずいぶんと気持ちが楽だったはずですから。

 

子どもの世界であっても、「数の威力」というものは存在します。

名前を出された子たちは、ひとりではなく、共通の立場の者がいることで、一種の安心感を持つことができた。誰かひとりが攻撃されることにはならなかった。また、いざとなれば、「先生に言われたからブラジャーをつけているのだ、あなたたちも聞いていたはず。」と主張することができた。

 

そして子どもの世界であっても、やはり「力関係」というものがあるんだろうと思います。

誰が人気者で、誰がクラスのまとめ役なのか。

それらのすべてを把握した上で、女子児童の身体の変化というものに、真正面から切り込んで、なおかつクラス内の平穏を保つことに成功したのですから、先生の作戦勝ち、ということなのでしょう。

 

「先生って、本当によく見ている。」

 そう感じた私は、学校の先生ってほんとにすごい、と思うようになりました。

 

大人になってから、先生にお目にかかったことはありません。

もしもう一度、先生とおめもじ叶うことがあったとしたら、

「先生、私はただ口が達者だっただけなのに!」

って言ってみたいと思います。

 

きっと、もうお忘れだろうなあ。

 

けれども私の方は先生の、あの強烈な指導のせいで、最初のブラジャーのことを、一生忘れられないと思うのです。

 

おまけ。

最近のお子さんは、自らのバストが大きくなることについて、どんな感想を持つのでしょう。

私たちのころよりは、もっとずっと肯定的に受け止められているような気がして、それはとても素晴らしいことだと思います。

成長し、大人になるということは、本来、喜ばしく、おめでたいことです。

できたら、すべての女の子たちが、大人になること、大人の身体を手に入れることを、素直に寿げる世の中になってほしい、女性性の獲得を恥ずかしいことと思わずにすむような社会であってほしいと願わずにはいられません。

 

ま、それにしても。

堂々とブラジャーのことを話題にできるようになるなんて、我ながらびっくり。

年をとるって、なかなか得難い経験ではありますね。