祝・ノーベル賞。北野高校の思い出。


みなさま、こんにちは。

最大級レベルの台風が列島を直撃中。

こちらでも強い雨が降っております。みなさまの街はご無事でしょうか。

どうぞくれぐれも安全に、無事にお過ごしくださいますように。

 

ところで先日の吉野彰さんノーベル賞受賞の知らせは久しぶりにおめでたいニュースでしたね。

特に今回は個人的にテンションがダダ上がりしました。

なにしろ、吉野彰さんは私が卒業した高校の先輩だったもので。

ま、おんなじ学校って言うだけで、なんの接点もありませんけどね・・・。

 

それでもなんとなく「おおぅ・・・!」という気分になるのですから、人間とはおかしな生き物です。

また、ここ数日、新聞やテレビに母校の名前が登場することが増えて、少々ノスタルジックな気分でおります。

 

ということで今日は大阪人なら誰もが知っている私の母校、大阪府立北野高校についての思い出。

 

1.意外なことに体育学校。

私も入学するまで知らなかったのですが、北野高校の体育の授業はほんと~に!厳しいものでした。

卒業生ならみんな口をそろえて体育の授業のしんどさをアピールするだろうと思います。

しめ縄のような太い縄を使っての二重跳び。

高校には珍しい50Ⅿ(最深部分は180センチ!)プールを使っての水泳の授業。

冬には断郊競争(という名のマラソン)。

どれも回数やタイムが目標に達しなければ放課後の「追試」が必須。

体育に「追試」ですよ?考えられます?しかも放課後に毎日!できるまで!

ラジオ体操第二の追試もありましたからね・・・(←開発者が北野の関係者だったから。どんなに練習しても難癖つけて落とされて、追試に回されます。私ももちろん受けました。)

運動音痴でスポーツ嫌いの私にはまさに悪夢。

特に水泳の授業は水泳部の連中も「キツイ」と言うほどの地獄でした。

女子は1時間の間に25Ⅿを20本!(平泳ぎ10本クロール10本)・・・いくら若いと言ってもヘロヘロになりました。男子は800Ⅿくらい泳がされてたんじゃないかな…。

1年生の時には毎日の追試が10月1日まで続きました。あの日の寒かったこと、プールの水がすでに汚く濁っていたこと、隣で変な虫が泳いでいたことは死ぬまで忘れません。とにかくもう私は一生分泳ぎました。金輪際、二度と泳ぎません。絶対。

 

おそらく現役の生徒さんたちは今ごろ体育大会の練習に明け暮れている頃だろうと思いますが、北野の体育大会は「体育祭」と呼んではいけないことになっていました。

 

「うちの体育大会は祭事ではない。競争だ!」

 

と強調していた体育科の先生の怒号に「ひぃ・・・」となったのを今でもよく覚えています。

体育科の先生はみんなコワかった・・・北野の学生は「勉強ばかり」と思われてなるものか!という気概に満ち満ちた先生方がそろっておいででしたが、私個人の意見としては「ありがたいけど迷惑な・・・」の感想が強いです。ごめんなさい。

 

7歳ほど年下の後輩は中学時代、「志望高校を決める際、体育が苦手な子は北野を受験させてもらえなかった」と言っていましたが、私の中学時代にもそんな親切な先生がいれば・・・と恩師に向かってちょっと恨みがましい気持ちにもなりました。

ただ単に「家から近かいから。」という安直な理由で志望校を決めてはならない、という重い教訓にはなりました。

 

2.徹底した自主・自律の精神を尊ぶ。

北野高校にはそもそも校則がほとんどありません。

徒手帳にも「高校生らしいふるまい、身だしなみであること」くらいの記述しかなかったように記憶しています。

 

また、たとえば「先生が所用や風邪でお休み」をすると、その授業は大学と同じように「休講」となります。

その休講を私たちは「ブランク」と呼んでいました。

その時間、生徒は何をするのも自由です。

食堂に行って友人たちとおしゃべりしてもよし、図書館で本を読むもよし、次の授業の準備をするもよし。

先生方からなんらかの指示を与えられるなんてことは皆無でした。

 

特徴的だったのは「授業の始め方」。

よく、日直さんが「きり~つ、礼、着席!」って声をかけるじゃないですか。

北野にはそれがありません。

最初の授業で日直が「起立!」と言ったとたんに、先生にたしなめられました。

 

「我々教師は君たちに教えるプロとしてここにいる。君たちも「教わるプロ」としての態度を身につけねばならない。号令に合わせて立ったり座ったり、そんなことはサルでもできる。そんなみっともない真似は二度とするな。教師が入ってきたら、黙って立て。そして互いに礼をしよう。誰に言われるまでもなく、自ら。それでこそプロだ。」

 

なので、北野高校では、先生が教室に入って来られるとみんな無言で立ち上がってお互いに礼をして着席します。

 

「言われたから~する」「指示されなかったから何もしない」というような行動や考え方はひどく侮蔑される校風だったように思います。

先生方も生徒について干渉することはほとんどなく、自分たちで考え、自らを律することを強く求められる学校でした。

情報も知識も、「与えられる」ことを期待して、ただ漫然と待ってると、確実に置いてきぼりにされる、ちょっと厳しいところがありました。

自由であること、干渉されないこと。

それを望むのであれば、まず自らをきちんと律することを求められるのだと高校時代に実感しました。

そのような校風のせいで私たちは入学後、急速に大人になったような気がします。

 

3.みんな読書家。

北野高校の図書館は本館廊下のつきあたりから渡り廊下を通って連結されている別館にありました。

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この廊下のつきあたりです。郷愁がヤバい・・・ほほ。


公立高校で「図書室」ではなく「図書館」が設けられている学校は非常に珍しいのですが、それでも収まりきらないほどの蔵書数に、完全な「閉架式」スタイルが採用されていました。本を探す時には図書の目録カードから探すスタイルね。

こんなの↓

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なつかしいなあ。

「カードが新しいから、きっと本も新しいはず!」

と勇んで貸し出しをお願いしたら戦前の本が出てきたこともありました。

旧仮名遣いの本もいっぱい。

自分で本を手に取って選ぶことができない図書館でしたけれど、生徒の利用率はすごく高かったと思います。

一度、同級生たちと休み時間に「漱石派か鴎外派か」で大論争になったことがあるのですが(最後には「なによ、やぶ医者のくせに!」「なによ、この神経病み!」という非常に低レベルな罵り合いになりました。ま、そこは女子高生ですから・・・ね。)、いつのまにやら「文豪の中では、誰が好き?」の話題にシフトして、やれ太宰だ芥川だ、川端だとものすごく盛り上がりました。

「谷崎が好き」って言った子に「ええええええっ!!!」って悲鳴が上がったりね。

友人は机の上に漱石の写真を飾ってると言ってましたっけ。

「千円札の写真じゃないのよっ!あの片肘ついてるやつねっ!」と強調する友人に、漱石派の面々はみんな一斉に頷いてましたっけ。

読んだ本について、これから読みたい本について、いつも誰かと意見が交わせたあの環境は、私にとって今でも得難い宝物です。

・・・今になって思うと、漱石、鴎外、太宰に芥川・・・でも菊池寛は出なかった・・・結局みんな「顔」とかビジュアルで選んでたのでは?という疑惑が・・・

所詮、女子高生なんて、いつの時代もそんなもんですよねー。ほほ。

 

4.先生方が各々勝手に自殺防止プログラムを始める。

これは私が勝手に感じたことなので、覚えていない同窓生が多いかもしれませんが、入学当時、何度か「自殺を戒められた」ように記憶しています。なにしろ自殺者が多い学校だったので。

思うに、それまでさほどの苦労をしなくてもそれなりにお勉強ができた生徒たちにとって、北野高校に入学して試験を受けるということは、人生初の試練と屈辱とにいっぺんに襲われるようなものなのです。

自分が意外と「勉強ができない」あるいは「凡庸な」人間だったと思い知らされた瞬間のあの衝撃。

学業に行き詰っての自殺は、北野高校ではちょくちょく発生しがちな問題で、先生方にとっても心傷める、恐ろしい出来事だったに違いありません。

なので、入学後しばらくは、先生方も時々、私たちに「死ぬな」というメッセージをさりげなく送ってこられたのではないかな。

 

たとえば、大阪大空襲の際に亡くなった生徒の鉄兜を持参して、その生徒さんについての授業をなさった先生。命の大切さ、かけがえのなさについてお話しされました。

頭頂部に直撃弾が命中した場合、人間の脳はその衝撃に耐えられないんだなあと思ったのを覚えています。

 

それから、最初の定期テストで「わざと」難易度を下げた先生がいました。

クラスの平均点は95点。結果を踏まえて先生がおっしゃいました。

「今回のテストは、他の高校のレベルに合わせた。平均点が90点超え。これでは君たちの通知表をつけることはできない。みんな「5」になってしまう。だから次回からのテストははっきりと難しくなる。30点や40点を取るものも出てくるだろう。でも落胆するな。違う高校に行けば、君たちは今もこれからも90点が必ず取れる。保証する。」

すでに他のテストで実際に、生まれて初めての30点やら40点やらをとっていた私たちは絶望の眼差しで先生を見上げました。

不動の優等生の立ち位置から、一気に劣等生の仲間入り・・・ひどく落ち込みましたし、それが私という人間の本来の能力なんだと思い知らされましたけど、今となっては、それもいい経験だったという気もします。

ただ安直に「家が近いから」という理由で志望校を決めてはいけないという教訓はほんとに重いものでした。(←しつこい)

 

個性的だったのは現代社会を担当されていたA先生。

 

「「自殺」は北野の伝統である。

諸君。なぜ生きている?死ね!

って言われた時にはのけぞるほど驚きました。

前述の7歳下の後輩も言われたそうですから、毎年言ってたんでしょうね。

未だにその時の驚きは新しいままです。

おそらく、労せずして特別な存在だと勘違いしがちな若い私たちに、北野では自殺でさえも「凡庸な」出来事なのだから、たとえ自殺したとしても、特別な存在にはなりえないのだと言いたかったのではないかと思いますが・・・先生の真意は今も掴みきれていない気がします。

 

5.差別?知らん。男尊女卑上等。

もともと北野高校は旧制中学時代、男子校だったので、何から何まで男子中心でまわっているところがありました。

そもそも校歌が男子校仕様。

「紅顔の子弟千有余」

「あゝ母校北野高校その健児励まざらめや」

あの「荒城の月」で有名な土井晩翠による作詞なんですけれど、生徒数の増加や設立からの経過年数によって、歌詞は一部変更されて歌われているにもかかわらず、「紅顔」「健児」はぜーったいに変えない。変えるつもりも微塵もない、って態度は在学中からひしひしと感じました。

女子トイレは少ないし。

授業中、「だから女はダメなんだ!」「女はおしゃれに気を取られるようになるとダメ。」も先生方の常套句でした。

「うちの女子生徒は長じて良妻賢母になる。」っていうのも多かったな・・・。

声を荒げてわざわざ「不愉快です」なんて言う子はいませんでしたが、私も含め、ほとんどの女子生徒は「けっ。」って思ってたんじゃないかなあ。

でも確かに友人たちはみんなまさしく「良妻賢母」になっています・・・ただ数学の世界と違って、人間の社会には「例外」がつきものでして・・・我が家の夫は身をもってその「例外」を実証中でございます。

 

昨日、北野高校の近くを通りかかりましたら、吉野さんのノーベル賞受賞を祝って、横断幕が掲げられていました。

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なんかね・・・ちょっとしょぼかった・・・(←ここだけの話。)

卒業生有志で慌てて作ったんだろうなー。

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今や校舎は建て替えられてモダンなコンクリート造りの建物になっていますが、かつてのレンガ造りの校舎の一部がモニュメントとして残されていました。

このレンガの色こそが、私の高校時代の色そのものです。

 

長々書きましたけれど、体育の授業の厳しさについては全然書き足りない・・・。

これから進路を決める中学生には特に気をつけてほしいのです!

あなたは体育が好きですかー?

水泳が好きですかー?走ることが好きですかー?二重跳びはできますかー?

よほどの覚悟がないと北野の体育は乗り切れませんよー!

・・・水に顔をつけられないレベルのかなづちでも、北野に入れば必ず泳げるようにはなりますけどね・・・

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旧校舎玄関。奥に見えている階段を上ると講堂の入り口でした。

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今は取り壊された旧校舎。上空から見るとP字型で、よく迷いました。

(旧校舎の写真はネットからお借りしました。)