根三つ葉の芳香
みなさま、こんばんは。
先日、またまたmarcoさんから野菜をいただきました♡
大阪ではなかなかお目にかかれない野菜。「根三つ葉」っていうんですって。
「なかなか」どころか、私はこの年になって初めて拝見しました。これまでスーパーでも八百屋さんでも見たことがありません。
marcoさんのブログで物欲しそうなコメントをしたから送ってくださったんだろうな・・・
「いいなー、食べてみたい!」って言ってみるもんですね!えへ。(←図々しい)
根三つ葉だけでなくって、marcoさんは出汁をひくようのしいたけや昆布、それに生姜を干した「ウルトラ生姜」も送ってくださいました。
このウルトラ生姜、すっごく身体によさそうで、作ってみたいと思いつつ、そこはほら、私、根っからの無精者ですので(←周知の事実)、なかなか実行に移せなくて・・・そもそもお料理って苦手なんですよねー。
marcoさんにはきっとそのあたりもバレバレだったんだろうな・・・
「ウルトラ生姜だー!」
とその存在に気づいたときには、「marcoさん、なんて親切~!」と飛び上がって喜びました。(←いや、そこは反省して自作しようよ・・・というツッコミはいらないです)
で、marcoさんに根三つ葉のオススメ調理法をうかがったら、その中に鍋があったので、ウルトラ生姜もプラスして、その日の夕食は鶏肉とウルトラ生姜、そして根三つ葉のお鍋にしました。寄せ鍋風です。
湯気でくもってるし・・・。相変わらず写真が下手すぎ。
でも、早く食べたくって、写真どころではなかったんだもんねー。
ごく普通の、スーパーで売られている三つ葉と違って、根三つ葉はただ大きいだけではありませんでした。
包丁を入れたときに広がる独特の芳香の強さと言ったら!
春の、一斉に新芽が芽吹く季節、あの青々とした草いきれの中に立っている気がしました。
一足早く春を届けてくれたmarcoさんに心から感謝しています。
でね。
家族でお鍋に入れた根三つ葉のおいしさに驚きながら、私はなんとなくしみじみとしてしまいました。
「はてな」って、インターネットって、すごいなあ、不思議だなあ、って。
たとえば、ほら。
小学校の図書室でこんな本を見つけたとするでしょう?
そうしたら、すぐにカメキチさんのことを連想してしまう。
街なかで「福」の文字を見つけると、きっと福ふくさんのことを思い出すし、(だからお正月なんかはしょっちゅう福ふくさんのことを考えてることになってしまう…)
新しいラーメン屋さんを見つけると、ああ、このお店、横チンさんのお気に召すかしら、と考えるし、
立ち枯れた紫陽花の花に出会うと、必ずryoさんに写真を撮ってほしくなるし、
デパートで売られている、とびきりおしゃれなお弁当を見ると、「muraさんのお弁当の方が上だな…」って思って買う気がなくなっちゃうし、
青々と茂るブナの木を見ると、ブナさんはお元気かなって絶対に思い出すし、
手芸店でキラキラしたビーズを見ると、まゆじゅんさんならどんな作品になさるのだろうと考えずにはいられないし、
オリエンタルな踊りを見ればleyさんやねこさんを、予備校のCMを見ればⅯさまを思い出します。
「ぶたばあちゃん」の絵本を読むと、いつもうっかり泣いてしまって、同時にやはり、りんさんのことを連想します。
それから「お昼寝のススメ」みたいなニュースをF2でやっているのを見れば、セネシオさまが今ごろ面白がってるんだろうなと想像します。
精霊流しの映像をテレビで見たときには、いちご一笑さまは毎年、この光景をご覧になってるのだろうと考えて、一層感動を深くしました。
それから、日常会話に四文字熟語が出るとかえるさんを、カレンダーを見るとsoftwindさまを、しいたけをみじん切りにしている時(←ひどい)には、わっとさまを思い出します。
真っ白な帆船の写真を見ると、そのマストの上にisakuさんを探してしまいます。
そして手を振らなくては、と思ってしまう。
そうして、古書を見るたび、あるいはちょっとこなれた感じの古い居酒屋さんを見かけるたびにmarcoさんを思い出してしまうのです。
他にもブログを通じてメッセージをやりとりする、たくさんの方々。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら、なんですけれど。
私がこうして、日常のふとした瞬間に、みなさまのことをあれこれと思い出しては、お元気かしら、今ごろ何をなさっているのかな、と考えるみたいに、みなさまの方でも、時には私のことを思い出してくださっているのかしら。
東京の、私なんかは行ったこともないような、おしゃれなスーパーの店頭で、marcoさんが根三つ葉の束を手に取りながら、私のことをふと思い出してくださった、その瞬間。
その瞬間のことを思うと、うれしくて、本当にあまりにもうれしくて、「はてな」をやっててよかったー!って心から思うのです。
パソコンにしてもスマホにしても、血の通わない、無機質な物体ですのに、私たちはそれを通してこんなにも通じ合うことができる。交流することができる。
人間とはなんて素敵な生き物なんでしょう。ね?
つらいニュースや酷い出来事がたくさんあるのは知っています。
それでも、私たちはこれでなかなか捨てたものではない生き物だなって思うのです。
忙しい時に限ってよけいなことをしたくなる衝動に名前をつけたい。
みなさま、こんばんは。
このところ、ちょっとバタバタしておりまして、「はてな」をサボり気味の毎日です。
やらなくてはいけないことがてんこ盛りで、朝から晩まで頭の中がパニック!
つくづく自分のキャパシティーの少なさ、乏しさにうんざりしています。
ところで、こんな風に忙しい時に限って、余計なことや要らんことをしたくなることってないですか?
たとえば、ほら・・・
旅行の前日だというのにアルバムの整理をしてみたり、
各種申告用紙を脇に置いてレシピ帳の作り直しなんかをやってみたり。
え?ない?
ありませんか?そういうこと。
私にはあるんですっ!
で、最近、私のやってる「余計なこと」。
洋裁です。
1.まずは大きめバッグ。
一泊旅行の荷物くらいなら入りそう。
荷物がたくさん入って、ポケットもたくさん、なバッグが欲しくて作ったのですが、
ポケットティッシュもそのままセットできて便利!・・・のはずが、ポケットが多すぎてどこに何を入れたのかわからなくなり、常にあちこち探す羽目になってしまいました。
必要なものがすぐに取り出せなくて、いつも「きぃっ!」となってます。
理想のバッグって、ほんとに存在するのかな・・・?
2.あとはポーチとか。
余り布でお揃いのポーチ。
右側のはmarcoさんのところへお嫁入り、左側のはお仕事でお世話になっている方に(無理矢理)もらっていただきました。
3.さらに余った布でペンケース
15センチ定規とペン類が収まります。
余り布で簡単に、しかも短時間でできるのですっかりハマってしまい、
大量生産中です・・・。
もうすぐ転勤のシーズンですから、お世話になった人たちにお贈りしようと思っています。(←押しつけるとも言う)
4.新生活が始まる娘に。
春から新しい生活が始まる娘に化粧ポーチやペンケースなどを作ってみました。
思えば娘が幼稚園児のころから、春になるたび、手提げバッグやスモック・上靴入れなんかを作ってきましたっけ・・・。
その娘がそろそろお化粧をするようなお年頃になったことに、ある種の感慨を覚えずにはいられません。
・・・なーんて言ってるから、ちっとも作業がはかどらないっ!
年度末に向けて、明日からまた怒涛の忙しさなのに、私は一体何をやっているのやら・・・。
忙しい時に限って、いらんことに手をつけたり、余計なことをしたくなるのにも、「マーフィーの法則」みたいな名前があるんじゃないかと思うんですよ~。
ご存知の方がいらしたら教えてくださいね!
大阪みやげが思い当たらない
みなさま、こんばんは。
先日、marcoさんから、あるお届け物がありました。
すっごく趣味が良くて、楽しくって、しかもおいしいもの!
(←は?なんでそんないいものをもらえたのかって?
いつものようにしょうもない手作り品をもとに、海老で鯛を釣ったんですよ~。現代の錬金術師と読んでください。ほほほ。)
で、で、で、marcoさんからもらったのが、こんなの。
・・・いつものように写真が下手。
なんだろう?って思うでしょ?
これ、なんとチョコレートなんです。びっくり。
細長いのは包装だけで、中にはずらりと並んだボンボンとかが入ってるのかなー、と開封してみたら・・・
ほんとにチョコレートバーだった!
なんだか一気にテンションが上がってしまって、
おもしろいなあ、こんなに大きいチョコレートバー見たことない!とすっかり楽しくなってしまいました。
同封されていたお店のカードを見てみたら、
東京・白金台にあるお店のチョコレートでした。
白金台・・・聞いたことある!
白金台に住む素敵主婦を「シロガネーゼ」って呼ぶとか、大昔、テレビでやってた!
なるほど、なるほど、おしゃれな街・白金からやってきたチョコレートなんだ、さすがだなあ、とさらに感動。
しかもすっごくおいしいし!
開封しているところを娘に見られてしまったので(←痛恨事!)、こんなに大きなチョコレートバーがあっという間にどんどん短くなってしまい、なので、上の写真もお店のホームページからお借りする羽目になりました。
家族でこのチョコレートバーを大騒ぎでいただきながら、話題の中心になったのは、
「やっぱり東京ってすごいなあ。」
ということ。
「誰かに贈り物をしたいな」と思った時、東京に住んでいれば、いくらでも選択肢があるように思うのです。(あと北海道も多い気がする!)
おしゃれなお店、素敵なお店がいっぱいですもの、まさに選り取り見取りですよね。
でも。
仮にこれが大阪だったら。
一体何を送ればいいのか、ちょっと思いつきません。
大阪にしかない、大阪ならではの、それでいて趣味のいい、贈られた人がうれしくなるようなもの・・・
うーん、なんだろう。
家族で首をひねって考えてみましたが、いいアイデアがさっぱり浮かびません。
だって、大阪みやげと言えば、
やたらと「たこ焼き」に頼った何かとか、
↑
たこ焼き煎餅(←大阪人だけど食べたことない)とか、
↑
こういうの。
食べもの以外にまでたこ焼きを採用する意図がわかりかねます。
あるいはしょうもない「大阪弁グッズ」とか・・・
↑
こういうやつね。
探せば「あほやねん」とか「どないやねん」とかのメガネもあると思う。(←どうでもいい)
こんなのばーっかり!
いらんねん!!
で、みなさまにおうかがいしたいのですが、もしも大阪から何かを送ってもらう、あるいは大阪から何かをお土産に買って帰るというようなシチュエーションがあった場合、一体何をお選びになりますか?
今後の参考にしたいと思うので、ぜひぜひご意見をお寄せください!(←切実)
ちょっと遅くなりましたが、marcoさん、おいしいチョコレートを本当にありがとうございました。
みなさま、もうご存知とは思いますが、本と猫、それからおいしいものに満ちたmarcoさんのブログはこちら。
marcoさんのブログでは最近、鎌倉の話題が多くて、読んでいるとちょっとした旅行気分が味わえます。
趣味よく暮らすためのヒントと、気品あふれるmarcoさんのブログ。
読んでいると私もいつかはmarcoさんのようになれるかもーという、大胆かつ無謀な憧れが胸に満ちてきます。
半日経てば「無理だった・・・」ってわかるんですけどね・・・とほほ。
おまけという名の言い訳。
最近、ちょっとバタバタしておりまして、なかなかPCの前に座る時間も確保できずにおります。
一日が50時間くらいあるといいのにな・・・
しばらく不義理が続きますこと、どうぞご容赦ください。
これ以上学校の先生をこき使うのはやめてほしい。
みなさま、こんばんは。
先日、私が所属しているボランティアグループでこんな話が持ち上がりました。
「どうも今年から、図書室内にある本の棚卸しをしなくてはならないらしい。」
って。
棚卸し。
蔵書点検。
ぞっとしました。
だって、私がお手伝いをしている小学校図書室の蔵書は約7千冊。
それを一冊ずつ「あるかどうか」点検していくなんて、その作業を想像するだけで気が遠くなります。
で、一瞬胸中によぎったイヤーな予感は見事的中、ボランティアもそのお手伝いをすることになりました。
おそらく、今年の春は何度か図書室に通って本を出したり入れたり、単調な作業をすることになるのでしょう。
一日で済むかな・・・済むはずないよね・・・。
憂鬱・・・
いや、やるよ?
やります。
やりますって!
ボランティアが手伝わなければ、先生方がやらなくてはならないのだし。
でもねえ。
なんていうか、ちょっと納得いかない部分もあるのです。
小学校、あるいは中学校の図書室の蔵書点検。
それって、意味あるんでしょうか。
いや、図書室の本を大切にすることは教育上大事なことですし、授業に使う本があるかどうかをチェックすることは必要なことかもしれません。
でも、図書室内の本をすべて、1冊残らずきちんと棚卸ししようと思ったら、かなりの時間を要します。
それを学校の先生方にさせようというのは、かなり無理があると思いませんか?
ただでさえ、学校の先生はものすごい量の仕事を抱えて、にっちもさっちもいかなくなっているというのに。
私がボランティアをしている学校では、ボランティア側がその「手間」を引き受けることにしましたので、先生方の時間を割くことは実質ほとんどないでしょう。
でも、どこの学校のボランティアもお手伝いするとは限りません。
むしろ、「読み聞かせ」以外のお手伝いはしないというグループもたくさんあって、そういう学校では教職員が棚卸しをしなくてはならなくなると思います。
私の娘はもう高校生ですが、仮に娘がまだ小学生だったとしたら。
きっと心中複雑になっただろうと思います。
蔵書点検なんかに先生方の時間を費やすくらいなら、やってほしいことは他にもっとたくさんあるのにって。
たとえばよりわかりやすい授業のための研究とか、指導法の研修とか・・・要するに「教育」のために時間を使ってほしいと思うのです。
「蔵書があるかどうか」の点検なんて、先生でなくてもできるけれど、学校での「教育」は先生方にお任せするしかないわけですから。
さらに納得できない点は、学校の図書室がそこまで厳密な棚卸しを必要とするのかどうか、今ひとつ腑に落ちない、ということです。
仮にこれが一般企業ならばわかります。
売り上げに直結する物品の棚卸しは必須ですし、台帳管理・在庫管理の面からも欠かせない工程であることは明白です。
しかしながら、学校図書館については、仮に所在不明の本が多数あったとしても、それで翌年からの図書購入費が変動するとは思えません。
なぜなら、図書の購入費は児童数によって決定されるもので、蔵書数や所在不明の本の過多によって決まるものではないからです。
特に小学校の図書室を見ていると、どうしても本ってなくなったり、破損したりするものなんですよね。
だって使っているのは「子ども」なんですもの。
落とす、破る、なくす、どこかに置き忘れる、そんなのは日常茶飯事。
もちろん、本を大切にすることは非常に大切ですが、そういうハプニングを恐れていては、子どもたちに本と親しんでもらうことはできません。
1冊千円から2千円程度の本ばかりの学校図書館。
それくらいの本なら「消耗品」として捉え、あまり厳密な管理は求めない方がずっとすっきりすると思うのですが・・・。
それでもやはり恒常的に、蔵書点検なり棚卸しをしなければならないというのなら、人件費をケチらずに、人員を増やすべきです。
現行のお仕事だけでもアップアップの学校現場に、ものすごい労力と時間のかかる仕事をさらに押し付けるのは残酷過ぎると言わざるを得ません。
ただでさえ、最近の学校現場はブラック企業並み、と言われているのに、これではますます優秀な人材は先生という職業を選ばなくなることでしょう。
昔、「解剖」をする法医学のドクターに解剖後の手術室の清掃をさせようという案が持ち上がった時、法医学の先生方が大激怒して、結局その話が立ち消えになったという報道を見たことがあります。
今回の蔵書点検の話を聞いたとき、私はその報道のことをちらっと思い出しました。
学校の先生も、法医学のドクターを見習って、大激怒して抵抗すればいいのに。
なんでもかんでも唯々諾々とおとなしく従えばいいというものではないと思うんですよね。
ただでさえ、学校現場は増え続ける仕事に疲弊しています。
先生たちを本来のお仕事、「教育」から遠ざけるばかりの最近の行政の在り様には疑問を感じずにはいられません。
どうかしてます、絶対。
ボランティアのお仕事もどんどん増える・・・最初は読み聞かせと本の修理だけって話だったのに・・・とほほ。
日本人、働き過ぎ・・・というより、意味のない仕事を増やしすぎ!
読み聞かせのボランティアは、他の学校のグループとも連携していて、合同の会議もあります。その会議には区の担当者も出席します。おそらく教育委員会の委員とも面識のある人たちなので、次回の会議では絶対文句言ってやる!と固く決意しています。
マミーさんだって、言う時はちゃんと言うんだ!!
怒るとコワいんだぞー!(←夫が横で深く頷いています。)
中学校図書室が意外と使える件について。
みなさま、こんばんは。
以前、中学校の図書室で借りた本についてお話ししました。
で、今も相変わらず、図書ボランティアの身分を利用して、中学校の図書室に出入りしています。
我が物顔で。
図々しく。
そのうち注意されるんじゃないだろうかと内心びくびくしてますが、でもめーっちゃ怒られるまでは使い倒してやろうと思っています。
だって区の図書館よりも近いし。
しかも話題書や人気作家の本も網羅してるし。
その上、「こういう本が読みたいなー」と言えば、次の予算で買ってくれたりするし!
ええ、もうやりたい放題でございます。
昨年の暮れには、marcoさんのブログでたびたび取り上げられている「ビブリア古書堂の事件手帖」が気になって・・・
なんとなく食指が動かなくてこれまで未読でしたが、marcoさんがおもしろいとおっしゃるのだから間違いないだろうと、全7巻、一気に借りてきました。
おもしろかったです。
古書についての広範な知識、物語の中心を占める謎解き、個性的な登場人物・・・
ライトノベルの枠に留まらない楽しみがたくさん詰まったシリーズだと思います。
表紙のデザインが好みではなくて、これまで手に取ることをしませんでしたが、もっと早く読んでおけばよかったなー。
いえ、別に「萌え絵」がキライとかいうのではありません。
でもこのシリーズに関しては、こんな装幀じゃない方がよかったな・・・あくまで個人的な感想ですが。
古書が詰まれた空間の、清逸な感じがしないんだもん。全然しない。
おそらく、このままの表紙デザインでは私はこのシリーズを決して購入しないだろうと思うので、中学校の図書室で借りられてラッキーでした。
で、年が明けて、「新しい本が入ったよー」と連絡をもらったので、性懲りもなくまたまた行ってきました。
今回借りてきたラインナップはこんな感じ。
結果からいうと、大当たりの大ヒット。
どれもめちゃくちゃおもしろくって、家事をするのも着替えるのももどかしいほど没頭しました。
(週末だけで全部読了・・・どれだけ家事の手を抜いたか、よ~くわかります。えへ。)
まずは、
「ビブリア古書堂の事件手帖」外伝。
年末に一気に読み終えた「ビブリア古書堂の事件手帖」外伝。
気になる登場人物たちの「その後」を読めるのが外伝の醍醐味ですね。
でも、今回は本編を読んでから外伝を手に取るまでの期間が短すぎて、登場人物との「再会」という感じはあまりしませんでした。
もう少し時間を空けてから読めばよかったかな・・・。
せっかちな性格で損した気分です。
それから、
直木賞受賞作「鷺と雪」と同じ「ベッキーさんシリーズ」の第2弾。
私はこのシリーズが大好きで、以前にも読んだことがあるのですが、再度借りてきてしまいました。
ベッキーさんシリーズは「街の灯」「玻璃の天」「鷺と雪」の3作が出ていますが、ほんとはもっと読みたくってたまりません。
昭和初期の世情、上流階級の人々の生活や文化、そして上質な謎解き。
読んでいる間、極上のトリップができること請け合い。
未読の方はぜひ。
「赤猫異聞」(浅田次郎著:新潮社)
これは「浅田次郎」。
典型的な「浅田次郎」。
徹頭徹尾、「浅田次郎」。
たとえば「壬生義士伝」を読んで、大泣きした人なんかはめっちゃはまると思います。
一度読みだしたら止まらない・・・おもしろさについては太鼓判です。
日本人の感動のツボをきっちり押してくるんですよね。
そういう手練手管に関しては浅田次郎という作家は凄みがあります。
ほんとに巧い。
おそらく浅田次郎って、「殿(しんがり)」が好きなのでしょうね。
時代が変わるその瞬間に、誰もが自己の保身をはかり、ころりと変節してしまう中、たったひとり、自分の責務を全うし、大義を貫き通そうとする人。
金も名誉も命も捨てて、これまで信じてきた何かのために損を承知で殉じようとする人。
浅田次郎はそういう人を書かせると本当に巧い。
この「赤猫異聞」でも、幕府が倒れ、権力の無法地帯となった江戸で、多くの者が私欲や保身に走る中、ひたすら己の道理を全うしようとする侍の生き様が描かれます。
その侍と同じように、まっすぐで清澄な生き方ができる人は少ないでしょう。
だからこそ、浅田次郎が描く「殿」の侍は私たちの心を打つのかもしれません。
で。
本筋からは離れますけど・・・
常々、不思議に思ってることがあるのです。
団塊の世代のおじさまたちって、浅田次郎の書く小説、お好きですよね・・・。
それってどういう心境なのでしょう?
もっとも苛烈を極めた学生運動のさなか、あれだけ体制に反発を繰り返しておきながら、卒業が近づけばあっさりと髪を切り、なんら疑問を持たずに大企業に就職し、あとはマルクス主義なんてそっちのけ、ひたすらこの国の経済活動の中心を担ってきた団塊の世代。
その世代の人々は、浅田次郎の書く主人公が悲劇的な「殿」として散っていくのを一体どう受け止めているのでしょうか?
いや、別に批判しているわけではないですよ?
ただ単純に不思議だなあ、と思うだけです。
私だったら、ちょっと恥ずかしいだろうな、と思って。
「感動して泣いた」なんて、とても言えそうにありません。
変節しない人の強さを羨望しつつ、その要領の悪さにうんざりする・・・そこにいくばくかの己への恥を混在させながら・・・って感じでしょうか。
団塊の世代の方々が、浅田次郎の本を薦めているのを見るたびに、内心、「へー」と思うのです。
別に批判も非難もしていません。
ただ「へー。」って思うだけ。それだけです。
「夕映え天使」(浅田次郎著:新潮社)
こちらは浅田次郎の短編集。
あくまで個人的な好みの問題ですが、浅田次郎なら短編集を推したい。
市井の人々の悲喜こもごも。誰もが抱えている「かなしみ」。
わざわざ口に出して語ったりしない、でも確かにそこに存在している悲哀。
そういうものを掬い上げるのが上手な作家さんなのだろうと思います。
この本のタイトルにもなっている「夕映え天使」。
男やもめの所帯に突然現れた女性の死にまつわるお話ですが、浅田次郎には似たような作品が他にもあります。
人生の中でほんの少しすれ違っただけの女性に心揺すぶられ、暮れなずむ冬空に涙する男性の姿。
人間というものの切なさ、やりきれなさに読者の心もすっかり囚われてしまうことでしょう。
そして2作目の「切符」。
この作品にもやはり「殿(しんがり)」の存在が色濃く投影されています。
「ヒリッピンにかたっぽのあんよを置いてきちまった」おじいちゃん。
世間は東京オリンピックに浮かれているというのに、その中でただひとり、未だに戦争を続けているようなおじいちゃんの姿は、いとも簡単に変節できてしまう多くの人々とは明確に一線を画し、言葉にならないほど哀しいけれども美しい。
胸をつかれる作品です。
また、浅田次郎という作家は、「東京」を書かせると本当にすばらしい。
いや、私は東京になんの縁もゆかりもありませんが、それでも彼が紙上に描き出す東京の美しさは格別です。
たとえば「切符」冒頭部分。
物干しから眺める夕まぐれの景色が好きだった。
恵比寿の町を縁取るように、小高い丘が繞っている。西は渋谷の高台から続く代官山の森で、電車通りを隔てたあたりは防衛庁の広い敷地だった。そこは少し前まで進駐軍が接収しており、兵隊の姿はもうなかったが、町なかの中古家具屋やネオン管のまたたく酒場の窓などには、まだ彼らの残り香が感じられた。
本当にうまいなあ、と嘆息します。
恵比寿も代官山もよく知りませんが、こんなふうに書かれたら私まで、この夕まぐれの景色が好きになってしまいます。
6編の短編が収蔵された「夕映え天使」。
「本を読む喜び」をしみじみ感じさせてくれる一冊でした。
超絶オススメ。
ちなみに私が一番好きな浅田次郎の短編集は「霞町物語」(講談社)
絶対いいから、騙されたと思って読んでみて!
この本を読んだときもやっぱり「伊坂幸太郎っぽい」と思いました。
これまでの彼の著作の傾向から外れない、いかにも「伊坂幸太郎が書きそうな世界」。
なので伊坂幸太郎作品が好きな人は、その期待を裏切られないだろうと思います。
ありえない設定、でも説得力のある描写、畳みかけるような疾走感、きちんと回収される伏線。最後まで時間を忘れて物語に没頭できます。
でもなー、って思うのです。
伊坂幸太郎の書く物語にはよく、「真正の悪人」としか呼びようのない、サイコパス的人物が登場するのですが、私はそれが少し苦手です。
ほんとにそんなにひどい悪人っているのかな・・・まあ、いるんでしょうね。
新聞とかニュースを見ていると、驚くほどひどい人間って確かに存在しているのだと確信できますもの。
でも、正直なところ、そういった人に本の中でまで会いたくないなー、とか思ってしまうのです。
100パーセント善である人間が稀であるように、100パーセント悪の人間もまた稀であると、できることなら信じたい。
多くの人間は、善と悪とが混然と、まだらに混じり合っているものなのではないでしょうか。
そしてそのせめぎあいをこそ、一冊の本の中で見たいのです。
なので、こんなにも完全な、隙のない、真っ黒な「悪」を延々と提示されると少々怯んでしまいます。
でも、人気なんですよねー、伊坂幸太郎。
今、大阪市立図書館でこの本の予約状況を見たら、なんと約500人待ち!
おそらく年単位で待たないと読めないことでしょう。
本当に中学校図書室様様です。
で、これらの本を借りて帰ってくる際に、私がリクエストした本がこちら。
ユヴァル・ノア・ハラル著「サピエンス全史」「ホモ・デウス」(←作者の名前、むずかしすぎ!ちっとも覚えられない・・・)
去年、「サピエンス全史」を区の図書館で借りて読んだのですが、これがもうほんっとにおもしろくっておもしろくって!
久々にこんなにおもしろい本を読みました。
おそらく中学生は誰も読まないと思うけど・・・私がもう一回読みたい!(←自己中)
「もしかしたら中学生にはちょっと難しいかもしれないけど・・・でも買って、買って!入れて入れて~!」
って言ったら、
こういうのも一緒に買ってくれるって!
図書ボランティアやっててよかったー!!!
帰るのも迎えるのも大変です。お正月。
みなさま、遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
みなさまにおかれましては輝かしい新年をお迎えになったこととお慶び申し上げます。
我が家では弟の一家が関東から帰省してきて、甥っ子や姪っ子の成長ぶりにびっくり仰天のお正月になりました。
中学生の甥っ子は、私や娘よりも背が高くなり、おしゃまな小学生の姪っ子は、イヤリングをつけて現れました。
娘の女子力は小学生にすら完敗・・・先が思いやられます。
母と同居してからのお正月は、こうして弟たちを迎えて過ごすことが恒例になり、私たち一家が年末年始に夫の実家に帰省することはなくなりました。
正直、ほっとしています。
夫の実家に帰省するのって、本当に気を使うじゃないですか。
家族・親戚になると言いますが、結局のところ、夫の家族なんて他人ですもの、いきなり親しく過ごせるわけがありません。
おまけに夫はいつも「ぼー」っとしていて頼りにならないし。
今でも、ある年の年末に、夫の実家がある博多に帰省したときのことをよく思い出すのです。
そして「二度と帰りたくない」って思うのです。
ひどい嫁ですって?・・・そうかもね。
まあ聞いてください。
ずいぶん昔のことになりますが、娘を妊娠中だった年の暮れ。
夫とともに博多に帰省いたしました。
夫の実家に着きますと、そこでは大掃除の真っ最中。
年末ですものね。当たり前かもしれません。
でも、私の個人的な感覚から言えば、私たち夫婦がやって来るのがわかっているのに、お掃除中ってどういうことかな、って気がしました。
だって、久しぶりに息子が帰ってくるんですよ?
普通はキレイにして迎えてあげたいと思うものなんじゃないかな?って。
まあでも、そこは違う文化圏なんだろうと思って、私も積極的にお掃除に参加しました。
で。
10分後に気づきました。
「掃除してるの、私だけやん!」
って。
要するに夫の家族は極端に、「家事が好きではない人たち」の集合体。
お掃除してると言いつつ、みんな脱線しまくりで、
誰かが古いアルバムを見つけたと言っては、みんなでそのアルバムに夢中になり、
みかんをどこに置くかという揉め事が延々と続き、
趣味に使うモノを片付けるつもりが、その趣味に関する薀蓄語り会になり・・・と、ちっとも掃除が進まない。
年末の大掃除でもそんな具合ですから、普段の掃除なんて推して知るべし、私がどれほど孤軍奮闘、必死でお掃除しても、ちっともキレイにならないんですよ。
玄関の外にまであふれる荷物、
何度拭いても汚れがこびりつく雑巾、
照明器具の上の分厚いホコリ、
置きっぱなしの空き缶の下にはサビでできた輪染み・・・。
要するに、そこはゴミ屋敷の一歩手前。
たった一日のお掃除でどうにかできるものではありませんでした。
妊娠中だというのに、椅子の上に乗って照明器具を拭いているそのすぐ下で、夫とその家族がのんきにアルバムを見てわあわあ言ってるのを見たときには、本当に「イライラ~!」としました。
相手が夫だけなら、「ちゃんとやって!」って言えるけど、まさか夫の家族に向かってそんな差し出がましいことは言えないし・・・。
黙々とお掃除しながら、自分の「まじめ」な性格を呪ったなあ・・・そういえば小さい頃から、お掃除当番なんかもサボれない子でした。とほほ。
極めつけはね・・・
夜になって、みんなでテレビを見ていたら。
火を噴きました。
いや、私の怒りじゃないよ?
びっくりびっくり。
正確に言うと、ヒーターから煙がぶわーっと噴きあがった感じ。
何事かと思いました。
おそらく、キチンとお手入れしなかったから、内部にたまっていたホコリに火がついてしまったのではないかと思われます。
つくづく深夜でなくてよかったです。
で、お掃除がキライ、ということだけではなくって、夫の家族はおそらくお料理にも興味がない。
なので次の日から、私は空腹との闘いに突入しました。
朝食は食べない、
昼食はお出かけ先の太宰府天満宮で名物「梅ケ枝餅」をひとつ。
夕食にはお寿司をとってくださったのですが、どうも私がいることで人数が増えているということを失念したらしく、人数分に足りない・・・。
気を使ってとても食べられたものではありません。
けれども私は当時、妊娠初期でいわゆる「食べつわり」の真っ最中。
空腹になると気分が悪くなって、どうにも苦しくってたまりません。なので夜になってから夫にこっそりと外に連れ出してもらい、大型スーパーのフードコートのようなところで、焼き鳥を食べた記憶があります。
なんだかもう、気を使いすぎてげんなり、げっそり、おまけにお掃除疲れと空腹でぐったりしながら帰阪して、自宅に戻る前に、私の実家に顔を出しました。
「博多はどうだった?」
と聞く母に、私は夫の実家であったことをそのままに話しました。
私としては「おもしろい話」程度の気持ちでした。
でも、母としては、また別の感想があったのでしょう。
泣かれました。
いや、別にいじめられてたわけでも嫁いびりされてたわけでもないと思うんだけど・・・とめっちゃ焦りましたが、「お腹が空いてた」は母に対しては禁句だったかな、と思います。
どこの世界でも母親にとっては、子どもの「お腹空いた」の声は特殊なスイッチですからね・・・。
そこからは、母による「食べなさい」攻撃が集中し、私はフォアグラかブロイラーか、いかめし用のイカのように食べさせられました。
空腹もつらかったけど、お腹がいっぱい過ぎてもつらい・・・。
私自身、お掃除もお料理も好きではないので、義実家のことをとやかく言えるわけではないのですが、とにかくもう、できることなら帰りたくない、というのが本音です。
今は弟一家が帰阪するので、それを理由に帰らないことを申し訳なく思いつつも、
「帰っても迷惑だろうしなー」
と思ってやり過ごしています。(本音=よそのお宅までお掃除したくない。プラスお正月からひもじいのもイヤ。)
娘に言わせると、
「ママはいつでもやりすぎ。なんでも必死になりすぎ。
その状況なら自分もお掃除しないで、適当にのらくらしとけばいいやん。」
だそうなんですが、それができる性格だったら苦労はしないわけで、でも確かに娘の言い分にも一理あるな、とは思うのです。特にお正月の度に思います。
なぜかというと、
弟の奥さん(義妹)がなんにもしない人だから。
この義妹、実にうらやましい性格をしていて、我が家にいる間、ほんっとうになーんにもしない。
食事の度に上げ膳、据え膳。
ごはんのおかわりでさえ自分ではしません。
お皿を洗ったことだって皆無。
うちのキッチンに入ったこともないんじゃないかな・・・。オープンキッチンですけどね・・・おそらく目に見えない結界があるんだろうと思われます。
私がせっせとお茶碗を洗ったり後片付けをしている時にはもう、彼女はこたつに入って寝そべって、テレビを見ながら大笑いをしています。
それを見ていると思うんですよ。
ああ、うらやましいなあ。って。
そして、すごいな・・・私にはできないなあ、とも思います。
義母がいる前で横になったこととかないもの・・・義実家の誰かがいる前で寝っころがれるとか、ほんとにすごい、とつくづく思います。
でも、そういう気の置けなさ、みたいなものが、相手との距離を縮める効果がある場合もあるし(←逆効果になることもあるだろうけど)、こういうキャラクターでいられることは得難い資質なのかもしれないなと感じます。
第一、義実家を敬遠してめったに立ち寄らない私のような人間よりはずっと可愛げがあるというものではありませんか。
(以前は連休の度に帰ってきてたんですよ・・・弟を東京に残してでも来てた・・・。
母がいくらなんでも頻繁過ぎる!こちらは憂鬱で仕方がない、と言い出して、
「そんなに何回も帰って来ないで!」
ということをオブラートに包んで何回も訴えたので、やっと年1回になった。ほっ。)
でもでもやっぱり、いくらなんでもちょっとな・・・とも思ってしまうんですよ・・・。
いや、私だって別にお皿を洗ってほしいなんて言ってません。
よそのお宅の台所って使いにくいし。
でもね、なんていうのかな、あるじゃないですか、お決まりの会話みたいなのが。
社交辞令というか、儀礼的定型文というか、そういうの。
「お義姉さん、せめてお茶碗洗います~」
「あらいいのよ、遠いところ来てくれてるんだから、疲れたでしょ、座っててー」
「ほんとにすみません~」
みたいな!
せめてそういう会話が一度でもあれば、私ももうちょっと気分よくお茶碗が洗えるんじゃないかと思うんですよっ!!!
・・・なんてことは、実生活では口が裂けても言えそうにないので、ブログで言ってみました。
あー、すっきり。
お正月に離れて暮らす家族と再会すること。
お互いの無事を祝い、これからの1年の息災を祈ること。
それってとてもうれしい、おめでたい行事ではありますが、実際には色々と大変です。
特に女性はね・・・。
自分の好きにできる年になったら、年末は旅行に行くとか、食事は全部外食にするとか、手抜きをすることに全力を尽くそう!と思っています。
最後になりましたが、今年もみなさまのご多幸とご健勝を心よりお祈り申し上げます。
また、弊ブログは相変わらずの駄文続きとなる予定ですが、引き続きよろしくお願いいたします。
少子化の行方
みなさま、こんばんは。
今日の午後、お買い物に出かけた街角で、こんな写真を撮りました。
ただの空き地。
ご近所の曲がり角に、唐突に空き地ができたのです。
実はこの空き地には、ついこの間まで、病院がありました。
個人病院だけど診療科もたくさんあって、入院設備もある、主に外科を得意とする病院が。
それが数か月前から取り壊しが始まって、すごーくびっくりしました。
子どもの頃から、ここには病院があるものと思い込んでいたので・・・。
私の家族のうち、この病院によくお世話になったのは弟でした。
私と違ってスポーツ大好き、男の子らしく落ち着きもなかった弟は小さい頃から怪我の連続・・・捻挫、脱臼、骨折、アキレス腱断裂・・・治ったと思ったらすぐに次の怪我をして、しょっちゅうこの病院に駆け込んだものでした。
まだ幼い私を家でお留守番させるわけにはいかなかったのでしょう、母は弟の通院に私も同行させましたから、私もよくこの病院に通いました。
今でも鮮明に覚えています。
玄関先のスリッパの山、待合室にあふれる人々、薄暗い階段、診察室前で患者の名前を呼ぶ看護婦さんの声、診察室のベッドを仕切るカーテンの色、先生の机の上に並ぶ茶色い瓶の数々。
中でも印象的だったのは待合室の光景です。
外科ですから、そこには怪我をした子どもたちがいっぱい。
でも子どもって怪我をしてても「元気」なんですよね・・・。
待ち時間の長さに辟易して、いつの間にか始まる鬼ごっこ、「だるまさんがころんだ」、階段を使って遊ぶ「グリコ」(←知ってる?)・・・もちろん私もやりました。
たとえ包帯ぐるぐる巻き状態でも、ギプスをはめてても、松葉杖をついていようとも、子どもって全然じっとしていない!
おまけに診察室からは、子どもたちの泣き声が大音量で響き渡り、それに負けじと張り上げる先生の声、騒ぎすぎる子どもたちを叱る親の怒号や看護婦さんの声・・・まさに阿鼻叫喚の嵐、ほんっとうにうるさい場所でした。
(病院だけでなく、街中どこに行っても昔は今よりずっとうるさかったものです。
もしも街中でお子さんを「うるさい」「迷惑」と言われたら、この記事を印籠のように差し出すといいですよ。少なくとも今現在、中年と言われる年齢の人間は絶対に小さいお子さんに文句を言える立場ではないと思う…自戒を込めて。)
結婚後、しばらく別の街で暮らしていた私が、10年ぶりくらいに今の街に帰ってきたころ、久しぶりにこの病院を訪れたことがありました。
その時の驚きは今でも忘れることができません。
患者が年寄りしかいない。
しかも「静か」なんですよ!どこもかしこも。
いや、病院なんだから、静かで当たり前なんですけど、この病院に関していえば、とにかく「大量の子どもたち」と「うるさい」印象しかなくて、「しーん」としている待合室にいる間、ずっと
「見慣れた場所なのにここじゃない感」
「異次元の空間に迷い込んでしまった感」
が拭えませんでした。
包帯を変えてもらったり、ギプスをはめてもらっている子どもたちは消え失せて、そこにいるのは腰とか膝に電気を当ててもらっているお年寄りばっかり・・・。
待合室にはテレビが置かれていて、それにもびっくり。
テレビの音声がちゃんと聞き取れるってことですものね・・・昔は考えられませんでした。
私は別に少子化を嘆くわけでも、未来に危機感を抱いているわけでもありません。
政治家や経済界のエライ人じゃあるまいし、そういうことを心配しなくてはならない立場ではありませんから。
なにより、子どもを持つかどうかという非常にデリケートで個人的な話に、横からあれこれ言われたくないじゃないですか、誰だって。
私もそういうことを若い人に向かってとやかく言うような、お節介でデリカシーのない人間にはなりたくありません。
けれども、静かすぎるくらいに静かな待合室にいる間、そしてとうとう建物ごと無くなって、更地になってしまった病院の跡に立ってみると、
「ああ、少子化ってこういうことなんだ。」
という感慨が心の底から湧き上がってきて、その感情の置き場に少し戸惑ってしまいました。それはなかなか「うら寂しい」感情だったのです。
国家の存続とか、経済効果とか、そういう大きなことではなくって、ただただもう、単純にシンプルに、
「ああ、あんなに賑やかだったのに。」
「うるさかったけど、活気があったなあ。」
と、まるでお祭りが終わった後のような、物悲しい気分になっていることを痛感せずにはいられませんでした。
更地になったこの土地には、きっと新しいマンションが建つのでしょう。
せめて、その新しいマンションには、小さいお子さんのいる家庭がたくさん入居してくれるといいな、とふと思いました。
おまけ。
おそらく、当記事が今年最後の更新になると思います。
今年も細々と私がブログを続けてこられたのは、ひとえにみなさまとの温かい交流があったからこそです。
年の瀬に、あらためてみなさまにお礼申し上げます。
今年一年、本当にありがとうございました。
来年もみなさまにとりまして、すばらしい一年になりますように。
そして来年も今年と変わらぬご高配をいただけますようお願い申し上げます。
それではみなさま。
よいお年を。